3.されど瞳はうつつなり

 気がつくと、私は残骸の中で右目を押さえて蹲っていた。右目がじりじりと痛んでいる。全身が熱い。


「…ぅ、…あぁ……」


 左の視界は奇妙なほどに明瞭だが、だからこそ右目はどうなってしまったのか不安だった。手足の先が軽く痺れて、心拍と共に不安を煽る。

 ただ分かっているのは、いつまでも震えていてもしょうがないと言う事だ。それに、遅いよりも早いほうがいい。怖い事はさっさと終わらせてしまうに限る。そうだろう?

 私は恐る恐る右目を押さえていた手を離した。そして、目を開く。


「うぐぁ、うぅ…」


 右目が大気に触れた瞬間、ずくんと右目の奥が痛んだ。ぼろぼろと涙が溢れ出てきて止まらない。涙で霞んだ右の視界は、霞んでなおはっきりと分かるほどにゆがひずんでいる。


「…きもちわるいっす……」


 右の、特に端は歪みがひどい。視界の端がちろちろ動いて、気になって仕方がない。

 左目だけを閉じれば、丸く世界が歪んでいた。手はあらぬ方向に弧を描き、壁々が私を取り囲まんとしている。反して、視界の中心部はあまり歪んでいないように見える。どうやら円の内側に向かうほど歪みは弱くなるようだ。


「…ぐるぐるする……」


 そう悲観せずとも良いのかもしれない。正面はきちんと見えている。端が忙しなく動くが、きっとそのうち慣れるだろう。右目だけで済んだのだと考えよう。それに、視界が失われたわけではない。歪みはしているが、まだ見えている。致命的な損失とは言えない。

 とは言え、残骸の中身を食い尽くしたので食料が尽きているし、残骸の保温性は失われた。こちらは致命的だ。夜を越える事ができず、夜半に凍え死ぬことになる。このままではいけない。


がさがさ


 せめて、この残骸を外套か何かとして纏うことはできないだろうか? 体温保持や防御のためということもあるが、何より今のままでは人に出会ったときにあらぬ勘違いをされそうだ。

 ……外套の下に何も着ていないというのもそれはそれで同じような勘違いをされそうな気もするが、どちらにせよ勘違いされるのならば着ている方が良いだろう。多分。もしこの残骸が狩猟禁止生物だったり持ち込み禁止だったりしたら終わりだ。いや、あるいは牢生活になるだろう。それならばそれで良い。最悪は回避できる。


 私は残骸の状態を確認した。見ただけではよく分からない。触って、確かめてみる。


がさがさ、がりがり

「傷が付くこともない、すか。どこかで服を手に入れることができれば良いんすけど……。」


 残骸の皮は強靭で、とても私では傷を付けることすらもできそうになかった。そんな生物がここまで無残に殺されているとは、やはりここは危険地帯なのだろうか? それともヒトが下等なだけだろうか……。

 残骸は傷だらけで、千切れた足には鋭利な爪が未だに健在だ。これらを利用して皮を剥ぐことができれば、身に纏うくらいはできるだろう。


……………………………………………


 しばらく時間が経った。苦労して皮を剥ぎ、何とかぼろぼろのマントに見えなくもないくらいには仕立て上げたが、私にはこれ以上のことはできなさそうだ。

 日はまだ高いし空腹でもないので、もう外の通路に出てみても良いかもしれない。

 いや、もう出ないとまずい。食料が枯渇しているから、このままここに留まれば餓死か、あるいは凍死する未来しかないだろう。


ばさっ


 身体を包むように皮を纏い、路地裏から一歩外に出る。路地裏から出る通路は左右に分かれているが、どちらに行こうか?


「左を選びがちだから右、とか……? 逆だっけ……? いや、そういうのって人を嵌めるためのものじゃないと意味ないっすよね……。」


 どうしようか。……そうだな……右に行こう。なんだかそっちに行った方が良い気がするのだ。根拠なんてものはない。


「即死トラップとかなければいいな……」


 右の道を進んでしばらくすると、どの道も袋小路になった十字路に辿り着いた。何のためにある道なのだろうか。奇妙だ。

 私は辺りを見回した。


「おや…」


 左側の道の壁に金属製のハシゴが据え付けられている。

 高さは8mほどだろうか? 錆びていそうだが、とりあえず見に行ってみよう。


「…これは……かなり錆びてるっすね……」


 どうしよう。登るべきだろうか。

 言うまでもなく、錆びたハシゴを素手素足で登るのは危険だ。果たしてそのリスクに見合うだけのリターンがあるのか?


「うぅーん……引き返そ――え?」


 私は引き返すために振り返って、驚いた。私のすぐ後ろは苔と草が繁茂したレンガの壁によって塞がれていた。

 私はその塞がれた道を通ってきたはずなのに、だ。わけがわからない。


 とりあえず、もう戻ることはできないらしい。前に進むしかない。私はハシゴに手をかけた。


「ざらざらしてるっすねぇ……」


 皮膚が切れてしまわないか心配だ。傷口から雑菌が入ったりでもすれば……そのまま死んでしまうかもしれない。

 それ以前に、このハシゴの耐久性はいかほどだろうか? 私の体重に耐えられないほど錆びつき脆くなっているなら、登り切るのは不可能だろう。


こん、こんこん

「あら、割と頑丈?」


 何にせよ、ここを登らなければただ何もない場所で餓死することになるし、私はそんな愚かな選択をする気はない。

 幸いこのハシゴは頑丈そうに感じる。……覚悟を決めて登ろう。こういう時は神に祈るのだったか?


ぶつぶつ……

「いあ、████████……恵みをもたらす三つ目の闇よ…………を……貴き…青……聖体と………炉……した…者よ……溺者は祈ります、████████、████████…いあ、いあ。暗きを啓き、祝福はもたらされん。」


 よし。覚悟は決めた。決めさせられた。もう迷う事はない。


ぎし…


 私は慎重にハシゴに足をかけ、上へと向かって登り始めた。


……………………………………………


 登り続けてかなり経った。どれだけ経ったかは分からないが、少なくとも一時間は登っただろうか。気づいた時には真っ白い霧の中にいて、ハシゴの高さは8mどころではなかった。手が離れたなら死ぬだろう、そう思って登りに登ったのだ。


「…はぁ、はぁ……なが……まだ…?」


 しかし、流石にもう限界が近い。両手が震え、足が滑る。見上げると、ハシゴの終わりが見えた。あと少しだ。


どさり


 私はやっとの思いで登りきり、疲労と達成感に包まれながら大の字に寝転がった。日はまだ高いようで、強い光が目に入ってくる。


のそり


 どれだけ登ってきたのだろうか? 起き上がって下を覗いても地面は見えず、ただ濃い霧が視界を遮るのみだった。


「真っ白っす。」


 でっていう。


 …まあ、見えないのだからここから苦心して見ようとする意味もない。そんな事より、現状確認の方が大切だ。辺りはどうなっている?


「…妙な造りっすね…」


 見回すと、コンクリートとレンガの建物が多く建ち並び、舗装されたアスファルトの道路が遠くへと延びているのが見える。私が今いる所は広場のようだ。

 …人気のない街だ。廃棄街のいずれかなのだろうか?


「…会話できる人がいればいいんすけど…」


 建物の多い方へ向かおう。

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