空に輝くゴミクズ
小林岳斗
第1話 不真面目で不謹慎な彼
羽毛布団の感触がして、意識がはっきりとしてくると、重たい瞼をゆっくりと開ける。
自室のベッドで仰向けになっていて、全身のどこにも痛みを感じなくて息苦しくもないとわかった途端に脱力して、思わず安堵のため息が零れる。私は体を起こす。
よかった。今日もいつも通り生きているみたいだ。
起き上がれないほどの高熱にうかされたりもしていないし、寝ている間に不審者に入られてどこかしらを刺されたような痛みも形跡もない。
顔を洗って、歯を磨いて、制服に着替えて、母が食卓に並べた朝食を摂って、鞄と靴を身につけ家を出発しても、今朝もこの身に異変が起きるようなことはなかった。
四月下旬の麗らかで過ごしやすい晴天の下を歩いて学校を目指す。時々吹く風も心地よい……はずなのに、歩き出すと同時に少しずつ緊張が全身を流れるように回っていき、呼吸と胸の鼓動が早まっていく。
白線で仕切られただけの歩道側の私にいきなり自動車が突っ込んでくるのではないか、そんな不安で胸がいっぱいになるのだ。今日もそんな落ち着かない体を半ば強引に動かし、なんとか無事に高校のいつもの席に腰を下ろすことが出来た。
私、
死ぬことにメリットなんてあるわけがない。
だって、首を絞めてもすぐには無になれず数秒間は尋常じゃない息苦しさに襲われて苦痛からは逃れられない。それでいて、頭の中では、まだやり残したことがあったな、って走馬灯のように駆け巡るんだ。
しんどいこともあるけれど、同じくらい、いや、きっとそれ以上に楽しい未来も待っている。こんな私に叶えたい夢だって出来たんだ。高校二年生で生涯を終えたくはない。まだまだこの世界で生きていたい。
私の視線の先の右手の甲でただ一つ光る星模様が、おそらく私に"最後のチャンス"を与えてくれているのだ。
もう、この
「星花、おはよう〜」
「あっ、おはよ〜」
感傷的になっている私の頭上にお馴染みの声が降りかかると、反射的にそれに合わせて返事をする。すると、釣られるようにもう二人の女子からも「おはよう」が来て、三人が私の席に集まった。
彼女達は同じクラスの友達で、休み時間などは基本的に四人で固まっているのでグループみたいになっている。いや、四人のチャットグループがあるので実際にそうなのかも。
後から声を掛けてくれた
登校に関しては、私だけ家の方向が三人から少し離れているので、学校に近づいた辺りで合流することはあっても前もって集合して行くことはほとんどない。放課後はよく軽い寄り道をしながら帰っている。
そんな登校時のルーティンを何気なく辿っていると、千紘が私達に話題を振ってきた。
「ねえねえ、私あの映画見たいんだけど知ってる? 先週公開されたまさちー主演の恋愛モノでさー、なんだっけ」
「『誰にも振り向かない山本くん』だった気がする」
千紘が今流行りの男性アイドルグループのメンバーのまさとこと「まさちー」が主演の映画について聞いてきて、それに愛華が答える。私は千紘ほどまさちーに詳しくはないけど、ぱっと開いた大きな瞳はとても綺麗で、彼女が言う映画にも少し興味がある。
「それそれ! まさちーのビジュやばすぎない??」
「まじ? ちょっと見せて!」
由実が声を上げると千紘が手元のスマホを操作して、私達に映画のポスターを向けてきた。左を向いた学生服姿のまさちーの端正な横顔をセーラー服を着た可愛らしい女優さんがうっとりとした表情で見つめる、少女漫画らしさが溢れる華やかなショットだ。さらに見てみたい気持ちが強まり、私は反応してみせる。
「ほんとだ! さすがまさちーだね!」
「でしょ〜!」
「てゆーか、ヒロインの子も顔面偏差値高すぎ! お似合いすぎて嫉妬しそうー」
「うちら一般人には手が届かない美貌だよねぇ……」
私と由実の声に千紘が目を輝かせたりわざとらしくしみじみと言ったりして相槌を打つ。千紘はこの中では特にコミュ力がある印象で、このように話題を提供したり器用に相槌を入れてくれる。
「今週の土曜日、みんなで見に行く?」
愛華の提案に私達は最初から答えが決まっていたかのように即決だった。
仲良しの子達と明るい話題で盛り上がっている時間はやっぱり楽しくって、学校に着くまで悲観的だった頭の中はいつの間にか癒されていた。誰にも悩みを打ち明けたことはないけれど、友達のたまにこうやって自然と気分を前向きに転換してくれる所が私は好き。
そんな感じで救われた気持ちになっていると、由実が話題を変えるようにこう言った。
「聞いて? 今朝、テレビでいやーなニュースが流れてたんだけど、どこかの高校生がクラスメイトの子を刺した事件があったとかで。朝からやめてほしいよね?」
温かくなったばかりの胸にまた灰色の雨雲が掛かったような感覚になる。続きの言葉を聞きたくなくて立ち上がろうと机に手を添える。
「その刺された子、どうなったの?」
「亡くなったみたい」
「うわ……怖すぎる」
私が起立するよりも早く鳥肌が立ち、浮いた腰を震わせながら椅子に下ろす。暖かい季節なのにぞくぞくと寒気に襲われ、思わず両腕を抱える。
千紘の質問のお陰ですぐに話が展開され、私の耳が思考がそれを嫌でも受け入れると、脳内は一瞬にして私もこんな風に殺されてしまうんじゃないかという妄想を繰り広げる。もしかしたら、この教室の誰かに。
「悲観的すぎる」と言われても無理はないけれど、それでも私は自分のことを「おかしくない」と思っている。普通に有り得ることなんだと手の甲の星を見つめて改めて感じる。
由実はよくネガティブなニュースを提供したり生徒や先生の愚痴を笑い話にして場を盛り上げようとする所がある。一緒に楽しんでいる時もあるけれど、たまに胸が苦しくなる。
「星花?」
「えっ、いやー、なかなか衝撃的な話だったから急に体がぶるって冷えて。あはは」
愛華に呼ばれて現実に引き戻された私は慌ててその場を取り繕うように笑う。
「ちょっと由実ー、星花を怖がらせちゃダメじゃん〜」
「ごめんごめん〜」
私が内心本気で怯えていることなど知らずに千紘と由実も笑う。三人は私を見ても何とも思っていないのだろう。
息が詰まりそうな気分の悪さに今度こそ立ち上がる。
「私、ちょっとトイレ」
「いってら〜」
「いっそげー」
由実と千紘の声を背中で受けながら小走りで教室を出る。千紘の言う通り、朝のホームルームの開始時間まで五分を切っているので急いで戻らないといけないのだけど、それまでに気分を整えられるか分からない。いつもなら席を離れるまではしないけれど、さっき聞いてしまった話は精神的な負担が大きい。
ニュースの子、私と同年代で自分の意思と無関係に突然死んじゃうなんて悲しすぎる。すごく痛かっただろうな。きっと、まだまだ行きたい場所とか食べたい物とかたくさんあったよね。私もこの夏の修学旅行で訪れる軽井沢をずっと楽しみにしていたのに。教室を出れば変わると思いきや、勝手にしたくもない想像が膨らんで、自分と重ねて、さあっと血の気が引く感覚がする。
とりあえず空気がいい場所に移動したくて、立っているのもやっとの体力で屋外を目指す。手摺を見つけると時折掴んで体を支えるようにしながら廊下を真っ直ぐ歩き続けて、突き当たりの角を曲がった所で外へと続く通路が見えた。私は数歩進んで三階渡り廊下に足を踏み入れる。体を左に向けると目の前ではお手本のような快晴が広がっていて、男子生徒が白いフェンスに肘を乗せて突っ立っていた。その姿は、私の目に、何かに──たとえばこの生涯を諦観しているように映って見えた。もし本当なら、生死をいちいち気にする私とは正反対だ。
屋外に出るまで彼の姿は見えなかったので内心びっくりして、ここなら一人になれると思い込んでいた私は競り上げてくるため息を抑えながら踵を返す。
「どうしたの?」
背中に男の人のぶっきらぼうな声が飛んで来て、反射的に足が止まる。一緒に心臓も止まってしまうんじゃないかとも思った。どこかで聞いたことがある声のような気がするけれど思い出せない。
周囲には私達しかいないので自分に向けられたものであることは間違いない。聞こえないフリをして立ち去るかしないか悩んでいると、話を続けてきた。
「いや、ホームルームギリギリの時間にこんな場所に来る人なんて珍しいから、何かあったんかなって」
続行されたので仕方なく振り返ると、それはとても見覚えのある顔だった。
男子にしては長めの茶髪はおそらく手入れがされておらず所々で跳ねていて、学生服の紺のジャケットは暑苦しいのかすべてのボタンを外して全体を現した赤ネクタイが風に靡いている。大雑把な格好をしているのに、瑞々しい白の小さな輪郭に描かれた吊り目の二重瞼と線の細い唇は美しく、スタイルもそこそこ良くて、だらしなさすら絵になる整った容姿をしている。
彼は、同じクラスの
とは言っても彼をあまり教室で見かけたことはなく、欠席は勿論、遅刻や早退もよくしている。「公園のブランコに座ってた」「カフェでフラッペ飲んでた」などのサボリ疑惑を耳にするし口調も決して良くはないので、包み隠さず言葉にすれば彼には"素行不良"というイメージがあった。今だってこんな
「ちょっと空気を吸いに来ただけだよ」
「あー、屋外で一番高い場所ってここだもんな。屋上は俺らは立入禁止になっているし」
「そうだね。じゃあ、私は……」
今は一人にしてほしいのと彼にあまり良い印象を受けないことから控えめに伝えて、改めて渡り廊下を後にする。終わりがけは一本の髪の毛のような細い声になった。
後ろからすたすたと床を踏み鳴らす靴音が耳に届いた直後、ぶら下がる私の右手が骨張った手にそっと包まれて立ち止まる。胸がドキッとした。やや貧血気味の今の自分と変わらないぐらいに冷えているけど、握り方にやさしさを感じる。振り向くと、困ったように眉を下げて訝しげに私を見つめる彼の顔があった。
「え……?」
「なんか、しんどそうにしているな」
それから、手を離さないで見つめたまま無感情で言った。今の私を見抜かれたような気がして胸の鼓動が速度を上げる。
「そんなことないけど。あの、離してくれる?」
「強がるなよ」
「強がってない! いきなりグイグイ来られてちょっと引いてるんだって」
口端をくいっと上げた彼にイラッときてストレートに言い返してしまった。
すると、何が楽しいのか彼は生き生きとした調子で芝居がかったような格好つけた喋り方をする。
「そうだよな。悪かった、自己紹介が先だったな。俺は依田。あまり出席していないからご存知ないかもだけど実は君のクラスメイトだ。好きな食べ物は──」
「依田光士朗君。噂になっていてとっくに知ってる! よく欠席する理由もこの周辺を
「フルネームでありがとう桐沢星花さん。てゆーか、何情報だよそれ。『好きな遊具はブランコ』って。別にねーよ遊具に好き嫌いとか」
とりあえず指示を聞いて手を離してくれた依田君は、冗談やツッコミを入れながらくしゃっと破顔した。
「周辺を彷徨いている、って表現もやだなー。"サボリ魔"だと言ってくれよお嬢さん」
「どっちも良いイメージがないよ。依田君はなんでサボっているの?」
「知りたい?」
そう問われ、すっかり彼の波に呑まれて自然と会話していてお陰で朝のホームルームの存在が頭から抜け落ちていたことに気がつくと「はっ……!」とほぼ息のような声が漏れる。
「やばい、もう行かなきゃ……!」
「なあー」
足早で教室へ向かおうとすると無気力な声に呼び止められる。これで何度目だろう。私も無視をすればいいのに体が勝手に停止して、振り向くことはなく次の言葉を待っていた。
「たまにでいいからさ、こうして俺のサボリに付き合ってくれないか?」
依田君のいたって純粋な声が校内に響き渡るお馴染みのチャイムと重なる。教室に間に合わない予感はしていたので諦めて、それよりもなぜ自分の計画に私を巻き込むのかが気になって黙っていると、彼はこのように伝えた。
「どうせ俺はロクな人生を送れないんだし、お前からも憂鬱が伝わってくるし、しばらくの間、謎解きゲームでもしながら現実逃避しに行こうぜ?」
数々の予想にもない言葉が飛んで来て、詳細を教えてくれたのにますます頭が混乱しそうになる。
「謎解きゲームって何? 現実逃避しに行くってどこへ? 依田君が何をしたいのか全然分からない」
「おおっ、結構食い付いてくれるんだな」
「だって、意味わからなすぎて……!」
「謎を解いて、俺の自殺を止めてみな?」
「…………は?」
彼の発言に一瞬にして背筋が冷え、思い出したくないトラウマが甦る。昼下がりの薄暗い部屋で首を吊る十六歳の映像が脳内で再生した。
私の耳が正確に聞き取れていれば、今、彼は口元をニヤつかせながらとんでもないことを言った。
「あの、今、なんて……?」
「だから、俺が死のうとする理由を俺や俺の周りから探し当てて俺のこと止めてよ。……俺俺うるさいな。詐欺かよ」
念の為に確認してみるも何にも間違っていなかった。
自殺。絶対に聞きたくなかったその単語を、どうしてそんなに軽々しくふざけながら口に出したの? 世の中には病気や事故で長く生きられない人がたくさんいるのに、こっちは人一倍"死"に怯えながら過ごしていて生きづらいのに……。
私は震える声に精いっぱい芯を持たせて彼に言う。
「あんた……そういうこと、冗談でも口にしないでほしいんだけど」
「桐沢? まじで怒ってる?」
「当たり前でしょう!? 遊び感覚で『死ぬ』って言葉を使わないで! 生きたくてもそれが叶わない人の気持ち、依田君は考えたことがある??」
「じゃあ、生きたくても自ら死を選びそうになるほど人生が辛い人の気持ちは考えたことある?」
突然、意表を突く言葉に息を呑む。依田君の言う視点からは考えたことがなくて、新鮮に感じた。
私も嫌な出来事が重なった時期に自殺願望に駆られたことはあるが、今になってみるとあれは一時の感情だったに過ぎないし、人生をトータルすると自分はまだまだ幸せな方だっただろう。けれど、恵まれていなかったり日常的にしんどい思いを抱えている人達からすれば消去法で選択してしまうのかもしれない。
それを、私に伝えるってことは……
「依田君、もしかして……本当に、
「それはさ、謎を解いて?」
「はぁ……。こっちは真面目に話しているんだよ?」
「真剣な空気ってなんか壊したくならない?」
「ならない」
「命が懸かったハラハラゲーム、面白いだろ?」
「このぉ…………クズ!」
ブレることなく冗談めかす依田君に思わず暴言を吐いてしまった。
だって、彼が仮に本気で死にたい思いを抱えていたとしても、生と死の話題でふざけるのはお門違い、不謹慎だ。
「うわ。お前も案外口悪いのな? そうだよ、もし謎を解くのが遅かった時にはこのクズがこっから飛び降りでもして空に舞ってみせるよ」
「あー、もうやめて。聞きたくない!」
私は依田君の不適切発言を遮断するように両耳を塞ぐ。すると本当にこちらに声が届かなくなったのか、肩を指でトントンと突かれたことで彼の呼び掛けに気づいて耳から手を外す。
「何?」
「あからさまに嫌そうな声出すなよ。今から早速、早退からの現実逃避しようぜ」
「ちょっとっ、どこへ連れて行く気?」
また私の手を掴むと、行きのルートを辿るように走り出した。自分の力じゃ止められないし言葉で伝えても効果がなさそうなので、今は諦めて着いて行く。
ただ……
このまま依田君の不真面目で不謹慎な提案に乗ってたまるか、と反抗する一方で、対照的な彼によって臆病な自分を変えられるのではないかと思ってしまう自分もいた。
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