正体見ずの枯れ尾花

笠井 野里

正体見ずの枯れ尾花

「いつまでひとりでいらっしゃるつもり?」「いろいろなことが忘れてしまえるまで」わたしの目には、顔を赤らめた彼女が見えた。「早く忘れたいと思っていらっしゃる?」「いつまでも忘れたくないと思ってるんだ」――――アンドレ・ジッド『狭き門』



 女がある男に恋をした。文学部でも受けられる経済思想史の授業の前、大教室に一人ぽつりと座る無頼蓬髪ぶらいほうはつの男に一目惚れ、二目惚れ、三目惚れ、と繰り返すうち、いつの間にか女は男に夢中になってしまった。男は経済学部の学生だった。そしていつも一人、初夏らしい白い半袖シャツ一枚、目元は仄暗ほのぐらく、つまらなそうに肘ついて授業を受けるか、スマホをいじるかしている。女はそんな様子を右斜め後ろから熱心に見て、ニヤニヤしていた。文学部英文学科であるにもかかわらず、彼女は彼をつけて、経済思想史やら、チンプンカンプンのミクロ経済学やら、マクロ経済学やら、国際貿易論やらの講義を右から左。友人たちとともに受けるはずだった受容理論や英文学概論には一切顔を出さず、友人たちとはうっすらと距離ができた。恋には人を一人にする性質がある。つまりは男も恋をしているのだろうか?


 こうして女は男を常時つけまわした。コンビニで飯を買う。ストロングゼロにコンビニ弁当だ。住んでいる賃貸はぼろっちい。そこから朝まで家を出ない。朝にシャワーを浴び、家を出る。たまに朝から松屋による。食べている間はネットニュースを読んで、ため息をついている。牛焼肉定食の特盛ばかり。期間限定のメニューも出たら食べる。そこから大学にいき、授業を受ける。ほとんど寝ている。起きるとたまに開くスマホでは小説を読んでいるらしい。知らない作家だった。三限を終えるとキャンパスを出て、駅前の大きな本屋に寄る。基本的に本は一週間に一冊だけ買う。それも決まって金曜日だった。新潮文庫しんちょうぶんこの棚をよく眺めている。もじもじした後おならをする。おならをしたら立ち去る。別の棚にいく。次はビジネス書の棚の前で四季報しきほうを眺めた。うんざりした顔がさらにうんざりする。パラパラめくって戻す。もう帰る。こうして男の日々はすぎるらしい。

 ――女は冷静にストーキングをしていた。彼にばれることも一切なかった。ある程度の距離をとり、死角に入り、堂々とついていったからだ。が、ある金曜日、女のタガが外れるできごとが起こった。男が日課にしている本屋通いで、男は女の店員に話かけられていた。たれ目で背の高い、黒髪のなめらかな店員だった。男がよくいる新潮文庫の棚の前だ。女書店員は彼に話かける。二人は見知った関係なのか、砕けた会話になっていた。


「毎日くるよね」

「……ここの匂いがおちつくからかも」

 男は柔らかく笑った。店員と名のつく相手に男がよくする、目元をまるめる笑顔だ。松屋でも、コンビニでもその笑顔をしていた。男の顔をみた店員はなにやら寂しそうな顔をしていた。


「オススメの本ある?」

 男は店員に照れながらたずねた。それは女がつけていてはじめて見る表情だった。

「そうだねえ、新潮なら『狭き門』――」といいかけて本の背表紙に当てた指を離して「は、よしといて…… うーん。小説なんか、アンタは今買わない方がいいよ。書を捨てよ、町へ出ようってね」

「……そうだよなあ、毎日こんなとこ通って……」

 店員は本屋らしからぬことを言い出し、なぜか納得して男は帰ってゆく。それを見ている女店員の瞳に、女ははかり知れないなにかを感じた。色恋をする女は、獣よろしく嗅覚が鋭くなる。


 手をこまねいていてはいけない。そう思った女は、大教室、ゲーム理論の授業のとき、すっと男の隣に座った。教室の人数はギリギリで、女がそこに座っても違和感がない。男は本を読んでいた。本にはカバーがかかっている。男の横顔をちらちらと眺め、授業の始まりを待った。ボケ老人寸前の教授の声をきくがはやいか、女はついに男と会話をした。


「すみません、教科書忘れちゃったみたいで、読ませてもらってもいいですか?」

「……大丈夫ですよ、なんなら使ってもらっても大丈夫」

 男は女の顔を見て、隣に人がいることに今さら驚いたような顔をした。

「なんの本を読んでるんです?」

「これは…… 日記かな」

「永井荷風とか?」

「いや、文庫本の形の日記で……」


 途切れ途切れに起こった挙動不審な会話は、それ以上続かなかった。しかし、男の持つ『日記』について空想しているだけで、幸せだった。そんなことを考えているうちに授業が終わり、またひと言ふた言会話をし、男と別れると、男の教科書を返すのを忘れていることに気がついた。男が次に来るだろう証券市場概論の大教室で待ったが、男はいつまでも来なかった。出席は毎回律儀にする男のはずだったのに、来ない。異変を感じた女は、男の家を張ることにした。


 翌々日、ようやく出てきた男は真っ青な顔だった。その顔のまま、駅へいき、メンタルクリニックへと入っていった。二時間後、男は出てきて、自販機で水を買い、なにやら薬を三錠飲んだ。そしてコンビニでビールとラッキーストライクを買い、酒はコンビニを出てすぐ飲んだ。砂漠の真ん中で水を飲む勢い。


 そして男は赤ら顔で電車に乗った。東海道を下って、小田原を通り越し、熱海を抜け、沼津をこえたあたりの、だれもきいたこともなさそうな町の駅に降りた。女もそこに降りた。男の降りた駅は、独特の工場の匂いが立ち込めていた。周りには煙突が乱雑に並んでいる。寂れているが、田舎というほどではない。大きく見える富士山とその横でちんまりしている宝永山は、恋人のように寄り添っていた。

 男は駅を出て、数分歩き、花を一束買った。黄色い花、キンセンカだろうか。そして歩き、しずかで平らな住宅街へ出た。鼓動が高まってゆく。握りしめた手は汗で湿っている。女は男をつけていった。


 ふと、大きな寺が建売住宅の並んでいた通りにいきなり現れた。中に植えてある松のうねりが塀を超え出て空に伸びている。男は寺に入っていった。女は蟻のようについていった。

 男は墓地へと進んだ。そこには人気がまったくなかった。鳥の鳴き声さえあたりですることはない。墓地の奥の方に、まだ新しいねずみ色の墓が建っている。女はその墓を見て、自分の手をぎゅっと握りしめると、手汗が引いているのに気がついた。


 男はその新しい墓に買った花を供えた。そして、崩れ落ちるように膝立ちし、墓に語りかけた。

「ごめん、今まで、墓参り、来なくて」

 男は、深く息を吸った。うつむいた顔には一筋の涙が流れていた。

 そして支離滅裂に、ぽつぽつとシホという名の恋人が眠る墓に向けて語った。


「このあいだ、シホがそのまま隣に座って、おれと会話したような幻覚までみえて、おれはもう流石に狂ったと思った。精神科にいったよ。つらいだろうけど、彼女の死と向き合いなさいなんていわれて、――なんとかして、ここにきた。……優しくて、いいお医者さんだ」


「シホが死んだなんて信じられなかった。認めたくもなかった。だから今までここに来なかったんだ。本当に、ごめん。――おれ、空っぽのまま生活してたよ。あれから二年、ずっとそうだった。でも、やっとわかった気がする。ここにきて、ようやく」


「ここ最近ずっと背後に視線を感じるんだよね。この視線を感じるたび、シホが見てくれてるって思っちゃうんだよ。でもこれって妄想だ、とも冷静な頭では思う。なのに後ろを振り向いて、シホが後ろにいる可能性を潰すことができなかった。そのくせシホがいない世界では前も向けないんだから困るよね」


 男は自嘲気味に笑った。その笑顔は今までより明るい顔だった。

 女はあたりの風景をながめた。三方を山に囲まれ、夏らしい青空、雪の積もらない富士山はそれでも綺麗だった。海のある方角には入道雲がある。そして目の前は墓場。


 男はぼつぼつと墓前で話をした。内容はいろいろに広がっていった。例えば本の話。シホは小説好きだったが、男はそうではなかった。シホが死んでからいくつか読んだと語った。でも、シホが残した日記が一番の愛読書なんだと恥ずかしそうに頭を掻いた。そしてシホの友達、あの書店員の話。いい人だ、君の友達だけあると男は笑った。本なんか読むなと言われた、その通りだと思うなんて言っている。あの子がうるさく授業に出ろと諭してきたから、休まず大学に行ってると自慢げだ。急いできたからあのワインを忘れたという話。珍しいドイツ産。付き合って二年の祝いの品だった。ワインもそうだが線香も忘れた。しかし、君の好きなキンセンカを持ってきたといって、男は黄色い花をさした。そして、ラッキーストライクの箱を開け、一本取る。そして残り十九本になった箱をお供えし、男は立った。ライターに火をつけて、男は煙草をふかした。


「どう? 煙草吸ってる姿をみてみたいって、いってたから。吸ってみたけど、まずいねこれ。二度と吸わない。ラキストの白いので大丈夫だったかな?」

 紫煙しえんを吐くと、それが西に流れて後ろの工場煤煙こうじょうばいえんと同じようだった。男は煙が天に昇っていく様を見つめていた。


「なんだか、墓にきて、正解だったよ。ごめんね。遅くなって。また、くるから」

 フィルターまで吸って、床に落した煙草を足でもみ消す。そしてそのときはじめて墓前ぼぜんで手を合わせて、こうべを垂れた。ただ静かだった。


 男が合掌を終え、墓に背を向けて、そして女からも背を向けて去っていく。あと少しで墓が見えなくなるというそのとき、急に、サッと風が吹いた。男の蓬髪ほうはつが風になびいて、なにかにひかれるように後ろを振り向いた。髪と髪がなびく間に目があった。


「シホ……?」

 女は、男を見て、ちいさく手を振った。そしてまた風が吹いたその間に、男から見えないところへと消え去った。



――それ以来、男が背後から視線を感じることはない。

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