9.妖、背割、血塗れ化粧
「…んぅ……うう……くァぁ…」
目が覚めて、瞬きを何度か。あくびを噛み殺しながら体を起こして、
ここに来てから、どれほどの時間が過ぎたか……正直大したことはないと思う。でも、きっと三ヶ月は経っているだろう。根拠はない。何となくだ。
今のところ暮らし向きに不都合はなくて、むしろ恵まれてすらいる。三食おやつ付きで、娯楽は望んだだけ与えられ、しかも部屋は常に快適に保たれている。これほどの待遇があるだろうか?
まさか。ありえないと言っても良い。だからこそ、私は軟禁されるに甘んじているのだった。もし嫌ならとっくに逃げ出して、しかし逃げ出せば結局は死ぬから帰ってくるだろう。どうしようもないな。
とん、とたとた…シャッ
ベッドから降りて、カーテンを開いた。ざあざあと雨音が聞こえる。
ジジジ…
『やあ、おはよう。生憎の天気だね。』
「おはよっす。結構好きっすよ、天気雨。」
背後から所長の声がした。ちらりと時計を確認すると、いつも通り、七時だ。まったく毎朝ご苦労なことで、奴はぴったり同じ時刻に通信してくる。
『ンン、そっか。でも残念なコトに今日の屋外運動は中止さ。だから、朝のストレッチはちゃんとやってね。』
「やっぱりそうすか。残念っすね……それから、いつもちゃんとやってるっすよ〜? ストレッチ。」
『フフフ、そっか、そうだったね! んーと、それじゃあ、そうだね……今日の調子はどうだい?』
「…ぼちぼちっすね。軽い頭痛と……あとちょっと息苦しいっす。でもそれくらいで、あぁ、あと、それから、尿意も便意もないっすよ。いつもなんすけど。」
私は報告をしながらスクリーンテレビの前に向かった。ここに来てからすっかり習慣化した行動だった。
『そっか。一回もおトイレに行ってないね〜……Paleと同じだと思っても良さそうだ。』
「へぇ…ぺーるもしないんすか?」
『そうだよ〜? それからぁ……頭痛と息苦しさはぁ……ありゃ、部屋のマナ濃度が下がってるね。いやぁごめんね……ンンン、よし、これでどうかな?』
空調の音があからさまに大きくなった。なんだか爽やかな空気で満たされていくような感じがする。まさか、今日の空気はこんなにも澱んでいたのか? びっくりだ。
頭がすっきりした気がする。気分が良くなる。自然と口角が上がる。
「ちょっと、良くなった気がするっす。」
『何で下がってたんだろ。大気中のマナが不安定だからかなぁ? ……まあ良いか。』
「良いわけないんすけど?」
『イヤイヤそんな…ね?』
「あ? 何を――」
『さあ! ストレッチをしよう! まずは背伸びの運動から〜』
[軽快な音楽]
ダメだ。話にもならない……ここ三ヶ月で学んだ事だが、所長の性格ははっきり言ってしまうとカスだ。話を適当に誤魔化して、それでどうするというのだ?
酷い話だが、問い詰めても体力を消耗するだけで、意味が無い。気に食わないが、しょうがないので大人しくストレッチをしてやるしかないのだ。
「のびーっと。」
……………………………………………
午前中は漫画を読んで過ごした。所長曰く、最近最も流行っているものらしい。所長の言葉は疑わしいものだが、実際面白かったのでまあ良いだろう。
午後はどうしようか。屋外運動は中止になってしまったし、何か授業が予定されているなんてこともない。学力は十分と所長が判断したらしい……私など、右も左も分からない小娘にすぎないだろうに。
教科書を要求しても簡単なものしか寄越さないのはこの軟禁生活での数少ない不満点だった。
「ふぁぁあ……昼寝しちまおうかな…? やる事ねえすからね…」
ベッドに寝転がって、呟いた。独り言が癖になっている。いい傾向とは言えないだろう。
「自堕落だぁ、世の社畜が血涙流して羨むぞぉ?」
でもやる事ないから仕方ない仕方ない。
「すやぁ」
§D2.2
私は磔だった。これから火炙りにされるのだ。私はこの炎が好きで好きで仕方がなかった。
仲の良いきょうだいも、そうでないきょうだいも、皆灰になった。名誉などどこにもなくて、あえて言うなら欺瞞があった。
それでも私は憧れていた。
燃えてしまえば救いが得られるなど、勿論信じていなかった。溺れる者を名乗り、水底に神秘を見出した者たちの言う救いが灰の山など、どうして信じられるだろうか?
信じられるはずがない。
では、なぜ私は憧れたのだろう。幼い日、焼きごてを押し当てられたあの日から。
頭から燃料を浴びせられた。火をつける準備は整ったようだった。
松明を持った男が喚き散らしている。きっと自分に酔っている。祝詞を唱える態度には見えないが……彼の、あるいは群衆の信仰なんて、どうでもいい。早く、早く火をつけてくれ。待ちきれない。
まだか、まだか? 火をつけてくれとねだりたくとも喉が潰されていて声が出せない。
男はまだ祝詞を唱えている。これが焦らしプレイというものだろうか。
男がやっとこちらを向いた。下卑た笑みを浮かべ、松明を私に向けた。
「――。」
そして、爆ぜた。
……………………………………………
キィィィ――――ィィ……ィン――
最悪の目覚めだ。
「あが、ぐ…」
息ができない。頭が割れるように痛い。
ざわざわと耳障りな音が聴こえる。
微かなサイレンの音。
前が見えない。
全身が痛い。
「ひぐ、ぎぎぎ…」
どくん、どくんと随分とゆったりとした心音が聴こえる。体幹が不安定だ。
苦しい。
身体が跳ねた。自分の意思ではない。制御できない。
「あゔぁ、あっ…うぅぅー」
硬直。衝撃。
がくん、ぐき、めき…
「ゔあ、ぎゃ、ア、キャァァァァァ!!!」
めりっズシャア! めきめきめき
「ァアっ、はっ、はっ、はっ、はっ…」
燃えるようなあまりにも強い痛みが私を襲った。鮮やかで、現実味のないほどに強く……身体が内側から爆ぜるようなある種の心地良さすら感じた。
「ぁあー……うひ…」
見上げて青空、気分が良い。澄み渡るようだ。何でもできそうな全能感がある。
だが、どうしてだろうか……霞んでいて周りが見えない。こんなにも、明るいのに。誰かいないのか? 孤独は嫌だ。
「――…!――……」
「――!」
「――?!」
どうしたのだろう。誰かが叫んでいる気がする。そんな遠くで叫ばないでくれ。
聞こえないじゃあないか。
ああ、近くなった。
「――…?――……!――……!!!」
「――。」
…? よく分からないな。何を……言っている…?
聞き馴染みのある言葉だ。全て理解できない。
「――てる――か……」
所長?
「全てを受け容れるんだ……何があっても、悪い夢のようなものだから。」
暗転。
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