第30話 存在感のある置物
野口様の自宅近くのコインパーキングに車を駐めた。
「菜月、野口様のご自宅はすぐ近くだ。ここからは歩いていこう」
「分かりました」
売却はおそらく任せてもらえるとは思う。だからと言って気は抜けないはずなのだが、菜月はどこか心ここに在らずといった様子である。
「一応媒介はもらえると思うが……万が一もある。気を引き締めていこう。予定通り僕がメインで話すから菜月はたまに相槌を打ってくれ。頼むな」
「話の腰を折らない様に、置物になっておきますので安心してください」
「いや、そこまで極端な事はしなくていいんだがな……」
本当に任せて大丈夫だろうか?僕の話を聞いている様には思えず少し心配になった。
確認事項について会話をしているうちに、あっという間に野口様宅に到着した。
築年数がそれなり経っている事もあり、前に訪問した時から十数年経っているのだが、さほど変わっていない様に思えた。
懐かしさを覚えながらブロック塀にあるモニターホンを鳴らす。
すぐに返事があり、門扉を開けて敷地の中へ入る様に促された。
僕達が玄関へ到着するとほぼ同時に扉が開き、野口様が中から顔を出した。
「やぁ、高槻君。久しぶりだね。いや、高槻社長とお呼びするべきかな?立ち話もなんだから、2人とも早速中へどうぞ。こっちは全員揃っているよ」
「野口様、ご無沙汰しております。私の事は昔と同じ様に呼んで下さい」
「そうかね?それじゃ高槻君、それとそちらのお嬢さんもどうぞ」
「ありがとうございます、お言葉に甘えてお邪魔させていただきます」
「お邪魔致します」
僕と菜月はそのままリビングに通された。リビングには野口様の奥様、息子さんとそしてもう1人……事前に聞いていなかった女性が居た。
気にはなったものの、先ずは奥様に挨拶をする。
「奥様、ご無沙汰しております」
「高槻さん、ようこそ。お元気そうで何よりです。こちらは息子の尊と義娘の純香です」
「お初にお目にかかります。株式会社エステートツキの高槻優大と申します」
「高槻さん、初めまして。息子の尊です。今日はあなたにどうしても直接お礼を言いたくて妻の純香と一緒に参りました」
そう言って2人は深々と頭を下げた。
「お礼ですか?」
身に覚えのない感謝の言葉に呆気に取られた僕は、つい聞き返してしまった。
「尊、その話は後にして先に自己紹介を済ませてしまおう。そちらのお嬢さんの名刺もいただけるかい?」
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。皆様、お初にお目にかかります。株式会社エステートツキの矢野菜月と申します。本日はどうぞ宜しくお願い致します」
「ほう……菜月さんと言うのか。だからこのロゴなのか、いやはや高槻君も隅に置けないね」
野口様は名刺と僕達を見比べながら、微笑ましいものを見る視線を向けてくる。
彼が何を言いたいのか察しがついたし、そう思われる事は想定済みである。
こういう時は照れるより毅然とした態度を取る方が追及は少なくて済むというものだ。
「恐縮です。皆様、本日はお時間をいただきありがとうございます」
「あなた、そういう事を言うのは野暮ですよ。お二人ともお気を悪くしないで下さいね」
「奥様こそお気になさらないで下さい。ただ少し気恥ずかしいのと、矢野が仕事になりそうにないのでお手柔らかにしていただけると助かります。それでは早速ではございますが、売却についての経緯を教えて頂けますでしょうか?」
あえて否定して、野口様の機嫌を損ねる必要はない。
ロゴが決まった日からこういう事態を想定していた。トイレで何度も練習した甲斐もあり受け答えもスムーズに出来たと思う。
隣で恥ずかしそうに俯いている菜月に一体何しに来たんだと言いたい気持ちを抑え、とりあえず放っておく事にした。
「高槻さん、私の方からお話しさせて下さい」
僕の質問には、息子である尊さんが答えてくれる様だ。僕は彼の話に耳を傾ける事にした。
僕が野口様の家を最初に訪れた頃、彼は中学生だった。
当時一度も会う事がなかったのは受験生だった彼が塾に通っていたのが理由だった。
一時は高校には行く事さえ危ぶまれていた彼だが、その後無事に進学をして医者免許を取得。大学卒業後、この近くの病院で働き始めたとの事だった。
そして彼の隣にいる純香さんは小学校からの同級生らしく、高校に入ってから付き合いが始まり、2年前に結婚したそうだ。
尊さんは、この家に住み続けられたからこそ彼女と結婚する事が出来たと僕に礼を言った。
「なるほど、そういう経緯がおありでしたか。尊さん、私には勿体無いお言葉です。こうして今があるのは皆様のお力で掴み取った結果です。大変な状況下にありながら経験の浅かった当時の私に全てを託して下さった事、今でも感謝しております」
全てを聞き終えて、僕は感謝を述べた。
「おいおい、2人の馴れ初めの話ばかりで肝心な事をまだ話してはないじゃないか。まあ、いい。ここからは私から話そう」
語り手が尊さんから野口様へと変わる。
「実はな高槻君。私は会社を人に譲る事にしたんだ」
「そうなんですか!?」
僕は素直に驚いた。野口様はまだ60代中頃だ。隠居するには少しばかり早いと思った。
「実は数年前からは会長職について、ほぼ隠居みたいなものだ。私の意志を引き継いでくれる優秀な人材に恵まれてな。その男に任せて私は故郷の大阪に戻ろうと思っている」
「そうでしたか……。近いとは言え、ご子息とも距離が出来てしまうのは寂しい事ですね」
「それが息子は既に大阪に居るんだ」
情報過多で頭が混乱しそうになる。彼はこの近くの病院で働いているのでは?
そんな僕を野口様は楽しそうに見ながら順を追って説明してくれた。
何でも野口様の会社を継ぐ人というのが、純香さんのお兄さんとの事。
2人の付き合いがきっかけで、お兄さんは野口様の会社へ入社し、そして会社を任せてもらうまでになったそうだ。
ここまででも物語みたいだなと思っていたのだが……話はこれで終わらない。
野口様が純香さんへ目配せをした事をきっかけに語り手が今度は彼女に変わった。
「私の祖父は大阪で病院を営んでおります。祖父は期待してくれていたのですが、父も私も医者にはなれませんでした。病院は祖父の代で終わりにするつもりだったそうですが、尊が跡を継いでくれる事になりました。先々月から大阪に移り、彼は祖父の病院で働いてます。祖父も彼には感謝をしている様です」
ここまでくれば2人の出会いは運命と言わざるを得ないな。
隣を見ればさっきまで顔を俯かせていたはずの菜月が、目をキラキラさせながら前のめりで話を聞いていた。
女性ってこういう話好きだよな……その様子につい苦笑が漏れてしまった。
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