≪春≫春はときどき。嘘を吐く。

「好き・・・・・」

 思わず呟いたその言葉が、手紙に最後まで残った文字だったと思う。

 久々に自分の部屋に入ると机にはすこし焼けた封筒が置きっぱなしにされていた。

 

 「キミト君へ」封筒にはそう書かれている――

 

 椅子に座り、置いてある少し茶けた封筒から手紙を取り出す。

 便箋の何か所もクシャっと皺になった部分を一生懸命伸ばした跡がある。

 開くとところどころ水滴が落ちたようなたくさんのシミと、そのせいで滲んで読めない字ばかりの手紙だ。

 かろうじて読める部分には「好き」と書かれている。

 その『好き』は食べ物などの、単純に彼女の『好き』なものへの『好き』を書き連ねたなかの一遍なのか。

 それとも特定の誰かに向けての、好意としての『好き』なのか。

 滲んだ文字ばかりの手紙を、開いただけではきっと誰もわからないだろう。

「花遊・・・・・・」

 僕は彼女の名前を呟いて、滲んでしまって読めなくなった文字だったものを指でなぞる。

 手紙に書かれた『好き』の意味はもう僕にしかわからない。

「この好きは、結局届かなかったな・・・・・・」

 僕は彼女に好きとは最後まで伝えられなかったなと思いを馳せた。

 部屋の中から窓の外を見るとあれから何度目かの桜の花びらが咲き誇っていた。

 初めて花遊と出会ったとき、まさかあんなに仲良くなるとは思わなかった。

 彼女と見る風景が特別なものから日常に変わり始めても、結局僕は踏み込むことも出来なかった。

 特別が特別じゃなくなっただけ。

 それだけの日々に甘えてしまった。

 だから僕には後悔をする資格なんてものは本当は無いのかもしれない。

 だけど、この『好き』の文字を見ると僕の瞳から一滴の涙が零れ落ちる。

 その涙を掬えず、こぼしてしまうせいでまた雨跡を手紙に残してしまう。

 このシミと滲んだ文字には二種類ある。

 ひとつは乾ききって、少し焼けたような色に変色している部分。

 もうひとつはそれと比べて新しく、水滴が落ちたような跡だけが残る部分だ。

 僕に渡されたときの手紙はまだかろうじて読める部分もいまよりは多いものだった気がする。

 何度も涙の雨に打たれた手紙は、もう元の内容を読む人に伝えてはくれない。

 この手紙を読み返す度、僕の心には後悔の念がただただ流れ込んでくるのである。

 

 彼女はこの手紙をどんな思いで書いたのだろうか、僕と同じ気持ちであったのだろうか。

 僕と同じ様に、伝えられなかった思いに後悔を抱いていたりするのだろうか。

 僕は椅子の背もたれに背中を預ける。

 椅子を軋ませながら彼女がこの手紙を書く風景を思い浮かべた。

 彼女のことだから、何度も何度も書き直したのだろう。

 読み返しては、書き直して。

 勢いで書き間違えたりして、うがーっと唸ったり。

 そして、何度も何度も泣きながら書いたのだろう。

 きっと涙でシミを作ったり、くしゃくしゃにしたのもこの一枚だけではなかったのだろうと思う。

 もしかしたらこの手紙も僕へ届けずに仕舞い込むつもりだったのかもしれない。

 この手紙を出すのにも相当な勇気がいったはずだ。

 小さい彼女が少しだけ背伸びをして、ポストへ投函する。

 そんな姿を想像した。

 僕の中での彼女は、大人びて落ち着いた姿ではなく、あの時の花遊なのである。

 桜のはなびらを鼻に乗せ、はちみつを頬につけて、まるで幼子のような無邪気さで、はしゃぐ姿ばかりを思い出す。

 あれから僕も大人になり、彼女だってもうあの頃みたいな女の子ではなくなっているんだろう。

 それでも僕の中の花遊の姿、立ち居振る舞いはきっと変わらない。

 もしかしたら明日か、明後日か、それより未来で大人になり落ち着いた、花遊に会うことがあるかもしれない。

 それでもしも会うことがあって、自分の中に居る花遊と違っても。

 僕の中の花遊はきっと変わらないままなんだろうと思えた。

「ふふっ」

 思わず鼻で笑ってしまった。

 もしも彼女が目の前に居たのなら、怒られるなぁなんて考えてしまった。

 少し乾き始めた瞳が、また潤い始める。

 彼女の笑顔を思う浮かべるが、もう僕を笑顔にはしてくれないみたい。

 遠く、僕の手が届かないほど、遠くへと行ってしまった彼女を想うことしかもう出来ない。

 『好き』という感情を伝えるられるほど、僕は強くなかったし、ずっと、永遠にずっと一緒に居る未来を信じて疑わなかった。

 だから伝えなくても、このままでも大丈夫だと、あの時の僕はなんの根拠もなく信じてしまった。

 そう信じてしまったが故に、僕の隣に彼女は居ないのだ。

 もし時間が戻せるのなら、あの時に自分を殴り飛ばしてでも伝えさせただろう。

 それで離れ離れになっても、きっと今の僕よりは幾分かマシだったろう。

 また涙が落ちた。

 その涙はボトッという音をさせて、手紙の文字の上に落ちる。

 彼女の文字をまた一つ、あやふやなものへと変化させた。

 紙に書かれたたくさんの文字を、手紙を開くたびになくしていく僕の涙。

 その僕の涙でさえもその『好き』という言葉だけはなくすことが出来なかった。

 『好き』という言葉だけを丁寧に残した手紙を、僕はまた封筒に戻して机の引き出しの奥深くに仕舞い込んだ。

 

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