第2話 現実逃避行

「ちょっと、ここで待ってろ」


 教室前の生徒からは見えない場所に立ち止まると、私にそう指示をして依田君は教室に入っていった。何しに入ったのだろうと考えていると、


「おい依田、ホームルーム始まってんぞ。これで何度目だ」

「何十度目ですよ先生。ちょっと早退しますわ」

「はっ? 今日はどんな理由だよ?? ってお前、その鞄──」

「お先に失礼しまーす」

「おい!」


 という、二人の男声からして依田君と担任の篠原先生の不毛な会話が聴こえてきた。直後、戻ってきた彼は背中にリュックを背負って右手に私の鞄を掴んでいた。


「ほら。これだろ?」


 彼が言いながら差し出してきた鞄を受け取る。

 ああ、そうか。なぜか早退することになったから私の荷物を持って来てくれたんだ。意外と、ホームルームの最中に顔を出す勇気がない私へのささやかな気遣いでもあるのかな。


「よくわかったね。鞄」

「わかるだろ。普通」

「普通ではないと思う」


 特にサボリ魔の依田君の場合は尚更。席の右フックに掛けた私の鞄をそんなに早く見つけられるものなのか。平然と女子の荷物に触れる無遠慮な所も含めて少しだけ怖い。


「さて。まあ今日は初回ですので、ちょっと電車でシガイに行きますか」


 今度は講師にでもなったような調子で言葉を並べる依田君。サボリ専門の講師とか初めてお見かけした。

 というか、ここから少し歩けばそれなりに都会の街並に変わっていくのにわざわざ電車を使って市街地へ行くのか。そもそも今は賑わっている場所へ行く気分ではないけど。


「市街って、電車で行くものなの?」

「行けるだろ」

「そりゃあ、行けないこともないけど」


 何となく噛み合わないやり取りをしてから、私達は早退届を提出して本当に学校を早退した。

 出てから、流されるようにズル休みしたけどこれでよかったのかな。家族にも学校の人達にも悪いよね。と、心の中で罪悪感が渦を巻く。

 それと同時にまた白線で分けた歩道ルートに入り、車やトラックとすれ違う度に心臓がざわざわする。ただ、隣の依田君が自然と車道側を歩いてくれていたことによって登校時ほど不快な気分ではなかった。やはり、土足で踏み込んでくる傾向はあるけれど案外気が回る人なのかもしれない。




 徒歩十分で学校から一番近い駅に到着すると、構内の売店でお菓子と飲み物を買ってから快速列車に乗った。

 午前八時五十五分。通勤時間と被りそうな時刻ではあるものの私達が向かう方面は基本的に乗客が少なく、座席はまばらに空いている。ただ、市街を目指すなら反対方向な気がしないでもない。

 依田君が左側の二人席の前で立ち止まって「先に座りな」と言うので、窓側に私、通路側に依田君、と隣同士で座ることになった。他にも席は空いているけれど、次第に増えるであろう乗客への配慮を考えると別に断るまででもないと思い、彼に従った。


「……はぁ。何やっているんだろ」


 窓から流れる緑多めの景色を眺めながら、ため息と独り言が零れる。心臓の騒めきは治ったもののサボリの後ろめたさは未だ拭えない。

 よく晴れた平日の朝九時から、この私は……


「そんなに心配しなくても、いずれ慣れるよ」

「慣れたら私の何かが大きく変わっちゃいそう……」

「変わるんだよ」


 依田君の自信に溢れるような芯の通った声がローテンションな私の耳に響く。

 目線を彼に移すと私は訊ねる。


「「変わるための現実逃避だから(?)」」


 依田君と私の声がやけに綺麗に重なった。ニュアンスが違うだけで、一言一句、一緒だ。

 彼が私を元気づけようと提案してくれたのは何となく伝わっていたし、私も不安はあるしサボり慣れは御免だけど今までにない体験を機に自分を変えてみたい気持ちが少なからずあった。

 さっき売店で買ったチョコクランチの小袋の封を切りながら彼は口端を上げる。


「わかってるじゃん」

「まだちゃんと理解したわけじゃないよ」

「それでいいよ。いる?」

「ん。ありがと」


 依田君が差し出した小袋からチョコクランチを一つ摘み、口に入れる。

 噛めばビスケットのような何かが詰まったミルクチョコがザクザクと音を立てる。心地よい食感と相性抜群の組み合わせに思わず頬が緩む。


「……おいしい」

「でも、顔色は良くなったよな?」


 そう言って、依田君が私の顔を覗く。確かに、さっきまで悪寒や息苦しさを感じていたのに、いつからだろうか症状は落ち着いていた。私の体は彼の思惑通りに変化してきている、ということだろうか。

 私達は、見つめ合っていた。


「…………」


 それにしても、やっぱり、依田君って綺麗な顔立ちをしている。大きな瞳は目尻が吊り上がっていて我が道を進む強さを感じるけれど、性格の割に繊細なその造りはギャップがあって、つい、じっと見つめてしまう。


「…………」

「……お?」


 依田君が不思議そうに軽く首を傾げる。


「あ、いや……なんでもないっ」


 私は恥ずかしくなって彼から目を逸らすと、鞄から売店で購入したレモンティーを取り出す。気を紛らわしたいのとお菓子で渇いた喉を潤したいのとで黄金色の冷えた飲料を体に流し込むと、頭の中はすっきりしていくも口の中には結局甘ったるさが残り無糖にすべきだったと少々後悔する。

 キャップを締め、何気なくまたガラス窓に視線を戻す。景色は相変わらずのどかなままで、やっぱり市街へ向かっているとは到底思えない。


「ねえ? これって、どこに向かっているの??」

「だからシガイだよ」


 気になって聞くと、直後、穏やかなメロディからのまもなくの駅到着を知らせる女声の自動アナウンスが車内に鳴り響く。


「お、噂をすれば」

「ここで降りるの? 聞いたことあるようなないような駅名だけど、明らかに都会ではないよね」

「そりゃあ、見ての通り」


 当然かのように言いながら依田君が窓に顔を向ける。駅を目前に速度を落として流れていく風景は、さっきより栄えてきたもののアパートや公園などのよくある平凡な町並。彼は確かに「シガイ」と言っていたから、もしや私をからかう為の嘘だったのか。

 停車すると、私達は立ち上がり列車を降りた。それから何歩か進んだ所で依田君の足が止まり、流れるように私も立ち止まる。見上げた彼に倣って顔を上げると、駅名が印字された大きな白い看板が目に映った。


「ほら。ずっと疑っていたみたいだけど、市外だろ?」

「……あ」


 看板の中央に、当駅の名前と、その下に小さく県と市の名前が書かれてある。

 市街ではなく、市外だった。同じ読みなのに最後まで気づけずに賑わった場所を想像していた自分が恥ずかしくて、悔しい。


「最初から『地元から離れる』って言ってよ! 勘違いするから」


 自分で勝手に勘違いしたにも関わらず、つい彼にぶつけてしまう。


「あ、もしかして別のシガイと勘違いしていた? 色々あるもんな。この調子じゃ謎を解くよりも先に俺が死骸になってしまうかな」

「最っ低」


 馬鹿にしつつ安定して不謹慎ネタをぶっ込む彼に軽く吐き捨てると、改札を抜けて駅を出る。

 視線の先には、私もよく知る大型スーパーやコンビニや住宅街、それから何となく心が安らぎそうな河川敷がある。どちらかといえば田舎なごくごく普通の知らない町だけれど、それでも全然馴染みのない土地へ赴くのって想像よりも新鮮でちょっと高揚した気持ちになる。


「どこだよここ、って感じだよな」

「うん。……でも、嫌じゃないかも」


 隣に並んで笑う依田君に私も少しだけ口角を上げる。

 彼が歩き出すと私はその後ろを着いて行く。駅周辺は改良工事からあまり経過していないのか洗練されていて、進んで行くと徐々にまったりした田舎らしい町並になっていく。二種類の風景を味わえるのは楽しい。


「……あれ」

「どうした?」

「ううん? 大丈夫」


 背後の私の声に振り向いた彼に短くかぶりを振る。

 気がつけば、私は息苦しくなることなく彼と一列になって歩道を歩いていた。通学路とは違って境界ブロックで仕切られた歩道とはいえそれでも普段なら多少の不安が押し寄せてくるのに、むしろ今は心地よさすら感じる。市街じゃない、知人と遭遇することなどないような知らない土地が現す効果だろうか。




 数分ほど歩いて、私達は駅の前で視界に入った河川敷に着いた。依田君の隣に並んでコンクリートの階段を降りると、そのまま一面緑の絨毯にそっと体操座りをする。

 どこにでもある平均的な広さののんびりとした場所。だけど、不思議とウキウキとした気分で、春らしい穏やかな気候と草や川やお日様といった自然の匂いに癒され、すぅー、はぁーと思わず空気を吸ってみる。とても気持ちが良くって、心身を浄化してくれるようだった。今までなら素通りして向き合うこともなかった町並みや自然の数々は、こんなにも気分を爽快にしてくれるのか。

 優雅なひと時に浸っていると、両手を後ろにつき足を伸ばしてくつろいでいる依田君が私に顔を向けてこう言った。


「学校に居た時のお前、息苦しそうだったよ」


 依田君にしては珍しく、真面目な顔つきと声色で。

 彼が私の心身の不調に気づいていることは既に分かっていても、面と向かって具体的に言語化されると恥ずかしいし、何より返事に困る。


「そんな数分程度で伝わるものなんだね」

「数分じゃないよ、この四月からだから数日だよ」

「どういうこと?」

「進級して同じクラスになった時から見てい──こっちに伝わってきてたから」

「え? 私、そんなに負のオーラ出てた??」


 あまり教室に顔を出さない彼相手に、しかも関わっていない当時からそこまで伝わっていたなんて。ますます自分が嫌になりそうになった時、頭上にふわっと何かが触れた。依田君が私の頭に手を乗せている。


「大丈夫。俺と一緒に病みを払う現実逃避行げんじつとうひこうは始まったばかりさ」

「ダークファンタジー物の主人公なの? 私達?」

「そうかもなっ」


 少年のように無邪気に依田君は笑う。本当に今の彼だけは冒険漫画の主人公でもおかしくない。

 学校。という、さりげなく縛られる場所から連れ出すことで彼は私をちゃんと癒してくれたんだ。

 こんな日も、たまにあると、息抜きになって嬉しいかも。


「ありがとう」


 はにかみながら、彼を見つめてそっと口にする。


「何が? ……あぁ」


 察したように彼も口角を上げると、そのまま河川敷の左奥に聳え立つ大型スーパーに指を差しながらこう提案した。


「もうちょっとしたら、あそこのフードコートで昼飯にするか」

「うん」

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