第15話 混沌
ルミネが倒れてから5日が経った。
レムはその間ずっと、ルミネに会えない日々を過ごすしかなかった。
ルミネのことが気にかかるあまり病室の外を出歩く気にもならず、ずっとベッドの上に座っているか、横になっているしかなかった。
何もしない、できないということがこんなにも辛いということを改めて思い知らされる。
毎朝体温を測るためやってくる看護師や回診にやってくるいつもの医師にルミネはどうなったのかを聞いても、歯切れの悪い言葉か当たり障りのない回答しか返ってこない。
管轄の病棟が違うからわからない、もしくは処置を受けて無事"らしい"と、言われるぐらいだった。
無事なら会いに行く、と言ったら「まだ出歩ける状態じゃない"らしい"」と言われ止められた。
そうして今日も目を瞑って冷え切った朝の空気を吸い込んでいる間に、レムの病室のドアが開く。
朝の回診のため、いつものように医師が女性の看護師を伴って入ってくるのだ。
朝一番に、ノックひとつでずかずかと踏み込んでくるのは閉口ものだが、そういうルールになっているのだから仕方がない。
毎日のルーチンに組み込まれた大したことのイベントだ。
それでも不快に感じるのはレムがルミネへの心配を抱えて苛立っているからに他ならない。
どうせ今日も色よい回答は貰えまいと憂鬱になりながら、レムは目を開けて起き上がる。
だが今日は様子が違うようだった。
「おはようございます。担当のギブソン先生ですけど、今日は朝から学会で発表があるので、僕が代わり担当しますね」
ネックストラップにぶら下がったネームプレートを差し出す、背の高い柔和な表情の男性は、いつもの見慣れた歯切れの悪い回答しかしない医師ではなかった。
丁寧にもレムの目線の先に掲げられたネームプレートには、オリバー・ジョンソンと記載されていた。
痩せて少し骨ばったの医師の顔をトリガーに、レムの脳裏に記憶の断片がフラッシュバックする。
レムはその顔に見覚えがある。
ルミネがエントランスホールで倒れた時、職員の連絡を受けて最初にやってきた医師だった。
「アスプレイさんですね。ええと」
ジョンソンはベッドの上のレムに目線を合わせるようにひざまずいた。
それから看護師の差し出してきたデータボードに魔力を通し、アンロックする。
データボードはジョンソンの胸元下で浮遊しながら、操作に応じてレムのあらゆる記録を提供する。
「食事の量がだいぶ減ってますね。何か調子の悪いところとか……それか、心配ごとなどありませんか」
ジョンソンとレムの目が合う。
レムに迷いはなかった。
「ルミネ……この前エントランスで倒れた女の子……彼女はどうなったんですか」
虚飾や遠慮、駆け引きすらない。そんなことを考えている余裕がなかった。
ただストレートに、胸の裡で淀んだままになっている疑問をジョンソンにぶつける。
ジョンソンは目を細める。
「そうか、あなたが」
現場にレムが凍り付いたまま突っ立っていたことを、ジョンソンも思い出したようだった。
長身痩躯の医師はわずかに目を伏せて十秒ほど考え込んだ後、自ら沈黙を破る。
「ご安心ください、彼女の意識は戻っていますよ。おととい高度治療室からもとの病棟に戻ったところです」
看護師が眉根を寄せ、何か言いたげな表情をする。
ジョンソンは横目で視線を送ってそれを制した。
「それは、本当ですか」
1秒も経たない間のやりとりだったが、レムはそれを見逃さなかった。
ここ数日、看護師たちに回答をはぐらかされてきたレムは、ジョンソンの言葉も簡単には信じられなくなっていた。
「ええ、ええ。その判断ができるのは、担当医の僕だけですから」
自分の患者を安心させようと、ジョンソンは精一杯の笑顔を見せる。
肉の削げた顔に浮き出るぎこちない笑みはお世辞にも快活とは言えない。
だがそれが却って作為のない誠意のようなものを滲ませる。
ジョンソンの表情を見たレムは、自然と彼の言葉を聞く気になっていた。
そんなレムの様子を見たジョンソンは、同伴の看護師に少し席を外すよう伝えた。
看護師はまだ何か言いたげだったが、レセプションで待機しています、とだけ言い残して不承不承病室を去っていく。
ジョンソンは緊張した空気を丁寧に解きほぐすかのように、ベッドに座ったレムの目線に合わせて跪いたまま小さく頷いて言う。
この痩せた背の高い柔和な医師は、レムがルミネについて聞きたいことが山ほどあるのを察して、質問を促しているようだった。
「ルミネと今までずっと一緒に居て、魔法が使えないってこと以外は何の問題もないように見えました。でも急に倒れて……ルミネの病気って、一体なんなんですか。」
レムは思っていた一番の疑問をぶつける。
今回ルミネが倒れたことは、レムにとってはあまりにも唐突すぎる出来事だった。
だが、ジョンソンはすぐには答えない。
慎重にレムに話すべき言葉を探っているようだった。
「正直言うと全てを話すことが、あなたや彼女にとって良いことなのか、僕は確証が持てません」
ジョンソンの表情には明確な逡巡の色が見える。
そこまで渋る内容だということは、この態度の裏に隠れている事実が好ましいものであるはずはない。
「……いえ、話して頂けるなら、聞かせて下さい。私は入院してからずっとルミネと一緒に居ました。今さらあの子のことについて、知らないふりはできない」
それでも、レムはジョンソンに事実を話すよう促す。
停滞を選び、何ごともなかったかのように振舞うことはできない。
そうしてしまえば、きっと後悔する――レムはそう直感していた。
「わかりました」
レムの覚悟に応えて、ジョンソンが頷く。
話すべきことを話す覚悟を固めるように。
「……まず、知っておいてほしいのは、彼女の抱えているモノは『魔法にまつわる一切に関わることができない』といった単純なものではないということです」
「ですがルミネに最初会った時、あの子自身がそう説明して……」
「その時は、彼女にも詳しく話す意味や理由がなかったからでしょう。そうして同情を買ったり哀れまれるのをよしとはしない方ですから。それは、おそらくあなたの方がよくわかっているはずです」
ジョンソンの言うとおりだった。
レムはルミネの心情をなんとなく理解できる気がした。
レムに苦しみを打ち明けられた時も、ルミネはありきたりな同情や哀れみの言葉など一切口にしなかった。
それはルミネが、人間の内にある苦しみの本当の辛さは自分にしかわからないと知っていたからだろう。
ルミネもその苦しみを感じていたのであれば、安易な同情や哀れみは却って虚しいことも嫌と言うほど味わったはずだ。
レムは小さく頷いて、ジョンソンの話を聞く覚悟を固める。
「彼女の病は、今も進行しているのです。彼女が病にかかった8年前から今まで、少しずつですが確実に」
「進行すると、どうなるんですか」
「彼女の脳の奥底にある小さな病巣は、最初こそ身体内外の魔力を全てカットするだけだった。『だけ』と言うのもおかしいことですが。しかし、その病巣は徐々に大きくなり、魔力に関連しない脳機能にも影響を及ぼすようになったのです」
「それは……」
レムは続く言葉を発そうとした。
だが、出てこない。喉の奥に栓でも押し込められたかのように空気と言葉が堰き止められる。
ジョンソンの言っていることが何を意味するかはわかっている。
否、わかってしまう。
この病院に入院する前、診察の時にかけられた医師の言葉が、嫌でも脳裏に浮かぶ。
レムの脳に出来た、特定の魔法を酷使して生まれた病変部――それが拡大し続ければどうなるか。
そして、同じことがルミネにも起きるのだとしたら。
レムは続く言葉を発する代わりに、ジョンソンの目を見つめた。
祈るように、あるいは縋るように。
自分の心に差した直視できない真っ黒な影を、否定で塗りつぶして欲しかった。
「それは、やがては生命維持に必要な脳組織が失われ……死に至るということです」
そして、背に差し迫った漆黒の闇は、ついに否定されることがなかった。
レムはジョンソンの宣告に対して、何も反応することができないでいた。
肚の奥からこみ上げてくる様々な感情を堪えるのに精いっぱいだった。
努めて落ち付こうと、喉元までせり上がってくる感情に名前を付ける。
自分の気持ちを他人事のように腑分けして、痛みから逃れたかった。
そして、できなかった。
「ルミネは……それを知っているんですか」
「はい。最初から、知っていました」
レムは目に涙を溜めながら、やっとのことで言葉を絞り出す。
悲しみ、怒り、苦しみ、恐怖――あるいはもっと別の何か。
自分のそれは耐えることができても、ルミネがこれに勝る痛みを抱えて生きているという事実を他人事とは思えなかった。
レムにとってルミネは既に、己と分かちがたく代えがたい無二の存在に他ならないからだ。
「ルミネはあとどれぐらい、生きていられるんですか」
「あくまで僕の見立てに過ぎませんが……今年の秋か冬ぐらいまでは、と」
半年と少し。
レムがこの病院で去年の秋頃から過ごしてきた期間と同程度。
季節がふたつ過ぎる間と考えると、あまりにも短い。
手術と長いリハビリ乗り越えて、ルミネに自分のパルスオペラを披露する――決意を込めた約束も実現することはない。
あまりにも時間が足りなさ過ぎるからだ。
今になって思えば、待っていて欲しいと伝えた時、ルミネは小さく頷くだけで明瞭な言葉にして返事をしなかった。
それは自分の死を知っていて、それでもレムの復帰へ向かう意志に水を差すことはできなかったからではないのか。
レムは目を伏せ、肩を落とす。
病室の窓から朝の日差しが差し込み、レムの半身を照りつけた。
普段は暖かな安心をもたらす陽光でさえ、容赦なく無神経さを咎めているような気さえする。
ルミネの運命を知らず、彼女の前であるはずのない未来を約束してしまった。
その時のルミネの心情を思うと、ただ胸が痛かった。
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