産業革命への道
現代的な経済成長につながる産業革命の原因が何であったかについては色々な見解がある。経済史学者マーク・コヤマによると、その起源については大きく3つの説があるそうだ(27)。一つは市場の拡大があれば十分だという説で、遡ればアダム・スミスの唱えた、経済的な富は「平和、軽い税、寛大な司直」(28)のみで達成できるという考えにつながる。リバタリアン的な経済学者の多くはこのカテゴリーに含まれるが、実際に経済史を研究している者でこの説に与しているものは少ないそうだ。
市場の拡大が重要という説としては、例えば18世紀の英国で成立したとされる財政=軍事国家が、その強力な陸軍と海軍を使って自国商品の販売先である外国市場を切り開いたというモデルを提示している研究がある(29)。軍事力と勤勉な行政機構、重税や莫大な債務による資金調達能力などを兼ね備えた財政=軍事国家が(30)、例えばアヘン戦争のような形で英国の製造業者のために新たな市場(この場合は中国)を切り開き、それがもたらした需要増が大量生産に向いた新たな技術への投資を促した、という理屈である。
コヤマの紹介する2つ目の説は、植民地帝国や石炭のような自然資源が重要であったというもの。イマニュエル・ウォーラーステインの唱えた世界システム論(31)、つまり中核、半周辺、周辺に分けられたグローバルな分業体制とも関連する議論であり、代表例としてよく知られているのがまさに石炭やアメリカ大陸の植民地に産業革命の原因を求めたケネス・ポメランツの「大分岐」だ(32)。ただしコヤマによれば、この説は歴史学者や社会学者の間でよく見られる大衆向けのものが中心で、経済史家の支持は少ない。
3つ目は、イノベーションのみが現代的経済成長を説明できる、という立場。大半の経済史家はここに含まれているが、ただしその立場も一枚岩とは言えず、純粋に経済的な意味でイノベーションを定義している研究者と、より広い文化的な意味で捉えている者がいるという。前者の例としてコヤマが言及しているのは経済史学者のロバート・アレンで、彼は賃金の高い英国の労働者を使うより、豊富な石炭を生かせる機械技術を使った方が効率的に生産できたことが、英国で産業革命が始まった原因だと分析している(33)。この見方は現時点で最も優勢だそうだ。
経済的な観点に絞らず、もっと広い視点でイノベーションを捉えている人物が経済史学者のジョエル・モキアだ。彼は他の場所、他の時期ではなく、18世紀の英国で産業革命が起きた理由として、その前に欧州に広まっていた17世紀の科学革命と18世紀の啓蒙主義運動が重要だと指摘。過去の社会においては、たとえ「役に立つ知識」が何かのきっかけで広まり始めたとしても、やがてはマルサス的な資源の制約や既得権益を持つ者たちの抵抗といった負のフィードバックによって拡大を止められていた。ところが科学革命と啓蒙主義は、むしろ「役に立つ知識」をさらに広めるような正のフィードバックをもたらした、というのがモキアの考えだ(34)。
啓蒙主義がそうした正のフィードバックをもたらしたのは、その背景にある「進歩の文化」が理由だ。進歩を信じていた当時の人々は、試行錯誤のために行われる新たな取り組みを高く評価するようになり、結果として皆が先を競って新たな取り組みを進めるようになっていった。進歩という言葉やそれに関連したコンセプトが文献に登場する割合は18世紀中頃から増加に向かっており、「役に立つ知識」への言及も同時期に急増している(35)。また科学主義は、科学的な手順を通じて実際に役立つ知識を見つけ出す可能性を高めることに貢献した。かくして一過性で限定的ではなく、持続的かつグローバルな広がりを持つに至る現代的な経済成長が実現した、という理屈だ。
実際にそうした「役に立つ知識」を国内に広めることで産業化を成功させたのが19世紀後半の日本だとする研究がある(36)。日本は1860年代に英和辞典の作成、1870年以降に各種技術書の邦訳を進めることでそうした「役に立つ知識」を成文化する一方で、実際に知識を活用できる人的資本形成のために多額の教育投資を実施。1870年当時はギリシア語やポーランド語より少なかった技術書の数を、1910年にはフランス語に次いで2番目に多い水準まで増やすことで現代的な経済成長への道筋をつけた(37)。
それ以外に、コヤマは言及していないが、制度の変化が産業革命をもたらしたとする説もある。1688年の名誉革命によってイングランドでは君主制から議会政治へと主役が変化。議会で力を持っていた商人や起業家が、イノベーションや資本の蓄積を促す制度を作り上げたとの見方だ(38)。ただしこちらについても、名誉革命後になっても資本家たちの資産が没収されるリスクが減ったわけではないといった批判がある。また制度が産業革命の原因とする見方は決して新しいものではなく、割と昔から2、3の技術的革新より「土地、資本、労働の自由な活動が大きな意味と役割を持つ」(39)との主張があった。
具体的な産業革命の過程において科学との間にどんな関係があったのかという点も、大きな議論になっている。一方には18世紀の時点で英国産業界に科学的な思考法が広がっていたという考え方を持っている研究者がおり(40)、他方には18世紀時点で英国の技術革新を先導していたのはあくまで現場の技術者たちであり科学者ではなかったとの見方もある。実際、1800年時点で英国の蒸気機関が生み出すエネルギーは3万5000馬力と水力(12万馬力)より少なく(41)、またこの当時の技術者759人の経歴を見ると、正式な教育を受けたものは一部にとどまり、大半は徒弟上がりだった(42)。そのため第一次産業革命の時点で科学が果たした役割は限定されており、科学の進歩と技術進歩が互いに密接に関係するようになっていったのは19世紀も半ばになってから、との見解も珍しくはない(43)。
それだけではない。18世紀の英国経済はあまり成長しておらず、第一次産業従事者が急速に減る一方で第二次産業従事者が増えたのはむしろ17世紀が中心だったとする実証研究も存在している。確かにその研究を見ると1600年当時に人口の3分の2を占めていた第一次産業は1700年の時点で既に半分弱まで低下。逆に第二次産業は3割弱から4割強まで増えているのだが、18世紀にはいると双方の割合はほぼ横ばいで推移している(44)。このデータを見る限り、第一次産業革命は革命と呼ぶほどの社会変化をもたらさなかったとも考えられる。要するに産業革命を巡る議論は百家争鳴であり、どれが正解か簡単には判別がつかない状態なのだ。
一方、英国以外の過去の社会(ローマや宋代中国)で現代的な経済成長が持続しなかった理由について探る向きもいる。上でも紹介した、宋代の経済成長と英国の第一次産業革命が同じ性格のものだとする研究では、それらがいずれも科学的な思考とは結びつかない経験に基づくタイプの経済成長だったとカテゴライズしている(45)。そもそも現代的な経済成長という概念を打ち出したクズネッツ自身、その成長が始まった最初の1世紀(1750~1850年)は「経験的な発明に支配されていた」と指摘。科学的発見が経済生産などに応用されるようになったのは19世紀後半になってからだと述べている(46)。
19世紀半ば以降といえば、英国で始まった第一次産業革命ではなく、米国やドイツにも工業化の流れが広まった第二次産業革命の時代だ。産業の中心も軽工業から鉄鋼業や鉄道といった重工業へとシフトしており、またエネルギー面では石油の掘削と内燃機関の登場、さらには電気の商用化といった現代的な技術が広まった(47)。研究者によっては、こうした科学技術を生かした産業の発展の方がむしろ重要だったとの主張も存在する(48)。モキアの指摘する通り、役に立つ知識を獲得するための方法として科学的手順が効果的なのだとすれば、その手順が一般化したこの時期の方をより重視する議論が出てくるのはおかしくない。
一方でローマ時代を見ても分かる通り、科学技術さえあれば産業革命が始まるというわけでもない。おそらくはコヤマの紹介している市場の拡大、国際的分業やリソースの確保、イノベーションといった様々な条件に、それを支える科学的手順といった要素がすべて整ったところで、ようやく持続可能な現代的経済成長への道が開けるのだろう。そうした条件が18世紀の英国ですべて揃っていたかどうかについては上にも述べた通り議論があるが、19世紀の欧米では間違いなくそれらがすべて存在し、第二次産業革命という形で花開いたと考えていいだろう。
逆に宋代中国ではそうした条件が揃っていなかった。イノベーションをもたらす源泉は試行錯誤にあるが、あくまで現場での工夫にとどまる経験的な試行錯誤と、自然に関する仮説を数学化したうえで実験を通じて目的を達成しようとする科学的な試行錯誤との間には明らかな違いがある。西欧では科学革命を通じて後者の方法が次第に定着していったが、彼らより人口が多かったとも言われる中国ではそうした方法は生まれず、宋代の経済繁栄はあくまで経験に基づく技術の利用にとどまった。いわば科学的な手順が最後のボトルネックとなり、産業革命への道が塞がれてしまった格好である。
そうなったのは官僚選抜制度である科挙のせい、という説がある。古典の知識を問う官僚試験に大きなインセンティブが置かれた結果として、科学的な試行錯誤を実践するために必要なノウハウを人的資本として身に着ける機会が中国では乏しかったとの理屈だ(49)。他にも中国の科学技術史研究で著名なジョゼフ・ニーダムは、中国の官僚制が重農主義的な価値観を抑制し、学者たちが編み出した数学的論理的推論を職人の技術と融合させる段階まで移行するのを妨げたとの見方を示している(50)。また独立した多くの国に分かれ、国家間だけでなく国家と教会の間にも競争の存在した欧州に比べて、中国は統一したイデオロギーに支配されており、そうした伝統が近代科学の誕生を抑え込んでいたという指摘もある(51)。
ホモ属の誕生、ホモ・サピエンスの勢力拡大、農業の開始、国家の誕生と、これまでの画期においてもその実現にはいくつもの条件をかなえる必要があった。おそらくは産業革命も同様であり、ローマや中国は、ホモ属に最終的に敗れたパラントロプス(第2章)と同じ道を歩んだと言ってもいいかもしれない。
27 Mark Koyama, Could Rome Have Had an Industrial Revolution?(https://medium.com/@MarkKoyama/could-rome-have-had-an-industrial-revolution-4126717370a2、2024年4月13日確認)
28 Adam Smith, An Inquiry Into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, Vol. I (1776), xcvi
29 Jordan Roulleau-Pasdeloup, What Made Great Britain so Great? From the Fiscal-Military State to the First Industrial Revolution (2016)
30 ジョン・ブリュア, 財政=軍事国家の衝撃 (2003); 終わりと始まり ―火薬革命の900年―(https://kakuyomu.jp/works/16817330649203631851、2024年4月13日確認)
31 Immanuel Wallerstein, The Modern World-System, vol. I (1974)
32 ケネス・ポメランツ, 大分岐――中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成 (2015)
33 1650年以降、資本コストと比較した労賃の割合はストラスブールやウィーンがおよそ横ばいだったのに対し、北部イングランドでは上昇していたという; Robert C. Allen, The British Industrial Revolution in Global Perspective: How Commerce Created The Industrial Revolution and Modern Economic Growth (2006), Figure 3。ただし当時の英国労働者の賃金は思われているほど高くなかったとの批判もある; Judy Stephenson, On archives, macroeconomics and labour markets(https://ehsthelongrun.net/2017/10/24/on-archives-macroeconomics-and-labour-markets/、2024年4月13日確認)
34 Joel Mokyr, Knowledge, Technology, and Economic Growth During the Industrial Revolution (1999)
35 Joel Mokyr, Progress, Useful Knowledge and the Origins of the Industrial Revolution (2013), Figure 1, Figure 2
36 Réka Juhász et al., Codification, Technology Absorption, and the Globalization of the Industrial Revolution (2024)
37 Réka Juhász et al. (2024), Figure 6
38 Douglass C. North and Barry R. Weingast, Constitutions and Commitment: The Evolution of Institutions Governing Public Choice in Seventeenth-Century England (1989); Daron Acemoglu et al., The Rise of Europe: Atlantic Trade, Institutional Change, and Economic Growth (2005)
39 吉田光邦 (1966), pp157
40 Margaret C. Jacob, The First Knowledge Economy: Human Capital and the European Economy, 1750–1850 (2014)
41 Cormac Ó Gráda, Did Science Cause the Industrial Revolution? (2014), Table 1
42 Ralf Meisenzahl and Joel Mokyr, The Rate and Direction of Invention in the British Industrial Revolution: Incentives and Institutions (2011)
43 Joel Mokyr, The Lever of Riches: Technological Creativity and Economic Progress (1990), pp113
44 Economies Past: Overview(https://www.economiespast.org/about/、2024年4月13日確認), Figure 1
45 Ronald A. Edwards (2013), Figure 2
46 Simon Kuznets (1966)
47 バーツラフ・シュミル (2019), pp42-81
48 David S. Landes, The Wealth and Poverty of Nations: Why Some Are So Rich and Some So Poor (1998)
49 Justin Yifu Lin, The Needham Puzzle: Why the Industrial Revolution Did Not Originate in China (1995), pp281-285
50 Joseph Needham, The Grand Titration: Science and Society in East and West (1969)
51 Wen-yuan Qian, The Great Inertia: Scientific Stagnation in Traditional China (1985)
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