SCENE-002 獣の本性
ちょっとした出来心だった。
私のことを襲ってくる心配のない〝大きなもふもふ〟を前に、つい魔が差した。
「――〔
あ、まずい。
そう思った時には、もう
私の頭なんて、その気になれば丸齧りにしてしまえそうなほど大きなオオカミに姿を変えている仁の首に、ぐるりと茨模様が浮かび上がって。ふっさりとした毛並みの一部を首輪のように染め上げる。
「なんで
自分から手を出したことを棚に上げた私が思わず叫ぶと。仁は、自分のされたことがちゃんとわかっているのか心配になってくるくらいの落ち着きっぷりで首を傾げて。
『なんで、って?』
初心者でもまず失敗しない、というレベルで使役の簡単なスライムだともっと抽象的な、感覚的に理解するしかない〝思念〟しか伝わってこない。スキルで〔支配〕した眷属との〝繋がり〟から、鼓膜を素通りして直接頭の中に響いたその声は、間違いなく、私がうっかり〔支配〕して、
「いま〔
そう言って、私が手を伸ばした途端。それまでバッサバッサと尻尾で床を掃いていた仁は素早い身のこなしで立ち上がると、私の手が届かないところまで離れていってしまう。
「こらっ。なんで逃げるの!」
そんな仁のことを追いかけて、私が立ち上がろうとすると。血迷った私に双子の片割れが〔支配〕されても知らん顔で人の膝に懐いていた狼が、私の膝に乗せている頭にぐっ……と力を込めてきて、私の邪魔をした。
「ロウっ」
立ち上がればもののけ映画に出てくる山犬並みの巨体にそういうことをされると、自己強化ができるスキルに持ち合わせがない私にはどうすることもできなくて。
少しの間、私がジタバタと暴れて、ようやく。狼はいかにも渋々……といった風情で、私の膝に乗せていた
「ちょっと……っ」
そのまま退いてくれるのかと思っていたら、今度は鼻先で体を押されて。
押し返そうにも、どうにもならないくらいの力をかけられて。じわじわと傾き、最後には床へと倒れた体の上へ、狼がのしっ……と乗り上げてくる。
そうして、完全に押さえ込まれた私の上で狼がふすーっ、ともらした鼻息は、まるで「やれやれ」とでも言わんばかりのそれだった。
『狼にもしないと不公平だよ』
「あんたの〔支配〕を解けば平等でしょうが。こっち来なさい!」
『それはやだ』
仁は仁で、遠くの方でつーんとそっぽを向いて見せたから。ここに私の味方はいない。
「――姫」
やがて痺れを切らしたよう、私にのしかかったまま〔獣化〕を解いた狼が、私の手を掴んで自分の首元へと持っていく。
「〝仁だけ〟なのは不公平だ」
「だからジンの〔支配〕は解くって言ってるでしょ」
「俺にも〝首輪〟がほしい」
「人の話聞いてる?」
「お前が先に手を出したんだぞ」
「だーかーらーっ、うっかり魔が差しただけだから! ちゃんと解くって言ってるの!」
「解かなくていい」
「いいわけないでしょ!?」
「俺もお前に〔支配〕されたい」
強請るような甘い声とともにかぷっ、と唇を噛まれて。一瞬、頭の中が真っ白になった。
「なっ……」
ダンジョンの中では予期しないアクシデントに見舞われても冷静に対処しなければいけないと、教習所でしつこく言い聞かせられたことを不意に思い出したけど。ここは三人で借りているアパートのリビングで、危険なモンスターがどこから襲ってくるかわからない、ちょっとした油断が命取りになるような
安全な場所だと気を抜いていたところを襲われて。私が正気を取り戻すより、戻ってきた仁が狼のことを蹴り飛ばす方が早かった。
〔獣化〕を解いて人の姿に戻った仁の、無駄に長い足が視界を横切って。私の上にのしかかってきていた狼がいなくなると、狼に瓜二つの仁が私のことを抱え起こして――
「この〔支配〕を解いたら、俺も姫にキスするよ」
私と額同士をくっつけながら、耳がおかしくなったんじゃないかと疑いたくなるほど甘い声で、私のことを脅しはじめる。
「このままにしてくれるなら、そこのケダモノからも守ってあげる」
「お前……それはずるくないか」
容赦なく蹴り飛ばされて、呻くような声を上げた狼に、仁は見向きもしない。
焦点がぼやけそうなほど至近距離からじっ……と私のことを見つめながら、私の返事を待っていた。
このまま仁のことを〔支配〕したままにしておくなんて、ありえない。
今すぐ〔解放〕するべきだとわかっているのに。狼に
〔解放〕したら仁にまで噛まれてしまう。
こんなことになるなんて、露ほども考えていなかったから。私は酷く混乱していた。
「もしかして、なんだけど……」
「うん」
「二人とも、私のこと……?」
自分が何を言っているのか、よくわからなくなってくる。
だって。二人にとって、私は
「俺も狼も、姫のことが好きだよ」
「それって、家族として……よね?」
「――うん」
そうだよね、とほっと息を吐いた私に、仁がとろりと視線を甘くする。
視線を甘く感じるなんて、そんなことがあるわけないのに。そうとしか感じられない仁の視線は、今の私には空恐ろしいほど雄弁だった。
「姫と家族になりたい。
俺も狼も、そういう意味で、姫が好きだよ」
そろそろ
慣れない〔獣化〕を解いたばかりの獣士二人が、服を着ているはずもなく。
「あ……」
今までなんとも思っていなかった二人の裸が、突然とんでもなく淫らがましいもののように思えてきて。
ぎゃーっ、と我ながら可愛気のない悲鳴を上げて自分の部屋へと逃げ込んだ私はこの日、初めて内鍵の存在に感謝した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます