大丈夫

 冬桜さんは実験がない日、いつも部屋の中でぼーっとしている。

確かに彼女の独居房には娯楽という娯楽がない。見かねた俺は数冊、簡単な絵本を冬桜さんに渡してみた。


「…………?」

「あ、えっと……暇そうだったから……本、読みませんか?」

「……いいの……?」

「どうぞ。読み終わりましたらこちらにもう数冊あります。よければどうぞ」


 御伽話を真剣に読む姿が小さな子どものようで、少し不釣り合いだが、興味を持ってもらえたことに越したことはない。

 それから冬桜さんは毎日本を読むようになった。学問を生業とする自分には喜ばしい事態だが、夜中まで本を読もうとして眠りたがらないのには困ってしまった。

そういう日は大抵彼女が眠るまで俺が読み聞かせをしているのだが───


「……そこで勇者は言いました『僕が悪い神さまを倒して───」


冬桜さんはいつも、気付かないうちに夢の中に落ちている。


「今日はここまでみたいですね。おやすみなさい」


 ひとつため息を吐いて部屋を去ろうとする。 背後からすすり泣く声が聞こえてきた。一瞬身構えたが、正体は幽霊でも祟りでもなく、冬桜さんのものだった。


「いか、ないで……」

「…………」


 考え無しに彼女の寝ているベッドに腰かけたはいいものの、複雑な心境だ。被検体と同衾してはならない、という規則がある訳ではない。しかし俺にも倫理というものがある。二十歳ハタチそこらの研究員が十代の少女と同衾なんて、彼女が許しても俺が許せない。

 そんな内心は露知らず、悪夢の中の冬桜さんは俺の手を掴んできた。


「独り……に、しないで……」


 咄嗟にその手を握り返すと、安心したのか泣き止んでくれた。

 このまま朝までこうしているべきだろう。意外かもしれないが、眠る必要がないことが役立つのはこういう時だけだ。

 あの後、また泣き出す事もなく無事に朝を迎えることができた。

あとは彼女が目を覚ますのを待つだけだが……


「ん……」

「おはようございます、冬桜さん。昨晩は大丈夫でしたか?」

「え……んぅ……やああぁぁぁぁあ!?!?」


朝の研究所に、けたたましく被検体のモーニングコールが響き渡る。


「なんで……なんでっ、お兄さんが…ここに…!?」

「昨晩、うなされていたんですよ」

「私……昨日の夜……」

「無理に思い出さないでください。一人にしないでほしい、と寝言で頼まれたので、今まで隣にいました」

「そっ……か、ありがとう」


 冬桜さんはどんな悪夢を見ていたのだろうか。多分、酷い実験を受ける夢とか、そういうものだろう。

こういったありふれた悲劇が、この研究所には掃いて捨てるほど起きている。


「今日も試験ですが、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫……」

「…………良かったです。朝ごはん、用意できてますよ」


 しかし、それが被検体の役目だと、俺自身も納得していた。

 良くも悪くも、お互い疑う事を知らなかったのだ。



羽化まで残り▇▇年。

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