第4話 水曜日、虹の根元
いつもの喫茶店のいつもの席で、伊鶴と深鷹は向かい合って座る。深鷹はもうこの世のものではないため、四人座れるボックス席を伊鶴が一人占めしているように見えるが、元来ここは混む店ではないのでゆうゆうと二人、時間を潰すことができる。
さび付いた看板と同じように、誰もこの喫茶店を気にかけない。そこにあるのに見えていない。まるで幽霊のように。
今日も雨が降っていた。深鷹は窓を打つ雨粒を眺めながら、何を考えるでもなくぼうっとしていた。時折黒い塊が触れようとしてくるので、それを払い落す。
「いったい……」
沈黙に耐えきれぬかのように、深鷹が言葉を漏らした。
「いつまでこんなことをしていればいいんだ」
「こんなこと?」
伊鶴は本を片手に言葉を返す。レコードから響くクラシックの音色に紛れて、まるで独り言のような言葉は店内には響かない。
「もういない友人と話す貴重な機会をこんなこと呼ばわりか」
「そうも言いたくなる。いったいいつになったら、私を妬む人間がいなくなる? 君に言われて嫉妬の残滓を辿り、通りすがりに出会っただけの馬鹿な人間のささやかな記憶だって探り当ててみせた。まだ足りないのか」
「足りないみたいだね、君は羨望の的だったから」
深鷹のうんざりとした面持ちを見ながら伊鶴は本を閉じ、コーヒーを口に運ぶ。そしてそれが冷めきっていることに気がつくと眉根を寄せて、呼び鈴を鳴らした。
店員が注文を聞き、去るのを見届ける。
「例えばこうして話しただけの存在だけでも惹きつけてしまうんだから君という人はすごいと思うよ」
「それで褒めたつもりか」
店内のランプに照らされてほんのり色づく白皙の面持ちを歪め、深鷹は吐き捨てる。欠けた頭から零れ落ちる血が頬の色と相まってより鮮明に見える。
「まあ許してほしいな、君を楽しませる話もあるし」
「それが本当にいい話だったらな」
新しく来たコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込み、暗い瞳を珍しく輝かせて伊鶴は言う。
「虹の根元を見たんだ」
「この話は終わりだ」
「いいじゃないか、夢のある話だろう。虹の根元には宝物が埋まってるんだよ」
「……」
「雨続きだからね。この間晴れたときに空に虹が見えて『ああ、近いな』と思って辿ってみたら、目の前の水溜まりから虹が生えていたんだ」
そこでいったん、熱いコーヒーを流し込む。ふ、と溜息をつく伊鶴を見ながら、深鷹は続きを促す。
「それで」
「うん、それでね、これは良いなと思って水溜まりを覗き込んだんだ。虹は水の中までずうっと続いていたよ。反射してるって感じじゃなかったな」
「それで」
深鷹は苛立たし気に指先でテーブルを叩く。
「だからつい、水の中に手を入れたんだ。本当につい、ね。宝物のことなんて考えなかったよ。でもまったく深さのない水溜まりなのに、手首まですっぽり入ってしまってね。そのとき虹に触ったんだ。さらさらしていたよ」
「……」
「君は今日、私の左手を見ていないだろう」
伊鶴は握りこんだ手の甲を上にしてテーブルの上に上げると、ゆっくりと開き始めた。
「爪が虹に染まってしまってとれないんだ」
「……」
その左手の指先は綺麗な七色がきらめいていた。深鷹はそれを見て、目を閉じ、ため息をつく。
「……まあ面白かったよ」
「それはよかった」
伊鶴は左手をひらひらと輝かせると、残ったコーヒーを飲み込んだ。
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