第16話 沈黙の再会
レムは、ひとり病棟の廊下に立ち尽くしていた。
目の前には、ルミネの病室に向かう扉。
ジョンソン医師から自分の意志でルミネの病室の場所を聞いたはずなのに、戸を叩くという最後の一歩が踏み出せない。
ルミネの待ち受ける運命を聞き出したことにも後悔はないはずだった。
何も知らないまま、突如としてルミネが死ぬという運命を受け入れることはおそらくできないだろう。
ゆえに知らないままであるよりは、知っているほうがずっとよい。
理屈では、わかる。
だからといって、大切な存在が失われるという苦しみに耐えうるわけではない。
時が巻き戻って何も知らないまま、ルミネと笑い合えていたらどんなによかっただろう――と、夢想してしまう。
レムはふぅ、と大きく息を吐く。
そして病室の引き戸に手をかけた。
望むと望まざるとにかかわらず、現実は絶えずそこに存在している。
目を背けたところで、起こらなかったことにはならない。
今のルミネがどんな表情をしていて、どんな気持ちでいるのかは想像がつかなかった。
それでもレムは、ルミネと向き合うことからは逃げてはならないと思った。
逃げてしまえば、本当に失ってはならないものまで失われてしまう気がしたからだ。
意を決して扉を二度ノックすると「どうぞ」という声が返ってくる。
紛れもなく、ルミネの声だった。
聞き覚えのある声に僅かな安堵感を覚えたレムは、ゆっくりと戸を引いて病室に入る。
「あ、レム」
ルミネは、いた。
大きなリクライニングベッドに小さな背中を預け、座ったままレムを出迎えていた。
何度見たかもわからない、あのいつもの笑顔で。
「ルミネ……!」
言うべきことが、言わなければいけないことが、たくさんあるはずだった。
だがルミネとこうして顔を突き合わると、言葉が出てこない。
いつもの見慣れたルミネの顔を見られたというのは、確かに救いであったかもしれない。
だがその裏に存在する残酷な死の運命を思うと、やはりその笑顔は正視に堪えない。笑顔を返せない。
「ジョンソン先生から、聞いたんだ。ルミネが何で倒れちゃったのか……ルミネの病気が本当はどういうものなのかっていうのも」
レムは胸を詰まらせながら、なんとか声を絞り出す。頭の中で言葉と言葉をうまく繋げられなくて、先走る気持ちが声になる。
「そっか、じゃあ私がもうすぐ死んじゃうってことも、知ってるんだね」
「それだけは言葉にしないでおいたのにさ、自分ではっきり言っちゃわないでよ」
「うん、ごめん」
正確には言葉にしなかったのではなく、できなかった。口に出して言えるほど、レムの心は現実を受け入れてはいなかった。
それにもかかわらず、残酷な運命を背負う当人の方がこともなげに口にするものだから、余計に辛かった。
「冗談きついよ。ルミネはそれがわかってるのに、いつも笑ってて、私が落ち込んでるときは励ましてくれてさ。そんなの……わかるわけないよ」
「そう、だよね」
ルミネの表情からも既に笑みは消えていた。
俯いて膝の上に置いた、自分の細く小さな手を見ていた。
「死ぬのが怖くないって、やっぱり変、かな」
「変じゃないけど……けどさ」
レムには、ルミネの考えが良くわかる。
あの木の生えた小さな丘の上で、ルミネは言っていた。
どんな理不尽な運命に襲われようと、恐れることなく、生きる意味を自分で決める。
そして、何があっても前を向いて生きるという意志を貫く。
それがルミネという存在だった。
避けようもない死が待ち受けている――それすらも「理不尽な運命」の範疇だったということだ。
「ルミネが死んじゃうなんて、私がいやだよ」
わかっている。
煉獄にも等しい苦痛であろうと対峙し、超克する――そうやって意志を強く持っていたからこそルミネは絶望せず、今まで生きていられた。
そうするしかないほど、ルミネの背負う運命が重過ぎるということも理解できるのだ。
だからといって「それがルミネの覚悟だから」と何もかもを呑み込んで、納得できる訳がなかった。
レムにとってのルミネは、既に己の魂の一部と言えるほど、大きな存在になっていたからだ。
「ごめんね、レム。私どうしていいかわからなかったの。時が経つにつれて本当のことを言えば、あなたを傷つけることになるって気付いて……」
ルミネはそこまで言って、口を固く結んだまま真新しいベッドカバーを握りしめる。
表情にも、後悔の色はっきりと浮かぶ。
自分が死ぬということは、とっくの昔に受け入れていた。
だが、自分が死ぬことで、こんなにもレムを苦しめ、傷つけてしまうことは受け入れられなかった。
自分だけの人生を必死に生きるしかなかったルミネは、自分の人生がレムと交わるというイレギュラーを予期できなかった。
哀れみでも同情でもなく、本当の意味で自分を大切に思ってくれる人間が現れるなど思ってもみなかった。
自分だけが背負っていればよかった過酷な現実が、知らず知らずのうちにレムのものにもなってしまっていたのだ。
「ルミネが謝んないでよ……それを言ったらルミネの気も知らないであんな『約束』なんかしちゃった私の方が、最悪だよ」
そしてレムは、俯きながら自分の至らなさと無力さを呪った。
パルスオペラに復帰して、ルミネへ一番最初に披露する――描いた夢は、最初から泡と消える運命だった。
いつかはルミネに自分の持てる全てを見せることがレムの一番のモチベーションだったのに。
レムが茫漠とした夜闇のようなこの世界で再び一歩を踏み出そうと思えたのは、標となる北極星を見出したからだ。
だが今、決して陰ることはないと信じていた希望の星が燃え墜ちようとしている。
なのに、何もすることができない。
レムという存在も、パルスオペラも、結局、ルミネのに定められた運命の前では無力だった。
虚無の顎が何もかもを食いちぎり、飲み込んでゆく。
レムに芽生えかけたパルスオペラへの意欲も、手術を受けようという気力も例外なく。
「ごめんね、ルミネ。私……もう何もできない。何も……わかんないよ」
レムは苦難に直面しているルミネの手前、感情的にはならないと心に決めていた。
それなのに、築いたはずの決意の壁は脆くも崩れ、涙がこぼれる。
同じ時間を過ごすうち、何よりも存在になったルミネ。パルスオペラへの思い。
大事に握りしめていたものばかりが失われてゆく。
その悲しみ堪えようとする気力さえ薄れ、ただ感情が溢れるままに任せた。
目の前にいるルミネの表情を直視することから逃げるように、溢れる涙で視界を閉ざす。
二人の間に、かつて存在したことがないほどの長い沈黙が流れた。
ルミネはレムにかける言葉を必死に探しているが、どうにも見つからない。
レムはただ立ちつくし、小さな子どものように涙を流すことしかできない。
レムとルミネ。
二人の出会いが希望ではなく悲嘆に回帰するというのなら、この出会いは全くの無駄であったのか。
ルミネもレムも、そうではないと言いたかった。だが今ここに、二人の間に横たわっているものが絶対的な苦しみだけどいうのはあまりに残酷だ。
誰が悪いわけというわけではない。ただどうしようもない、理不尽で残酷な運命がそこにあるだけだ。
そして誰にも、何のせいにもできないからこそ気持ちの置き所を見つけることもできず、ひたすらに苦しい。
結局レムとルミネは言うべき言葉を見つけることができなかった。
重苦しい雰囲気の中、レムは今日は帰る、とだけ言ってルミネの病室をあとにした。
このままで良いわけはない。
でも、どうしたらよいかはわからない。自分の人生にも、ルミネへの気持ちにも、何の展望を抱くこともできそうにない。
レムは病室を出たあと、ゆっくりと扉を引いて閉じる。
ふと、ルミネは一日が終わって別れるときは決まって「また明日」と言ってくれたことを思い出した。
「もう明日なんて……来なくていい」
レムは肩を震わせながら小さく呟きき、小走りでその場をあとにした。
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