予兆
「……っ!?」
体が無理やり起こされたような感覚と共に、青年はガバッと体を起こして目を覚ました。鉄道員御用達の起床装置が作動し、背中の辺りが圧迫されたのだ。電子時計を見ると、午前3時を過ぎたあたりを差している。
彼の名はE233系1000番台。埼玉県の大宮から、東京・横浜を経由し、神奈川県の大船までを結ぶ路線、
どこか懐かしい夢を見ていたような気がするが、夢の内容をふりかえっている暇はない。自室の机から手帳を取り出すと、今日の予定を確認する。
「試運転か…」
本格的なデビューに向けての訓練。予定では午後に行われるのだが、始発前の時間に早起きする習慣をつけることで、体を慣らしていたのだ。とはいえ、それ以外にも仕事がたくさんあるので、どうしても早起きになってしまうが…
さっさと寝巻き姿から着替えよう。ベッドから降りると、クローゼットから服を取り出す。ワイシャツ、ネクタイ、ベスト、スラックス、そして、冬用のジャケットを羽織る。まだ10月だというのに、身震いしてしまうほど部屋の中は冷え込んでいた。
最後に愛用のスカイブルーを縁どった、アンダーリムメガネをかけ、姿見の前で最終チェックをする。相変わらず、黒髪の頭頂にそびえる二本のくせっ毛は、本人がいくらクシでとかしても治る気配がない。
仕方ない、と諦めて自室を後にした。
「おはよ、
廊下を出てすぐに出会ったのは、外ハネの茶髪とトサカのような水色のメッシュが入った少年だった。
「おはようございます、
「誰が231だ!209系500番台だよ!
少年の正体は、E233系の先輩である209系500番台であった。世渡り上手で親しみやすいが、俗に言ういじられキャラになりがちな少年である。
日も上がらぬ早朝から、早速後輩にイジられた500番台。見た目が似ているからという理由で、E231系と呼ばれるのは日常茶飯事である。知り合いからはイジられ、知らない人からは本気でそう思われる事がある、定番のお約束ネタだ。
そして、500番台も持ちネタとして許容しており、ツッコミを入れることに慣れていた。本気で怒っているのではない事を理解している上で、E233系はネタを振ったのだ。
「あはは…というか500番台、今日は浦和にいるんだ」
「あー…まぁな。今日は、浦和」
ここは浦和電車区。南浦和駅と蕨駅の間に位置する、京浜東北線の車両基地だ。
そして、209系500番台は編成ごとの転属が多い稀有な形式である。現在は中央・総武緩行線の車両基地である三鷹車両センターと、浦和電車区を掛け持ちしており、将来的には京葉線の車両基地である京葉車両センターに転属する予定になっている。
人間風に例えるなら転勤族の車両なので、いつも動向が忙しないのが209系500番台の日常だ。
「それで、お姉さん…209系0番台さんは?」
「0番台は…」
209系0番台は、京浜東北・根岸線の主力車両であり、500番台の姉である。209系兄弟の長女であり、JR東日本が製造した新系列車両であり、第一世代の通勤形電車だ。
「今日は上野で夜間停泊って言ってたかな。そのうち帰ってくると思う」
夜間停泊とは、終電後の車両が車両基地以外の場所に止まり、翌日の運用まで停泊する事である。上野駅には京浜東北線用の車庫が存在しないため、209系0番台は駅のホームで停泊するという事になる。
「駅の停泊って、どんな感じなの?」
廊下を歩きながら、E233系1000番台は尋ねる。先輩でありながら、まるで兄のように頼りある500番台に、自然と心を許していた。
「京浜東北線とかは大きい駅が多いから、大体俺達用の臨時仮眠室が用意してあるんだ。けど臨時仮眠室が無かったり、駅員の出番が多くて仮眠室に空きが無い場合は、車内で夜を過ごす事になる。座席をベッド替わりにしてな」
「車内で!?空調効かないのに大丈夫なの、それ」
「まぁ…寒い時は寒いし、暑い時は暑いけど、駅員に頼めばそこら辺は案外どうにかなる」
ただな、と209系500番台がつけ加える。
「座席だけはマジでどうにもならないから、起きた時体がバッキバキになるんだよな。座席がフカフカな国鉄車だったらよかったんだけど…」
E233系は刹那の間を置くと、あぁ…と納得の声を漏らした。
「209系は硬いもんね。椅子」
ギクッ。209系500番台は図星を突かれ、一瞬だけ狼狽えた。
「いやまぁ…仕方ないんだよ…昔は色々あって、余裕が無かったんだから…」
とはいえ、現世代の最新鋭車両であるE233系からしてみれば、過去に対する言い訳にしか聞こえないだろう。ぐうの音も出ない209系500番台であった。
そんな他愛もない世間話をしながら廊下を進む二人。その先にいたフロアでは、意外な人物を目にすることになった。
「ぜっ、
209系500番台が声を上げた相手は──姉である209系0番台であった。始発前で上野で夜間停泊しているはずなのに、何故か浦和電車区の応接間にいる。0番台は500番台に気がつくと、静かに人差し指を口に当てた。
「500番台。寝てる人もいるんだから、静かにしなきゃ」
見た目は500番台より小柄で幼い容姿をしているが、その語り口は不気味な程に大人びている。自分の姉とはまた違った風格を持つ彼女に、E233系は不思議な感覚を覚えた。
500番台は咳払いをすると、改めて小声で0番台に問うた。
「…なんでお前がここに居るんだ?上野にいたんじゃ…」
「そのつもりだったんだけどね、ちょっと具合が悪くなっちゃって、仕方なく浦和に戻って来たんだ。車両は上野に置いたままだけどね」
「つまり、車両じゃなくて0番台自身の調子が悪いって事なんだな?」
「そういう事」
0番台は暗い表情のまま頷くと、今度は500番台の隣にいたE233系の方へ向いた。
「233くん、もう起きてたんだ。今日の試運転は午後からじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、体を早起きに慣らさないといけませんから。デビューも近いですしね」
「そっか。いい心がけだ──」
言葉を言い終える前に、0番台はその場でうずくまってしまった。
「0番台!」
209系500番台が、0番台の小さな体が倒れないように右腕を抱えて支えた。すかさず、E233系も0番台の左腕を支える。体重がかかっている状態なのに、腕を抱えている感覚がしない。彼女はそれほどまでに軽かった。
「233、0番台を寮部屋まで連れていくぞ」
「分かった」
二人は掛け声を合わせながら、一歩ずつ元来た道を戻って行った。
3人は209系0番台の自室に入ると、まず0番台をベッドの上に座らせた。E233系は自販機で水を購入し、0番台に水を渡した。
「……ごめんね、二人とも」
水を一口飲んだあと、0番台は謝罪の言葉を口にする。E233系は謝らないで欲しいと思っていたが、衰弱している彼女にそう声をかけるほどの勇気は無かった。気を使って、余計追い込んでしまうかもしれない。そんな気がしたから。
「謝らなくていい」
500番台はE233系の代わりにそれを伝えると、0番台にブランケットをくるんであげた。そして、額に手を当てる。
「熱は無い、か……具合は?」
「だいぶ良くなった……」
0番台はペットボトルの水をゴクゴクと飲んだ。飲み終わったと同時に、E233系がしゃがみこんでやっと口を開いた。
「そういえば、0番台さんってリニューアル工事やるんでしたっけ?」
「リニューアル工事…あぁ──」
か細く力のない声が、一瞬俯くと──
「──無駄だよ」
低い声が、暗い部屋にこだました。
「えっ?」
「──別の工事の計画を優先したいから、私の方は一旦保留にするんだって。多分、その計画が終わったら本格的な工事をするんじゃないかな」
いつもの調子で答える0番台に、E233系は少し違和感を覚えたが、気のせいだろうと思って無視した。
「そう、ですか……なんで0番台先輩優先で工事されないんだろう?」
「今は他の車両の更新とか、世代交代の過渡期で忙しいからね。私はどうにでもなれるから、別にやってもやらなくてもいいんだけど……」
リニューアル工事によって延命が出来る…という、希望的な話の割には、0番台の発言はやけに諦観していた。
500番台はそんな0番台の様子が気になり、どうにかしてE233系だけと話をしようと、今まで培ってきた世渡りのスキルを発動させる。
「なぁ233、俺飲み物取りに行きたいんだけど、付き合ってくれるか?」
「え?うん、いいけど…」
E233系は反射的に肯定的な返事をした。
「0番台、何か欲しいものはあるか?」
「今は大丈夫……ちょっと一人になりたいかも」
「そうか……何かあったら携帯で呼べよ。それから、無理だけはするなよ」
「ごめんなさい…」
500番台は0番台が謝った事を諌めなかった。二人は無言のまま立ち上がると、0番台の部屋を後にする。E233系は0番台にお大事に、と言うと500番台のあとをついて行った。
E233系が部屋の扉を閉めると、500番台は小声で呟いた。
「…0番台のヤツ、なにか隠してるな」
「えっ?」
すると、500番台は足早に歩きはじめ、209系0番台の部屋から離れた先程のフロアへと戻った。E233系は、0番台に配慮をして場所を移したと察した。
車両用の談話室に行くと、二人はそれぞれの飲み物を手にして、向かい合うように椅子に座った。
「233は来てばかりだから知らないと思うけど、元々0番台はあんな感じじゃないんだ。なんというか…強かって感じでさ」
「強か?」
500番台は湯気が立っている煎茶を一口飲んだ。
「例えば、鉄オタから『走ルンです』って言われるだろ?」
「ごめん、走るんですって何?」
「『写ルンです』っていう、使い捨てのデジカメをもじった俺たち209系の蔑称だ。使い捨て電車って意味だよ」
「写るんです……?使い捨てのデジカメ……?」
聞いた事のない単語と、理解できない単語に困惑するE233系。とりあえずコーヒーを一杯口にして、500番台の話の続きを聞くことにした。
それにしても、209系を使い捨て電車と罵るだなんて…そんな事を言うなんて許せない。けれど、実際に自分がそう言われたら、僕は傷付くかもしれないなとE233系は思った。
0番台の弟である500番台が強かと言うからには、何かあるのだろうか。
「0番台はマニアや評論家から『走ルンです』って言われて落ち込むんじゃない。表では毅然としていて気にしていない風に振る舞うけど、裏では『私と写ルンですはリサイクル出来るけど、人間はリサイクル出来ないもんね』って言って根に持つんだ」
そりゃ確かに強かだ。というか、怖い。
「体が弱い事は確かだけど、心は誰よりも強かった。自分は自分って考えがあったから、そういう振る舞いが出来たんだと思う。だから故障しても落ち込むことは無かった」
そして、500番台は0番台から感じた異変について話してくれた。
「けど、あそこまで弱っている姿を見るのは初めてだ。ついこの間も検査したらしいんだけど…」
「この間?」
「ああ。足回りの劣化が原因で故障を起こして…その時は応急処置で交換工事をやったんだ。それで大丈夫だとは思っていたけど、どうも違ったみたいだな」
209系は価格半分、重量半分、寿命半分、を達成目標として生まれた車両だ。その内の寿命半分というのは、鉄道車両の本来の寿命が30〜40年であるのに対して、209系は減価償却期間である13年間をメンテナンスフリーとして、その段階で廃車にしても経営に支障を来さないし、廃車部品を別の形でリサイクルできる、という意味だった。
209系0番台が生まれたのは1993年であり、2007年現在において14年が経過しているため、減価償却の対象となる車両が増えてきていた。しかし、13年を超えたからと言って、車両が壊れる設計になっているわけではない。延命工事を行えば13年どころか、本来の鉄道車両の寿命を全うすることが出来るのだ。なので、全ての209系0番台が13年で廃車されるというのは、誤りである。
同じ209系である500番台は、それを知っていたからこそ、今の0番台の様子がおかしい事に疑問を抱いていた。延命するためのリニューアル工事の話に関して、何故か後ろ向きだったのも気になる。
寿命が近いからか?それとも──
E233系も500番台から聞いた0番台の話と、今の0番台の様子が違うことが理解出来た。コップをくるくる回し、沈殿したコーヒーの旨味を引き立たせながら、詳細を尋ねる。
「確かにちょっと心配だね。けど、具体的にいつからそうなったの?」
「えーっと……故障が酷くなったのは2年くらい前からで、0番台の様子がおかしいと思ったのは…お前がここに来るのが決まった時、だったような…」
「じゃあ、去年の9月だ。丁度姉さんが豊田に配属される頃……」
僕が東急車輛製造で、デビューに向けた訓練をしていた頃だ。その時は209系姉弟を置き換える事しか知らされておらず、緊張と期待でいっぱいだったことを思い出す。
その頃から、0番台先輩の様子がおかしかったのだとしたら……まさか、僕がここに来ると知ったせいで──
「ああいや、233が悪いって訳じゃないよ。お前は遠慮なく俺たちを置き換えてほしい」
500番台が慌ててフォローし、E233系は思考を中断した。
「0番台の故障は俺がここに来る前からあったらしいし…それに、2年前から酷くなったって言っても、故障の頻度が多くなった感じはしないんだよなぁ……」
2年前、という言葉がひっかかるものの、このままでは僕が置き換える前に、先輩の体がボロボロになってしまう。とりあえず──
「今はそっとしておいた方がいいと思う。疲れが溜まって、体調を崩してしまったのかもしれないよ」
周りから強かだと言われている0番台にだって、調子が良くなかったり、元気が無かったりする時があるだろう。それは一時的なもので、しっかり休めばきっと治るはずだ。
「そうだなぁ…そうだといいけど…」
心配そうな顔をする500番台。
姉を心配する気持ちは、E233系にも痛いほどわかる。自分にも、中央線を走る姉──E233系0番台がいるからだ。彼女は明るく元気な性格とは裏腹に時にドジしたり、人を気にしすぎて必要以上に落ち込んだりする事がある。そんな彼女を見ていると、弟の1000番台も胸が苦しくなるのだ。
僕も209系姉弟の力になりたい。けれど、デビュー前で209系0番台の以前の姿を知らない僕に、何が出来るのだろう。
ふと思い浮かんだのは、E233系が尊敬してやまない鉄道車両の姿だった。黄緑と緑、二色の帯をまとった軽量ステンレス車。そうだ──
「あの人なら何か知ってるかも……」
今日の試運転で会えるかもしれない。
ちょっと相談してみようか。
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