制度、環境、経路依存
第二次産業革命を経て20世紀に入ると、工業化とそれに伴う現代的な経済成長はさらに様々な地域に広まっていった。既に述べた通り英国では1700年頃には第一次産業従事者が5割を切っていたが、フランスはおそらく19世紀中に、日本は1940年までに、そして中国でも2003年には過半数が、農業以外の産業に従事するようになっている(52)。経済的繁栄はその裾野を広げており、例えば「1日1.25ドル未満で生活する人口の割合を半減させる」という2000年に国連が打ち出した「ミレニアム開発目標」の1つは、実際に2015年には達成された(53)。
だが経済的繁栄を享受できる度合いを見ると、国ごとに大きな違いがあるのは事実だ。世界銀行のデータによると2022年時点で高所得国と低所得国の間には1人当たりGDPで66倍もの差が存在する(54)。現代的な経済成長を早く達成できた地域と、達成するまでに時間を要する地域との差も大きい。例えば日本は19世紀末から殖産興業を進め、1909年には生糸の輸出量で世界一に上り詰めたが(55)、サブサハラ・アフリカのブルンジは1962年の独立以降も1人当たりGDPが伸びず(56)、2022の数字は259ドルと中国が改革開放を始める直前の水準にとどまっている。
主に先進国と呼ばれる国々とそうでない国々の間になお残っているこの格差をもたらす原因は何か。産業革命の起源と同様にこちらについても議論が盛んに行われている。足元で広く受け入れられている印象が強いのが、制度的な違いにその淵源を求める考え方だ。
例えばノーベル経済学賞を受賞した経済学者ダグラス・ノースが唱えているアクセス制限型秩序(LAO)とアクセス開放型秩序(OAO)という概念がある。彼と共著者は最初に成立した国家(自然国家)の社会秩序について、武力を持つエリートが経済資源への非エリートのアクセスを制限することで超過利潤(レント)を得るような秩序(つまりLAO)であったと指摘。それに対し19世紀の半ば、つまり第二次産業革命と歩調を合わせて訪れた成長の時代になると、米英仏といった国々で非エリートにも経済資源へのアクセスを解放するOAOが生まれ、エリートのレントは抑制されるようになった。
不況や技術革新などの外的ショックを受けると、自然国家ではエリートのパワーバランスが崩れ、レントを巡る争いが激化しやすくする。アクセス制限という形で普段の競争を抑制しているLAOでは、こうした場合の問題解決方法がルール化されておらず、時には暴力を伴う内紛などに至る。そうなれば経済の縮小はむしろ長引き、持続的な成長は妨げられる。一方OAOでは普段から競争をルール化しているため、外的ショックを受けても解決策を持ったグループが選挙や市場を通じて選び出される。暴力を伴わない対策のおかげで経済の縮小も長引くことなく、結果としてより繁栄した経済を享受できるという理屈だ(57)。
もちろんLAOが絶対に成長できないというわけではない。LAOの国家の中にも低所得に苦しんでいる国と、高度成長を達成した国とが存在しているわけで、そうした実態を踏まえノースらはLAOをさらにいくつかの類型に分けている。ハイチのような国家の行使能力が脆弱な国、ソ連のような権威主義国、フィリピンなどの競争的クライエンテリズム、そしてメキシコのような成熟したLAOだ(58)。1人当たりGDPを見てもLAOの中には類型ごとにかなりの格差があるが、それでもOAOの国に比べれば低い。ノースらはLAO内での成長と、LAOからOAOへの移行という2種類の成長ルートがあると指摘している。
制度に原因を求める説の中でもっと有名なのは、経済学者ダロン・アセモグルらの研究だろう。アセモグルらによると経済的繁栄に影響を及ぼす制度には2種類、すなわちエリートに権力が集中し彼らが自らの既得権を守り他者から富を奪う収奪的制度と、多くの市民に権力が分散されて市場がうまく機能している包括的制度がある。前者では収奪される非エリートに生産性を上げて経済的利益を得るというインセンティブが働かず、そのため経済的成長が進まない。逆に後者では多くの市民が技術や教育に投資し、結果として経済的な繁栄が達成される。
アセモグルらも現在の経済格差は19世紀に起源があると見ている。この時期までに包括的な制度が発展した国々、具体的には欧米やオーストラリア、開国後の日本などは、19世紀に始まった工業化と技術改革のプロセスに早めに着手でき、それに伴う経済発展で力を得た市民がさらに包括的制度を強化するという好循環が起きた。だがそうした制度ができなかった国、あるいは植民地化によって収奪的な制度を押し付けられた地域では、逆に力を奪われた市民がさらに収奪されるという制度の悪循環が生じ、今もって経済成長に苦戦しているという(59)。
もちろんこうした主張には異論もある。何より20世紀末から高度成長を成し遂げた中国をはじめ、開発独裁と呼ばれる収奪的だが大きな経済成長を遂げた事例の実在は、アセモグルらの主張に対する強力な反証に見える。中には低所得国の大半を占める農民の不満を抑えつつ工業化に向いた政策を強力に推し進めやすいのはむしろ権威主義的な国家の方だとする研究もあるくらいで、実際に19世紀以降のデータを調べると民主化の度合いが高いほど工業化が進みにくいという傾向が出ているとの指摘がある(60)。
一方で現在の世界において最も経済発展している国々の多くが包括的な制度を持っていることもまた事実。それもあってか、ある研究者はむしろ経済発展が民主的な制度を作るとの見方を示している。欧州諸国や英連邦諸国、そして東アジアで民主化を成し遂げた国を調べてみると、民主制に移行した時点で労働者全体に占める工場労働者の割合が大半の国で25%を超えていたという。都市部に集まり運動を組織する能力の高い彼らの割合が一定以上に達すると下からの民主化圧力が高まり、抑圧する方がむしろコストが高くついてしまうために民主化が進む、という理屈だ(61)。
こういった制度を巡る議論とは別に、むしろ環境こそが経済格差を生み出した原因だという主張もある。代表例はこれまで何度か触れてきたジャレド・ダイアモンド。彼は大陸の形状やそこに生息する生物相の違いが現代にいたる経済格差をもたらしたとの見方を示している(第4章)。
同じように環境を重視しているのが歴史学者のウォルター・シャイデル。欧州の海岸線が中国やインドに比べて圧倒的に長く複雑であること、山地や海によって平野がいくつにも分断されていること、そして騎兵革命後のユーラシアで猛威を振るった遊牧民が暮らすステップ地帯から遠いことなどが影響した結果、ローマ帝国崩壊後の欧州は二度と統一帝国の支配下に入ることなく多極化していった。しかも国際的に多くの国が乱立しただけでなく、国内でも騎士階級や王室に雇われた官僚たち、都市国家の商人、そして教会といった勢力が時に争い、時に協力しながら多様性を強めていったという。
シャイデルによれば、似たような規模の国家が多数存在する欧州では対外的な競争に生き残るためパフォーマンスが重視され、それを達成する手段として国家と社会が取引しながらイノベーション、外部のリソース活用、財政利用、統合を進めた。一方、巨大な統一帝国は周辺に対抗できるような強国がほとんどいないためにパフォーマンスより安定重視の国家運営が行われる。そうした国の内部では統治を地域のエリートへ委任し、保守主義、内部リソースへの依存、収奪、地域主義に基づいた国家運営が進む(62)。それぞれ正のフィードバックが働くという部分はアセモグルらが制度の好循環・悪循環が進むとしている部分と同じだが、その背景に独占や多極化をもたらす環境を想定しているところが大きな違いだろう。
実際に世界を対象にしたシミュレーションを実施し、各地がどれほど分断されやすい環境条件を備えているかを調べた研究者もいる。地形や気候、生物相などの条件を入れたうえでシミュレーションを30回繰り返したところ、完全に政治的に統合されたのは中国だけで、北インドや中東には覇権を握る国が生まれやすかったものの、一部の険しい地形や熱帯あるいは乾燥帯といった気候条件が全体の統一を妨げた。一方、欧州は常に多極化してしまい、なかなか大きな帝国は生まれなかったという(63)。中国の方が欧州より山地が多く、従って地形的にはむしろ中国の方が分断されているという批判もあるが(64)、シミュレーションを行った研究者は山地の割合より広い平野が1ヶ所に集中している点が中国に帝国が生まれやすい理由だと指摘している。
環境が制度を通じ、間接的に経済的繁栄に影響を及ぼしているという説明もある(65)。例えばある研究では、高いGDPをもたらすとされる予測因子を7つ取り上げ、それらの関係を具体的なデータに基づいて分析した。対象となっているのは社会的な予測因子2つ(制度の質、身内びいきの度合い)、歴史的予測因子3つ(国家としての歴史、先祖の欧州人割合、農業開始タイミング)、そして環境的予測因子2つ(疫病、緯度)だ。結果、GDPとの関係が最も強く(かつ統計的に有意に)出てきたのは制度の質だけだった。
それだけならノースやアセモグルらの主張が正しいという結果になるのだが、実はその制度の質からさらに因果関係を遡ると、最終的には環境の差を示す「緯度」にたどり着くことも分かった(66)。具体的には2つのルートがあり、1つは緯度から農業開始タイミング、国家としての歴史を経て制度へ至るルートであり、もう1つは緯度から先祖の欧州人割合、身内びいきの度合いを経てやはり制度へとつながる道だ。どうやら経済的繁栄を手に入れるためには第5章で述べたような国家という複雑な社会に加えて欧州で発展した低い身内びいき(他者への寛容度の高さ)も必要であり、なおかつそれらは環境という支えがあって実現できる、ということのようだ。
ちなみにこの2つのルートもまた、第5章でふれた「経路依存性」を示すものと言えるだろう。というのも最初のルートのうち、国家としての歴史をへて制度へ至る矢印はかなり細く、それだけ相関が弱い。このルートは通ったが2番目のルートは通っていない国家は、おそらく欧州以外の古い歴史を持つ旧大陸の国々、例えば帝国ベルトの国などだと思われるが、彼らが高いGDPを達成できるだけの制度の質を手に入れるのはそれだけ難しい。逆に国家の歴史が浅くても先祖の欧州人割合が高い米国や英連邦諸国の方が、より矢印の太い後者のルートを通ることで繁栄を手に入れやすかった様子がうかがえる。
そう、どうやら皮肉なことに第4の画期以降、特に騎兵の登場以降に世界で最先端を走っていた帝国ベルト地域が、逆に産業革命後は経路依存性ゆえに経済成長から取り残されがちになった可能性があるのだ。実際もう一つの経路依存性の例として、欧州内でも枢軸宗教が根付いた地域ほど経済成長が遅れたという研究がある。ここで分析に使われたのはファーストネーム。キリスト教の影響が大きい社会ではカトリックなら聖人、プロテスタントなら聖書の登場人物の名を子供に付ける傾向が強く、逆に影響の小さな社会では過去の国王などの名前を付ける割合が高かったという。
興味深いことに宗教的な名を持つ者たちは司祭や神学者といった職に就く度合いが高いのに対し、非宗教的な名の者は医者や教師、エンジニア、科学者になる割合が高かった。学歴についても後者の方が高い水準まで上がる傾向が見られ、科学的思考が重要な現代的経済成長において有利だったようだ。そして実際に非宗教的な名前の多い地域の都市人口は1800年以降、宗教的な名の多いところよりハイペースで上昇している(67)。国家の誕生後、枢軸宗教はより大きな帝国で広まっていったが、それが強く根付いた地域ほど次の画期である産業革命では立ち遅れた格好だ。こうした経路依存性も、第5の画期の進み方に影響を及ぼしていたのは確かだろう。
52 Share of the labor force employed in agriculture(https://ourworldindata.org/grapher/share-of-the-labor-force-employed-in-agriculture、2024年4月14日確認); 萬成博, 工業化と職業移動 (1966), 第1表
53 1990年には世界人口の約36%に相当する約19億人が極度の貧困に苦しんでいたが、2015年には約12%(約8.4億人)にまで減少した; 外務省, 2015年版開発協力白書 (2016), pp7
54 World Bank, GDP per capita(https://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.PCAP.CD、2024年4月14日確認)
55 嶋崎昭典, 我が国の製糸業の変遷とこれからの生きる道 (2007), 図12
56 Janvier Nkurunziza, Timing and Sequencing of Post-Conflict Reconstruction and Peacebuilding in Burundi (2015), Figure 2
57 Douglass C. North et al., Violence and Social Orders: A Conceptual Framework for Interpreting Recorded Human History (2009)
58 Douglass C. North et al., Limited Access Orders: Rethinking the Problems of Development and Violence (2012), Table 2
59 ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソン, 国家はなぜ衰退するのか ──権力・繁栄・貧困の起源 (2013)
60 John Gerring et al., Regimes and Industrialization (2020)
61 Sam van Noort, Industrialization and Democracy (2021)
62 Walter Scheidel (2019), Figure 10.1
63 Jesús Fernández-Villaverde et al., The Fractured-Land Hypothesis (2022)
64 Philip T. Hoffman, Why Did Europe Conquer the World? (2015)
65 Sherif Khalifa, Geography and the Wealth of Nations (2022)
66 Adam Flitton and Thomas E. Currie, Assessing different historical pathways in the cultural evolution of economic development (2022), Fig. 2
67 Jeanet Bentzen and Lars Harhoff Andersen, In the Name of God! Religiosity and the Transition to Modern Growth (2022), Figure 8, Figure 11
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます