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 そして翌日、母から弁当を受け取り駅まで歩く。

 兄は高校時代の友人と会う約束をしているらしく、今日は1人だ。

 同じ制服を着ている集団が、楽しそうに笑いながら駅の階段を駆け下りて行った。


「去年の私もあんな感じだったよね」


 誰にともなく呟いた私は、通学路とは違うホームへと急いだ。

 駅から出ると、昨日より顔色が悪い人達が俯いたまま足を動かしている。

 きっと私も同じような顔をしているのだろうと思いながら、足早に会場へ向かった。


「おはよう、洋子ちゃん」


「おはよう。いよいよだね」


「うん、頑張ろうね」


 思いのほか昨日より口数が少ない葛城の鞄には、お守りがひとつぶら下がっている。

 受験票を提示して席につく。

 さあいよいよだ! 今日こそは楽しむぞ! と気合を入れたが、思い通りにならないのが、人の世の常ということだろうか。

 自信を持っていた科目に予想外の苦戦を強いられ、たぶん寿命を数日削ってしまった。

 

 葛城とは受験科目が違うので、終了時間も違う。

 夜にでも電話をしてみようと思いながら、家路を急いだ。


「どうだった?」


 事務所を覗くと母しかいない。

 

「できるだけはやったって感じ。みんなは?」


「今日は経団連の新年互例会よ。おばあさんとお父さんが出席してる」


「ああ、新年互例会ってやつね。夕食は?」


「今日は二人よ。だからアレにしない?」


「アレ? いいねぇ。お兄ちゃんは?」


「友達と食べてくるって言ってた」


「じゃあ私は天ぷら肉蕎麦とお稲荷さん2個」


「了解! 事務所を締める時に注文しておくから、洋子は少し休みなさい」


「うん、そうする」


 自室に戻りスウェットに着替えてから風呂の準備に行き、リビングのエアコンを入れた。

 ふと見ると、サイドボードの上に兄から貰った『何をやっても落ちない染料』で染められた布で作ったお守りが置かれている。


「今日持ってなかった? 不吉だ……」


 母が戻ってほどなく、松蕎庵の出前が届いた。


「なんでこんなにお稲荷さんがあるの?」


「帰ってきたら絶対に食べたかったって言うでしょ? 残ったら明日食べるから。それより伸びちゃうから早く食べよう」


 母と二人だけで食卓を囲むのは初めてかもしれない。

 暫し蕎麦を啜る音だけがしていた。

 汁も残さず胃袋に納め、二個目のお稲荷さんに箸を伸ばそうとしている母に聞く。


「お兄ちゃんいつまでいられるって?」


「明日には戻るって言ってたよ。もう本当は始まってるんだもん。あの子って本当にあなたに過保護よね。洋子のために無理したみたい」


「そうなの?」


「絶対シスコンだと思わない?」


 母と二人で笑っていると、ガラッとリビングの戸が開いた。


「僕がシスコンかって?」


 外はかなり寒いのだろう、頬が真っ赤でちょっと幼く見える。


「違うの?」


「どうだろう。実習で飼育している羊に『洋子』という名前をつけたら、同級生にも同じことを言われたよ」


 羊! 喜ぶべきか怒るべきか……


「洋子って可愛いんだぜ? あっ、羊の方ね。頭を全力で擦り付けてきてさぁ。頭を撫でろアピールが激しいんだ」


 静かに立ち上がって、兄の腹に頭頂部を擦り付けてみた。


「こっちもか? ははは!」


 兄が頭を撫でてくれる。

 羊の洋子はいつもこんな風にしてもらっているのか……ジェラシー。


「どうだった? 楽しめた?」


「数学にいじわるされた」


「数学? 得意だったじゃないか。でもまあそんなもんさ」


「慰めてくれないんだ」


「慰めても結果はかわらん。それより僕の箸を持ってきてくれ」


 やはり稲荷寿司は食べるらしい。

 母と兄と三人でワイワイと下らない話をしていたら、リビングに置いた電話が鳴った。


「はい、飯田です」


「洋子ちゃん? 洋子ちゃん……どうしよう。静香さんがお腹が痛いって」


 私は振り返って母の顔を見た。

 

「救急車を呼びなさい」


 母の言葉を伝え、私はコートを手に玄関に急いだ。

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