牢獄の魔女

「ここでは無理だわ」

「……え?」

「こんなところで、魔法書なんて書くことはできない」


 ヘクターを振り返った彼女の目は暗い。その瞳がランプの小さな火の色で赤く照り返されても、なお。


「えっと……じゃあ、あの魔法書は?」


 ラスカから送られてきた魔法書は、十幾冊にも及ぶ。それらは全てこの監獄から出てきたものに相違ないのだ。となれば、必ず此処に書いた者がいたはずで。

 ユーフェミアは爪を噛み、眉間に皺を寄せた。


「思えば、魔女の疑いを掛けられた人物に紙やインクが与えられている事実を気にするべきだったのよ」

「はい?」

「執筆者は、魔女と知られても優遇されるだけの立場だったってこと。この監獄に、貴族用の牢はない?」


 ヘクターは慌ててパンフレットを取り出した。ユーフェミアと一緒に覗き込む。


「……ありますね。城塞の居住階を利用して、身分の高い犯罪者を収監していたそうです」


 順路ではまず地下牢への道が示されていたので、気が付けなかった。


「じゃあ、そこに行ってみましょう」


 ユーフェミアは階段へと足を向けた。ヘクターは彼女の姿を目で追い、明かりが遠ざかっているのに気が付くと慌ててその後を追いかけた。


 足早に階段を登っていくユーフェミアの背中を見つめる。藍色のローブを纏ったその背は、ヘクターからすると小さい。けれど、先程までの頼りなげな雰囲気が霧散していた。聡明な姿に驚かされた。いつものユーフェミアではないようだった。

 ――なんなんだ。

 ヘクターの胸がざわつく。ずっと落胆させられてきた。ランプの件は、失望の決定打だった。なのにこんな期待をさせられるような姿を見せられて。

 自分の勘を信じていいのか、それとも期待するのを諦めるべきか、判断がつかない。

 もやもやした気分に、思わず溜め息が漏れた。その音は、この狭い場所で反響してしまったようだった。ユーフェミアが足を止めて振り返る。


「どうかした?」


 こちらを見下ろす黒い眼差しを、何故だが怖ろしく感じた。


「……あ、いえ。何でもないです」


 ユーフェミアはまた先を行く。ヘクターも少し気を引き締めて、後に続いた。


 螺旋階段を登り終えて、狭い通路を戻る。大広間の扉の前を通り抜けて、今度は先程行かなかった反対側へと向かう。

 格子扉を開けた先は、また通路。パンフレットの間取図によれば、厨房や倉庫、事務所としていた部屋などがあるようだった。

 そこらは無視して、二階へ。折返しの階段は、地下牢に向かうときのものに比べて、登りやすかった。整えられていたのだろう。扱いの差が分かるというものだ。

 階段から真っ直ぐに伸びる廊下を行く。手前にあった扉を開けると、そこは如何にも貴族の部屋らしい一室だった。天蓋付きのベッド、書き物机に、本棚、暖炉。調度品は最低限で色合いは地味だったが、品のいい部屋だった。月明かり差し込む窓には、鉄格子。ここも牢の一つだったことが分かる。


「わりと、住み心地良さそうですね」


 部屋に入る。足元には絨毯が敷かれていて、石造りの冷たさを感じさせない。


「地下と比べて快適そうじゃないですか。牢屋感がまるでない」

「牢は牢よ」


 気弱そうなユーフェミアには珍しく、吐き捨てるようだった。ヘクターは驚いて顔を上げたが、ユーフェミアはヘクターの視線を意に介さず、真っ直ぐに本棚へ向かう。

 本棚は、その役目通り本が敷き詰められていた。装丁が立派な本ばかり。昔は室内装飾インテリアのために装丁の良い本を集めていたというから、それでだろうか。試しに一冊抜き取り開けば、宗教の本だった。教えを学び己が罪を悔い改めよ、ということか。このあたりはやはり牢獄らしい。

 ユーフェミアは本の背表紙を一冊一冊凝視していたが、手掛かりになるものが見つからなかったらしく、ランプを掲げた腕を下ろした。華奢な肩が落ちる。

 彼女は気を落としたまま、今度は書き物机のそばに寄った。机の抽斗ひきだしを開ける。しまってあるのは、展示用に整理された小物たち。

 目的のものはやはり見つからなくて、抽斗を閉めたユーフェミアは、その体勢のまま溜め息を吐いた。


「……次、行こうか」


 別の部屋も、似たようなものだった。特筆して述べる箇所がない。ユーフェミアは本棚を眺め、今度は空っぽの抽斗を開け、何も見つけられずに唇を噛みしめた。

 真剣な様子に、ヘクターは呆然とする。


「先輩、どうしてそこまで……?」


 気が付けば、疑問を溢していた。彼女の熱量は、尋常ではなかった。ただの薄っぺらい魔法書。使うかどうかも分からないものの正体に、どうしてそこまでこだわるのか。

 ユーフェミアは、何も置かれていない机の表面を撫でた。そして、室内を振り返った。部屋を見渡し、徐ろに口を開く。


「ここは確かに、地下より過ごしやすそう」


 先程ヘクターを否定した口で、真逆のことを言うものだから、ヘクターは眉を顰めた。


「こんなところだったら、少しは――」


 憂いの眼差しで部屋を見つめ、独白して、首を振る。ヘクターの疑問に答えるというよりも、自らの胸のうちを汲み出しているようだった。

 単に頼りないとは異なる雰囲気に、ヘクターはユーフェミアの言葉を辛抱強く待つ。

 ユーフェミアは、今度は視線を窓の外に向けた。網掛けの空の間から、丸い月がこちらを見下ろしている。


「私も、牢に入っていたことがあるの」

「……え?」

「〈罪人の塔〉。知っているでしょう?」


 そこは、王宮の傍にある、上位貴族用の牢獄だった。王家の管理下にあり、王家に仇なした者が入れられる。王家が私刑のために使った場所でもあるという。今は使われていないはずそこに、ユーフェミアは入っていたという。


「いったいどうして――」


 呆然とするヘクターを前に、


「私が、〈再臨の魔女〉だから」


 淡々とユーフェミアは告げる。ヘクターがずっと待ち望んでいた真実を。


「気づいていたんでしょう?」


 再びこちらを見たユーフェミアには、暗い影が落ちていた。月を背にしているばかりに落とされた影。彼女の身体の輪郭を白くなぞるだけで、その表情は見えない。

 けれど、ヘクターは、何か恐ろしいものを見ている気がした。待ち焦がれていた真実なのに、歓喜は訪れなかった。それは、彼女が期待外れの人物だったからではなく――


「……どうして」


 声が喉に絡んだ。背中に冷や汗が落ちる。


「見ていれば分かるわ」


 その答えは、気恥ずかしさよりも罪悪感をヘクター呼び寄せた。悪事を見つかった気分。隠し通していたはずなのに。


「……いや、だから、どうして! 聖魔女の生まれ変わりが、〈罪人の塔〉になんて!」


 聖魔女セラフィーナは、誰もに愛される国の英雄だった。そんな彼女を収監する理由が、ヘクターには分からなかった。


「セラフィーナの生まれ変わりだからよ」


 ユーフェミアの影が、僅かに揺らいだ。笑ったのだ。


「私の身体をセラフィーナに明け渡させるため。私の心を殺して、絶望させて、セラフィーナの魂を私の身体に移し換えるため。私を犠牲にしてね」


 じわじわと水が染み込むように、ヘクターの心に驚愕と恐れが染み込んだ。〈罪人の塔〉が絡むということは、国が絡んでいたということで。国が彼女に告げたのだ。お前は要らない、と。

 ただの一人の娘である、ユーフェミアに。


「だから、牢獄がどういうところなのか知っている。ここは心を殺す場所。魔女と言われた人たちは、あの地下の暗闇の中で――そうでなくてもこの狭い囲いの中で、じわじわと心を殺されてきたのだと思うとね」


 救ってあげたいという気持ちになるのだ、とユーフェミアは言った。

 ヘクターの耳に、その言葉は届かなかった。それよりも自らの背を叩くものに気を取られていた。気づいてはいけない何かが、そこにある。そこから目を逸らすのに、心はいっぱいいっぱいだった。


「だから私は、この魔法書のことが知りたいの。魔女たちがこの牢獄で何を願ったか、汲み取ってあげたい」


 ユーフェミアがこちらへ歩み寄る。ヘクターはおののいた。――今なら彼女に何をされても、ヘクターは反抗できない。

 だが、彼女はヘクターの脇を通り過ぎただけだった。そこの扉があった。彼女は、部屋の外に出ようとしただけだった。


「……次に行こう。もう一室あったでしょう」


 蝶番が小さく軋む。ヘクターは止めていた息を吐き出した。何もされなかった。安堵したヘクターに、


「ねえ」


 背を向けるユーフェミアは、言葉を投げる。


「貴方も、セラフィーナのほうが良い? ――私は、要らない?」


 冷たい水を浴びせられたような衝撃。

 ずっと自分が、彼女に何を求めていたのかを悟った。後ろめたさの理由を知った。自分の愚かさを悟った。


「ち、違――っ!」


 慌てて振り返っても、そこにユーフェミアの姿はなく。

 月明かりだけが差し込む部屋の中、ヘクターは自らの罪深さに立ち尽くした。

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