第5話 悪夢のような日

 藤川君に抱く感情に気づいてしまった私は、帰宅以降、本人にいつどのように想いを伝えるかしばらく思案した。何が最善なのかと悩み、頭が疲れる。しかし、内容は違えど悩んでいるのは藤川君も一緒だと思うとこの状況を許容できる自分がいた。それに、彼から好意を向けられている可能性も大いにあるので弱気にはならなかった。

 友達に相談もせずに答えが出ないままいつも通りの朝を迎え、興奮していたせいか早めに登校する。上靴に履き替えて三階まで上り、教室が目に入った時だった。


「へっ……?」


 一瞬にしてお人形のように睫毛が長く大きな瞳で睨む顔が視界に飛び込んだと思えば至近距離まで迫ってきて、反射的に後ずさる。そうして廊下の壁に私の背中が張り付くまで詰め寄ると、ぐいっと胸ぐらを掴まれた。振動と突然の出来事に掴んでいた鞄が床に落ちる。確か隣のクラスの三原みはらさんだ。

 この人、明らかに私に対して怒っている。しかし心当たりがない。あまりに突然のことで、こんな経験は生まれて初めてで、全身がぞわぞわと震えている。訳が分からずに三原さんを見つめていると、


「あんた、何してくれたのよ……!」


 私を目で射止め怒声をぶつけられた。心なしか悲しみも滲んだ声色で。

 同時に周囲からの怪しむような視線も感じる。


「あ……あぁあのっ、ごめんなさい……。私、何かまずいことをしましたか……?」

「しらばっくれないで! あんたが唆したせいで、あたし……彰宏と別れることになったんだから! 昨日、二人でイチャイチャ下校する所を見たのよ!」

「えっ……??」


 思わぬ衝撃発言に目を見開く。

 私のせいで藤川君と別れることになった。混乱中の脳内でなんとか咀嚼してみると、恋人との距離に困っている友達について頭を悩ませる藤川君に「別れた方がいいかも」と一言でアドバイスした昨日の帰り道が思い浮かんだ。瞬間、ぶわっと鳥肌が立って息が苦しくなった。

 私、どうして、今まで気づかなかったのだろう。藤川君の友達の話じゃない、藤川君本人の相談だったんだ。

 藤川君と出会って一ヶ月、彼に恋人がいる気配は特に感じなかった。でも、それは三原さんから距離を置いていたからだろうし、思い返してみればあれは恥ずかしくて「友達の話」と誤魔化す口振りだった。悩み相談にありがちなパターンじゃないか。

 それなのに私は、藤川君に惚れたあまり冷静な判断が出来ず、勘違いして、別れることを勧めた。

 私のせいだ。

 無自覚に人を傷つけていたショック、充分にチャンスがあると自信過剰になっていた恥ずかしい自分、実質的失恋。トリプルパンチが私のメンタルに直撃する。


「あんたが、あんたが奪おうとなんてしなければ……!」

「その……本当に、ごめんなさいっ。でも……私っ、藤川君からは友達の恋愛相談だと聞かされて、彼女の重たい性格に困っているって、それで────はっ……!」


 震えが止まない声で謝罪と誤解を解く為の訂正をしていたが、致命的なミスをしてしまった気がして口を噤む。同時に、私を見つめる三原さんの瞳からぼろぼろ大粒の涙が零れ落ちた。遅かった。


「もう、やめて……。これ以上、ひどいことしないでぇ……」


 三原さんは、か弱い子どものような声で泣いた。悲劇のヒロインとかかわいい子ぶっているんじゃなく、心の底から悲しそうに。もう私の言い分など耳に入らないぐらいに。決して悪気はなかったけれど、ただでさえ失恋で辛い所に私がトドメを刺すような言葉を口にしたから。「彼女の重たい性格に困っている」って。

 付近に居た女子達が心配して三原さんに寄り添いつつ、私にチラチラ目を向ける。「三原さん、大丈夫?」「さすがにひどいよね」

 陰から覗いていたであろう女子達の密やかな呟きも聴こえてくる。「おとなしく見せかけて泥棒猫」「言い訳しすぎじゃない?」

 私、完全に悪役に見られている。この場に集う全員、私のことを信じていない。

 腰が抜け、壁に背中を預けたまま床にへたり込む。虚ろな目でその光景を見つめながら、


「ごめんなさいっ、はぁ……ごめんなさい……はぁっはぁっ……。ごめんなさいぃ……」


 もう何に対してなのか分からないけど、息を切らしながらひたすら謝った。

 傷つける言葉を滑らせたのはいけなかったし、三原さんも責めたくて私を責めたんじゃない。分かる、けれど……。

 泣きたいのは、私も同じだよ。




「星花、大丈夫?」


 その場から動けないままの私は、頭上から降ってきた千紘の声で混濁していた意識が少しだけ鮮明になり、顔を上げる。そこには愛華と由実も居て、三人はすぐに私の目線に合わせてしゃがんだ。みんな、心配とも困惑とも取れる表情を浮かべている。

 言葉に詰まっていると、


「三原さん、ちょっとやり過ぎだよね」


 愛華が私の頭を撫でながらそう言った。どこまでかは分からないが、愛華達も私と三原さんの事件を知っているらしい。よかった、三人は私の味方なんだ。と、少しばかり安堵したのも束の間、


「あーあ。病んだ目をしちゃって。でも、今回のは星花に問題があったんだからね?」

「え……? なんでっ??」


 由実の何気ない一言に衝撃を受けた私は、久々に大声を出しながら床に付いた腰を勢いよく上げた。


「いや、なんでって……こればっかりは友達だからはっきり言うけど、星花が三原さんと藤川くんにした行為、ちょっと陰湿だよ」

「もう変に意地張らないでさ、うちらの前だけでは素直に認めな?」

「っ……!」


 そう伝える由実と千紘の表情は少し引いていた。

 どのように情報を得たのかは知らないけれど、まさか友達まで三原さんの発言を間に受けて私の話も聞かずに責めると思わなかった。

 三人とも性悪女を見つめるかのような瞳を私に向けているみたいで、事実とは不一致すぎる不気味さと仲間に裏切られた気分に全身がゾッとした。

 咄嗟に、この場に居ると息が詰まると体が察知し、私はふらふらよろけそうになりながら全力で走って逃げ去る。階段を駆け降りる途中で息が荒々しくなるも過呼吸までには至らず、どうにかして校門を出た。

 頭の中が真っ白な状態で、ただただ家路を辿ると、すぐに自室に閉じ籠った。

 カーテンから差し込む陽光だけが頼りの薄暗い部屋。冷房を入れ、ベッドの上で横になると毛布で全身を包む。母は外出中なのか家には誰も居なくて早退を怪しまれることはなかった。

 孤独な気分だ。もう、誰が私を信じてくれるのか分からない。だから私も誰一人信用できない気がした。藤川君は……あぁ、彼には騙されたようなものだ。悪気がないのは分かるけど一番八つ当たりしそうになる。もう、彼への好意などどうでもよくなった。

 ……あ。鞄、廊下に落としたままだ。まあ、それもどうでもいいや。何も考えたくない。




 随分と長いこと、一歩も動かずに呆然としていた。それに気づいた私は上体を起こすと正面の壁掛け時計に視線を向ける。目を凝らせば針が一時三十五分を指し示していて、五時間近くも何もしないで放心状態だった事実を突きつけられた。母が帰宅したかどうかすら分からない。

 あまりに惨めなもので、思わず呟いた。


「死にたい……」


 ……うん。そうだよ? 私には、生きていたってもう意味がないじゃない。

 そう思えてからは他の選択肢など浮かばず、行動は早かった。

 引き出しから真白な電源延長コードを取り出すと、差込口側の線をドアノブに頑丈に結び付け、反対のプラグ側の線を自分の首に一周巻いて解けない程度に縛り、逝く準備を済ませる。最期の時まで極力痛くない方法を選ぶ自分が情けなく、死ぬ気が増した。

 早速実行しようとした時だった。突然、右手の甲に強い熱を感じ、何事かと確認すると、


「──何、これ……?」


 とても奇妙な光景に二度瞬きをして、目を凝らす。

 いつからあったのか、手の甲の中心に黄色く発光する星の模様が三つ付いていたのだ。不気味だが、どうせ今から死ぬ私は「急激なストレスによって表れた特殊な湿疹か何かだろう」と特に気にしないで、改めて決行する。

 ドアから距離を遠ざけるように歩くと強固なコードが首を締め付けていき、同時に呼吸も困難になっていく。仕組みを理解した所で意を決して部屋の奥まで勢いよく進むと、ぎゅぎゅぎゅっ、と一切の隙も与えずに首全体を縛り付ける。そうして、首や上半身を使い締められる限界までコードを引っ張り続けた。一見、白蛇に巻かれた様なそれは明らかに御利益とは正反対の行為だった。


「ゔ……ゔぐっ……」


 思ったより痛い。下手したら千切れてしまうんじゃないか。そして、何より物凄く苦しい。頭がさぁーっと冷え、血の気が引いていく感覚がする。今すぐに肉体的にも精神的にも苦痛から解放されたいのに。どうしてまだ意識がなくならないの? 早くしてよお願いだから。というか……私、本当にこんな苦しい思いをしてまで死にたいのかな。

 その時──


「……っ……!」


 約十六年間の人生が走馬灯のように駆け巡った。噂には聞いていたけど実際にあるんだ。

 七歳の夏頃に家族と訪れた隣町の科学館、懐かしいな。健在しているのならもう一度行ってみたかった。

 中学時代、人間関係のストレスから体調を崩していた時期に親身になってくれた保健室の先生。先生なら私の味方になってくれただろうか。今はどこで何をしているのか知らないけど。

 高校に入学するとすぐに愛華という友達が出来た。進級してからは千紘と由実とも仲良くなり、一緒に居ると楽しいしみんな私を気にかけてくれる。それなのに、私はこんなことを……。もう少し話せば、信じてくれたかもしれない。修学旅行にだってみんなと行きたい。

 やっぱり、私、まだ生きたい。


「……っだいぃ……きだぃ……」


 しかし、気が変わった時にはもう遅くて、意識が朦朧とし、自ら首に巻いた呪縛を解くことは叶わなかった。

 最期に見たものは、手の甲の一番右の星がすぅっと消えるように薄くなっていく光景だった。




「はあっ、はあっ……! はぁっ……はぁ……」


 私は、恐怖に怯えるようにベッドから勢いよく上体を起こした。消灯した部屋に太陽が差し込み周囲は辛うじて視界に入る。顔や背中に冷や汗をかいていて、鏡を見なくても顔面蒼白であることが分かる。

 すごく怖い夢を見た。思い出すだけで震える悪夢のような"実際の出来事"を。

 思えば、あの頃は、まだ死に敏感じゃない普通の女子高生だった。でも、あの日をきっかけに私の身体からだはおかしくなってしまった。


 私、桐沢星花は、一度自殺して、一度事故死している。

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