第6話 金曜日、海の缶詰
細い雨が昨晩から続く日だった。しとしとと降り注ぐそれは真綿で首を締めるように町に疲弊をもたらす。いつもより早く灯る店内の明かりも、町に命を吹き込むまでは至らないようだった。
しかしその日の深鷹はいつもより穏やかな面持ちで窓の外を眺めていた。普段険しく顰められたその顔が感情の気配を薄くすると、もとより整っている顔立ちがより一層、人形のように感じられるようだった。薄く絹のように輝く髪も、けぶるような睫毛に縁どられた金の瞳も、作りもののようだった。欠けた頭ですらそういう美術品のようだった。
普段は深鷹の存在を気取られないようポーズをとっていた伊鶴は、いまは黙ってその様子を見ていた。暗いアメシストの瞳は目の前に座る深鷹をとらえて離さない。人には見えない深鷹と相席するためにひとり本を読み、コーヒーを飲む。そういう「形」が、今日は崩れていた。
「なんだ?」
その様子に気づいた深鷹が声を掛ける。金とアメシストが交差する。
「君は、少し落ち着いたね」
「そうか? ……そうか。多分、君のせいだろう」
「願いのことかな?」
「そうだな。君が星に願ってまで私の願いを叶えてくれるとわかったからね」
「もしかしてそれまでは疑っていたのかな」
「疑いもあった。信じてもいた。どっちもあって、余計に気が立っていた」
「それなのに星の話は信じるのか」
「信じて寄りかかって何も考えない方が楽だと気づいた」
「……ひどいな」
「ああ」
伊鶴は本を開き、深鷹はまた窓の外に目をむける。雨はまだ降り注ぐ。
「海……」
深鷹が口を開いた。
「ん?」
「海になりそうだ。このまま降ったら」
「海か……ふふっ」
なにかを思いだしたように、急に伊鶴は笑いだした。深鷹はちらりと視線をよこし、鼻で笑う。
「気持ち悪いな」
「ひどいな」
「なんで笑った」
「この間、海を見たよ」
「海になんか行ってないだろ」
「道に落ちていたんだ。缶詰が」
「話が遠いな今日は」
眉根を寄せる深鷹はまた少し人間的になったように見える。本に目を落としたまま、伊鶴はコーヒーを口に運び転がす。ゆっくり飲み込んで、また口を開く。
「道に空の缶詰が落ちていてね、危ないと思って拾ってゴミに出そうと思ったんだ。中には水が溜まっていた。最初は雨水だと思ったよ、でも何だか潮の香りがしてね」
「潮の香り……」
記憶をたどってみるが、深鷹にとって海というものは縁が薄く、海の匂いというものがいまひとつ見当がつかなかった。その様子にかまわず伊鶴は続ける。
「その缶詰の中を覗いてみたら中に海が入っていたんだ。本当に小さな缶詰なんだよ、片手に収まるくらいの。そこに海の中が広がって見えたんだ。透き通る日差し、色とりどりのサンゴ礁。小さな魚の大きな群れが影を落として、すごくきれいだったよ」
「そうか、それは羨ましいな」
「うん、君にも見せたかった。中身がこぼれないようにそっと家に持ち帰ったんだけどね、部屋についたらただの雨水に変わっていたよ」
「残念だ」
深鷹は目を細めてふ、と溜息をついた。テレビでしか見たことのないような、南国の海を思っているのだろうか。その目はどこか遠くを見ている。
「人魚はいただろうか」
「人魚? いなかったと思うけれど。気になるかい」
「いや、ただ人魚姫の話が好きだったんだ。それだけだよ」
雨は降り続ける。深鷹は町に人魚が泳ぐ姿を想像し、また少し笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます