10.生命、限りなく
ヒュォォォォオオ……
「……ぅうう……んぅ?」
ヒュゥゥゥゥ……ざぁーーーぁぁ……
風鳴りと、水の流れる音。
いつかと同じ、薄ら暗く爽やかな空気。
かちゃり
鎖の擦れる音が虚空へと消えていく。頭はすっきりとしていた。
「……」
ここはどこだろうか。分からない。覚えているのは、とても痛かったことくらいだった。
痛みはもうなかった。何でもできると錯覚するほど快調だ。きっと空すら飛べるだろうと思うほどに。
だが、残念な事に、今の私は囚われの身だ。身を捩れば鎖が音を鳴らし、磔のように広げられた両腕はほとんど動かせない。
きっと所長が何かをしたのだろう。
こじつけかもしれないし、実は八つ当たりをしたいだけなのかもしれない。それでも、それ以外に心当たりはなかった。
所長の意味深な言葉。
それが聞こえてからの記憶が無い。
彼の言う、悪夢を見たような覚えはない。この状態を受け入れた覚えもない。あるいはこれから起こることなのか、もう起こっていてそれを忘れているだけなのか。
気分が良かったというのに、段々と苛立ってきた。自分の身に起きたことを理解できないのが気に食わない。どうしていきなりこうなった…? 何もかもが私を置いてけぼりにする。
「…所長。見てるすか? 見てるすよね、私には分かるっすよ……実はすぐ近くにいるでしょう? 説明しろ、私に。」
多分、すぐ後ろにいると思う。そういう性格をしているから。
「……よく分かったね。」
やっぱり。
「いることくらいは分かるっすよ。そんなことより、私はなんで拘束されてるんすかね? それからここはどこなんすか?」
「えるあちゃん。」
彼は質問に答えなかった。
私の言葉など耳に入っていないかのように、真剣な声色で、訳の分からないことを訊いてくる。
「ねえ、キミは今正気かな?」
「ぁあ?」
「どうかな?」
「……なんでそんな……」
「大事な事だよ。」
「…あぁ……んんと、なんと言うか……そんなの知らないっすよ。何を以って正気とするかという指標もないんすよ? それなのに……そんな曖昧な質問なんて……ねぇ? そんな事より、質問に答えて欲しいっす。」
「へぇ……なるほどねぇ……そっか。じゃあ、今は何をしたいかな?」
「はぁ?」
またしても所長は質問を無視した。まさか、本当に聞こえていないのか?
……いいや、そんな訳は無いだろう。ただ答えようともしていないだけだ。
「これは今後にも関わる質問だよ。ねえ、どうなの?」
「……今すぐにでも、所長をぶん殴ってやりたいっすね。」
「……ンンん……暴力性の発露…? それにしては大人しい……」
「何わけの分からん事言ってるんすか? 殴りたいだけで暴れたいわけではないんすよ。拘束されてるのが理解できないほど馬鹿じゃねえっす。ていうか、コレ、とってくれないすか? そしたら殴れるっすからね。」
「あぁー、なるほどなるほど。うーん……そうだねぇ……」
迷っているような声。わざとらしい声だ。とは言え、わざわざ拘束なんてしていたのだから、何かそれ相応のリスクがあったのだろう。
でも、きっとそれはどうでも良い事だ。
「マア、良いかな?」
パチンッ
しばし逡巡の間をおいて、乾いた音が響いた。
何かが揺らいだ気がする。
ピキィン!
独特な甲高い音と共に拘束が砕け散った。おそらく魔術の類によって為されたのだろうが、どうやったのかは分からない。
魔術だとかは、軟禁生活中には教えてもらえなかった分野だ。
「わ、あぁ、あ゛!」
拘束が無くなったことで私は支えを失った。身体が、当然の重力に引かれて倒れていく。洞窟のような岩の床がみるみる迫る。こんな腕の角度では受け身が取れない。
ぐしゃっ
「うべらっ」
痛い。雑な仕事しやがって。
外せと言ったのは私だが、これはひどいじゃないか。無意識的にであれ所長に気遣いなど求めるべきではなかった…。
「ぐえぇ…」
自由になったはずの身体は、しかし記憶にある物から随分と変わっていた。重たくて動きが鈍い。自重で潰されている。まるで背中に重たいものを背負っているかのようだ。
「ふぬぬ…」
「それにしても、えるあちゃん。」
「何すかぁ? 喋るだけだとしても顔ぐらい見せたらどうっすかねェ?」
「立派な翼に、立派な尻尾だねぇ。冠みたいな角まで生やしちゃってサ。」
起き上がろうと四苦八苦していると、所長がからかうように声をかけてきた。
今日の彼はいつにも増して不可解だ。翼と尻尾と、それから角? 私にそれが生えていると言いたいワケか。確かに、もしそれが事実ならばやけに身体が重たいのには合点がいく。
しかし……後天的に得られるものなのか、それは?
「翼は特に凄まじいね。何人か有翼種の知り合いはいるけど、そんなに大きいのは初めて見たよ。」
「後から生えるもんなんすか、そんなの。」
「何言ってるのさ。キミは自分が何者であるのか忘れているのかい?」
「……?」
私? 私の名前はえるあだ。でもそんな話ではなさそうじゃないか。私が過去に何であったかとか、そんなのは憶えていない。話したこともない。一体どういう答えを求めている?
肉体の話だろうか。生き物として、何なのか。
「…えと、Paleのスポーナーっすけど…。」
「そう。Paleはその辺の装甲トカゲなんかとは違う歴としたドラゴンだよ? 翼も尻尾も角もある。」
「……でも、今までは生えてなかったっすよね?」
「そうだね。」
何を言ってるんだこいつは。さてはまともに取り合おうとしていないな? 真面目モードはとっくに終了していたらしい。質問にも答えないし、そればかりか立ちあがろうと躍起になる私を見下してせせら笑っている……気に食わない。
ぐぐぐ…
「よ、おぉっ…ふぅ……」
「おおー、立てたじゃないか。頑張ったね!」
「これであんたをぶん殴ってやれるっすよ。覚悟しろー?」
何とか立ち上がれた。重心が後ろに偏っていて、さらに目線も随分と高くなっている。身長が伸びたのだろう。バランスが取りづらくてかなわん。
拳を握り、憎たらしい顔面が見えたらすぐさま殴ってやろうと考えて、私は振り返った。
「…は?」
そこには黒い影がいた。白い光点が二つ、頭みたいな所に浮かんでいる。黒いもやみたいな人型だった。
すかっ
手を伸ばしても、すり抜ける。実体が無い。
「どうしたのかな? 殴るんじゃなかったの?」
殴ろうにも殴れないが?
「殴らないんならもう行くね。出口はあっちだよ。」
「おい、あぁ、もう!」
影が霧散した。まるで、最初から何もいなかったかのように。
伸ばした手は空を切った。視線の先には何もなく、じわりと嫌な汗が滲んだ。
……………………………………………
意味不明なやつだな、と思っていた。行動原理が分からないから不気味ではあったが、それでも敵とは認識していなかった。
それが間違いで、実際のところは狡猾でいやらしい悪魔のようなやつだと知ったのはつい先程のことだった。
私の立場が危ういものだとは気付いていた。何かがおかしいとも思っていた。
スクリーンテレビに映る世界が、私の知るものからあまりにもかけ離れていたからだろうか。
「どうしようねぇ? 百億円だよ? 頑張って働くの? ネェ、えるあちゃん。」
百億円。私が破壊した施設の修復費らしい。
私は軟禁されていたから、世間知らずだ。それでも外がどんな感じなのかとかは、テレビを見ていれば何となく分かった。これは働いて稼げるような額ではない。
破壊の原因が私だということは、もはや疑いようのない事実だった。でも、意図したものではなかった。不可避な事故だったと思う。
それは所長も分かっているだろう。それでも、いや、だからこそか。彼はにやにやと嗤っていた。もしかすると、世間知らずを騙そうとしているのかもしれない。
「……どうすればいいんすか…?」
「そっか、そっか。そうだよね。分からないよね?」
「……」
何もかもが彼の掌の上だ。思えば、今までもそうだった。気付けばこうやって弱みを握られ、思うがままに操られてしまう。
「なに、悪いようにはしないさ。何せキミはもう家族になったんだからネ。」
「…家族、とは。」
「外津神 えるあ、君は僕達の血族になった。受け容れたんだ。」
「…えと?」
何を言っているのか分からない。受け容れた? 何をだ。そんなことをした覚えはない。
だが、しかし。心当たりはある。意識を失う前の所長の言葉だ。覚えていないだけなのだろうか。もう私は血族たると確定しているのか?
「今生きているのがその証拠さ。キミは身体が真っ二つに爆ぜても生きていられるなどという馬鹿げた自信があるのかな? ああ、その顔。無いね、無いよね。そうだろうとも。」
「…まっ…ぷたつ…?」
裂けていたというのか。私が。
「キミはもう死なない。首を刎ねられても、バラバラにされても、ミンチになったって死ぬことはない。再生するんだ。肉体の有無は関係ない。身体が完全に消滅してしまおうとも、生き返る。」
「…そんな、まさか。それなら、消滅したとして何から生き返るというんすか?」
「…消滅は、正しい言い方ではないか。知っているかな? えるあちゃん。絶対量は変化しないのさ。観測できない何かに変わってしまうだけで。」
「……言い方が悪いっすよ。」
「ハハ、ハ。そうだね。でも、分かってくれたかな?」
「そうすね…。」
否定はもはや意味を為さないだろう。
「そうか。良かったよ。」
「それじゃあ、キミには専属のエージェントとして働いてもらいたい。」
「よろしく、エージェント。」
呼び声を彼方へ(仮題) 鍵の精霊ヨシ @Key-Phantom
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