巨大化する社会
ヒトの社会がどのように進化してきたかに関してよく紹介されるのが、バンド、部族、首長制という社会を経て国家へと至るルートだ(21)。人類学者のエルマン・サーヴィスが唱えたこのモデルによれば、バンドは25~50人規模、部族は100人から1000人台、首長制は数千人で国家は数十万人の規模になる。居住地でいえばバンドは人口密度の低い移動型で、部族は半恒久的居住地に住み、首長制は複数の恒久的コミュニティ、国家は多くの恒久的コミュニティを持つ社会であり、他にも生存戦略、経済活動、社会構造、政治システムなどについて、それぞれが独自の特徴を持つ(22)。
このモデルを整理して広めたのは、これまたダイアモンドだ。彼はこの4種類の社会について、メンバーシップ、政府、宗教、経済、社会という5つの側面からどのような特徴を持つかを一覧表にまとめている(23)。メンバーシップを見ると、人数はバンドが数十人、部族が数百人、首長制が数千人で、国家は5万人以上というのがダイアモンドの定義。他に政府のリーダーシップを見るとバンドが平等的、部族は平等的あるいは重要人物が個人的にリーダーシップを握るのに対し、首長制は集権的な世襲制で、国家は集権的となっている。紛争解決手法だとバンドや部族が非公式な方法を採用しているのに対し、首長制では集権的に処理し、国家は法律と判事がそれを担う。
サーヴィスは経済的に、バンドが採集、部族が原始的農業と牧畜、首長制が初期農業に、国家はより集約的な農業と交易に依存していたと分析している。つまりバンドが狩猟採集社会、部族以降は農業社会に入ってからの発展形態という認識だ。ダイアモンドはもう少しグラデーションを想定しているようで、バンドが食料生産を行わない(つまり狩猟採集)社会で、国家が集約的な農業を行う社会と規定。部族は食糧生産を行う社会への移行期に、首長制は集約的農業への移行期に存在していたと解釈している。いずれにせよ、農業が広まるのに合わせてヒトの社会が大きく複雑になっていったとの見方では一致している。
農業がこうした進化をもたらした要因としては、農業によって余剰食糧が生まれ、それが国王や官僚、貴族、兵士などを養うことを可能にしたことが挙げられる。こうした者たちは社会階層化、政治的な中央集権化、常備軍をもたらした。生産活動に従事しない専門家は新しい技術を使いこなし、農業に伴って増えた定住生活は出産間隔を短くして出生率を上げることにもつながった(24)。人数の増加や複雑な情報処理が広まった結果として、社会そのものも複雑になっていったという理屈だ。
だが実際には必ずしも一本道で社会が進化したわけではない。第4章でも述べた通り、狩猟採集社会でも定住し、階層化した人数の多い社会は存在していた。そこで紹介した研究によると、34の定住社会のうち15の社会は規模が大きく、17の社会では格差が見られた。採食対象となるリソースの管理に取り組んでいた社会も10存在した(25)。農業社会以前にも数は限られていたが複雑化した社会が存在していたわけで、狩猟採集社会は後の時代の人間が想像するよりも多様性に富んでいた可能性がある(26)。
同じことは農業社会にシフトした後についても言える。わかりやすいのがニューギニアの高地地方。この地域では今から1万220~9910年前から植物の採集と栽培が始まり、6950~6440年前には土を盛って耕作に取り組む農業が行われるようになった。水路まで用意した農業が始まったのは4350~3980年前になる(27)。肥沃な三日月、中国、メソアメリカといった地域に比べれば決して早いとは言えないが、5800年ほど前から農業が始まった北アメリカ大陸の東部農業複合体(28)や、6000~5000年前にソルガムの(29)、4900年前にトウジンビエの栽培を(30)始めたアフリカのサヘル地域と比べれば、むしろ古くから農業に取り組んでいたのは確かだ。
ところがこのニューギニア高地の社会は、肥沃な三日月や中国はもとより、メソアメリカやアンデスと比べても単純な状態に長くとどまった。ニューギニアでフィールドワークを行ってきたダイアモンドは、20世紀半ば過ぎのこの高地地方の社会を「部族社会」と規定している(31)。彼らは国家どころか、その手前と見られる首長制の社会にすらたどり着くことなく、農業を始めた直後のヒトと似たような社会を数千年にわたって続けてきた。どうやら狩猟採集社会が多様であったのと同様、完新世に入って生まれた農業社会の進化もまたバラエティーに富んでいたようだ。
一体何が原因でニューギニアの社会はずっと変わらないままだったのだろうか。はっきりとは分からないが、例えば家畜の有無が影響したのかもしれない。第4章でも少し触れた通り、家畜はユーラシアに極端に偏っており、逆にユーラシア大陸以外の場所で始まった農業社会にとってはそれがハンデになった可能性がある。20世紀のニューギニアではニワトリ、イヌ、ブタが家畜として飼育されていたが、これらがユーラシアからニューギニア島に持ち込まれたのは今から3500年ほど前と見られる(32)。それ以前のニューギニア高地は、植物からのカロリーこそ足りていたが、タンパク質や脂肪といった他の栄養素が不足していたのかもしれない。
部族社会よりは大きなサイズにたどり着いたが、そこから国家にはならなかった社会もあった。紀元前第5千年紀末から第4千年紀の前半に、今のモルドバからウクライナ南部にかけていくつもの大規模集落を作り上げたトリポリエ文化もその一例だろう。集落の人口規模は研究者によって8000~2万5000人の推計があり(33)、居住地が形成している空間的な階層からこの社会は首長制であったと見られている(34)。元は小さなコミュニティの融合を通じて紀元前4100~4000年に成立したこの集落は、同3700年頃にかけて次第に集落内の中央集権化が進んだが、同3650~3500年には解体が進み元の散在した小さなコミュニティへと戻った(35)。
マイダネツケの大規模集落遺跡には2950軒の建物跡があり、それらが同心円状に集まって集落を形成していた。その支配域は半径4.1キロの範囲に及び、その範囲には木材を取るための森、家畜飼育用の牧草地、そして耕作地が含まれていた。政府のようなものは存在していなかったが集団の意思決定に使われたであろう大型建造物があり、集住のせいで耕作地から遠ざかった分を埋め合わせるためソリが使われていたという。また新しい窯の発明によって効率的に土器が作られていたようだ(36)。
英国が北アメリカに作ったバージニア植民地の初期入植者、ジョン・スミスの命を助けた(と言われている)ポカホンタス(37)は、ポウハタン族の酋長の娘だった。そのポウハタン族も、欧州人と接触した当時は首長制社会だったと言われている。アルゴンキン語を話す彼らは、現在の米バージニア州東部に暮らしており、その人口は昔は8000人ほどだと言われていたが、最近の研究によるとピーク時には1万6000~2万人に達していた。スミスの残した地図によると、ポウハタンの社会には3つの「行政中心地」があり、そこから首長が部族を支配していたという(38)。
ポウハタン族が首長制のカテゴリーに入るのは、その居住地分布や欧州人の残した記録から、彼らが政治的に3つの階層に別れていたと考えられるためだ。彼らの社会であらゆる生産物の8割を占めたとみられている貢ぎ物は、平民からウェロワンスと呼ばれたローカルリーダーへ、そして彼らからさらにママナトウィックという称号で呼ばれていた酋長へと贈られていた(39)。首長制の定義の一つにこうした政治的階層があり、一般にはローカルな共同体の上に1つの意思決定階層がある場合を単純な首長制、2階層ある場合を複雑な首長制と呼ぶ(40)。つまりポウハタン族は複雑な首長制だったわけだ。
だがこの首長制社会は英植民地との戦争などを通じて衰退し、次第に人口を減らしていった。植民者と最初に接触したほぼ100年後の1705年には、ポウハタン族の生き残りはほんの350人ほどになってしまい、白人と黒人合わせて10万人に膨れ上がった植民地社会へと飲み込まれていった(41)。ミシシッピ川沿いの北アメリカ各地にはポウハタンと似た多くの首長制社会が存在したが、それらの中から国家が生まれることはなかったと見られる。
農業開始後も部族のままとどまったニューギニア、首長制までしか進化しなかったトリポリエやポウハタンは、実は例外ではない。複雑系科学者のピーター・ターチンらが運営している世界史データバンクSeshatを使った分析によると、世界各地35ヶ所のうち自力で国家を築いたところ(一次的地域)はたった5ヶ所(南メソポタミア、上エジプト、黄河中流域、メキシコ盆地、クスコ)。近くの社会から国家に関するノウハウを仕入れて国家を作った二次的地域も11ヶ所にとどまり、過半の19ヶ所の社会はポウハタンのように他の国に併合される形で初めて国家に組み込まれた(42)。
特に、階層的でありながら国家としての制度を持たない首長制は極めて不安定な社会だ、という指摘がある(43)。中でも階層の多い複雑な首長制については、例えば米国南東部のサバンナ川沿いの研究を踏まえて「出現、拡大、分裂」のサイクルを繰り返していたという研究があるし(44)、アパラチア山脈南部の社会についても時間とともに社会集団の規模と構成が変化する「分裂融合」プロセスをたどっていたとの指摘がある。首長制内部の後継者を巡る派閥争いと、首長制社会同士の戦争とが、そうした不安定さをもたらす大きな要因になったという(45)。
もちろん、首長制社会の支配者たちも様々な手は打っていた。社会がバラバラになるのを防ぎ、フォロワーに言うことを聞かせるための方法としてダイアモンドが示しているのが、エリートのみを武装させる方法、再配分でフォロワーを幸せにする方法、集権的な社会が秩序を維持することで暴力を減らすというメリットを与える方法、そしてイデオロギーや宗教によってエリート支配を正当化する方法の4つだ(46)。それでもダイアモンドは首長制の単なる延長が国家であるとは見ておらず、例えば後者は親族関係ではなく政治的、領土的関係で組織されているといった相違があることを指摘している。
首長制以下の社会と国家との間には質的な違いが存在しており、国家の誕生によってヒトの作る組織はそれ以前とは全く異なる新たな道へ進んだ、との見解もある。いくら複雑であっても首長制は原始的な社会の範疇に収まるものであり、そこから国家という社会への移行は人類史における「巨大な断絶」だったとの主張だ。領土を持つ組織、親族関係ではなく階級と職業による差異化、力の独占、リソースと人材の動員権限、司法権といったものの登場が、原始的社会と国家とを区別する具体的な特徴だとされている(47)。
実際、首長制と国家の間に大きな違いがあることを統計的に説明しようとしたのが人類学者のピーター・ペレグリンだ。彼は過去1万2000年に存在した社会について、筆記と記録、定住性、農業、都市化、技術的専門化、陸上輸送、マネー、人口密度、政治的統合、社会的階層という10の分野それぞれがどの程度進化したかを定量化(48)。これを規模要素(定住性、農業、人口密度、都市化)と技術要素(他の6分野)に分けて前者をX軸、後者をY軸上にプロットした「適応地形」を描いた。すると1万年前には規模も技術もシンプルな社会のみがあったのが、6000年ほど前に技術はそれほどでもないが規模の大きな社会が増えて1つのピークを形作り、さらに2000年前になると規模のみならず技術も高い社会がまた別のピークを形作るようになった(49)。
ペレグリンは規模のみが大きな社会を「クラスターA」、規模だけでなく技術も高い社会を「クラスターC」と呼び、前者が首長制、後者が筆記やマネーを欠いている単純な国家だと説明している(50)。興味深いのはこのクラスターAからCへと延びる「稜線」が存在していること。つまり社会がAからCへと比較的短期間に動いたことが示されており、ヒトの社会が首長制というクラスターから国家というクラスターへと変化する際には短時間で一気に遷移した様子がうかがえる。
別のデータを使い、同じような結論を出している研究もある。文化進化学者のラクス・ミランダらは上でも触れたデータバンクSeshatから延べ271の過去の社会を取り出し、それぞれの社会の複雑性を算出(後述)。各社会の複雑性がどのようなクラスターにまとめられるかを調べた。それによると単純な社会からクラスター0、クラスター1と続き、最も複雑な社会であるクラスター4まで5つのクラスターが存在することが分かったという(51)。
各クラスターに属する代表的な社会として紹介されているのが、クラスター0がウッドランド期(紀元前600~紀元700年)のカホキア、クラスター1がカホキアの最盛期とされる紀元1100~1300年、2が王政ローマ(紀元前700~500年)、3が近代初期の教皇領(紀元1500~1600年)、そして最も複雑な4がオスマン帝国(紀元1600~1900)だ(52)。だがそれより重要なのはクラスター0と1を合わせたスーパークラスターAと、3と4を合わせたスーパークラスターBの存在。この論文では首長制や国家という概念と結びつけてはいないが、上の研究動揺にクラスターが大きく2つに分かれている点は同じだ。
クラスター0や1、あるいは3や4に属する社会はそのクラスターに1000年以上とどまっているのが珍しくないが、スーパークラスターに含まれないクラスター2については200~500年と短期間しか続かない、という特徴もある。どうやらクラスター2は単純な社会からより複雑な社会へ変わる移行期らしく、その期間が短いあたりはこれまたSカーブの存在をうかがわせる。また一度複雑な社会(スーパークラスターB)が成立すると、再びスーパークラスターAへと戻った事例は極めて少ない。さらに上の研究と同様、複雑性について規模の要素をY軸、それ以外をX軸に置いてプロットすると、過去の社会がやはり大きく2つのクラスターに分かれる様子が浮かび上がる(53)。
こうした細かい分析にどのような意味があるのだろうか。まず、時に水掛け論になりがちな定義論争に一つの客観的な視点をもたらすというメリットがある。例えばコロンブス交換以前の北アメリカで最大規模を誇るカホキアの遺跡を巡る議論だ。カホキアの人口が多く、短期的には「ある種の地域的な政府」の中心であったことは確かなようだが、一方で職業の専門化や多様化は見られず、統合的な経済活動を示すものもない(54)。そのためカホキアが首長制だったのか、それとも小さな国家だったのかという議論が長く行われている。もしSeshatのデータにおけるスーパークラスターAが首長制を意味するのなら、カホキアは国家にはなれなかったと結論を出すことができる。
だがそれよりも重要なのは、首長制や国家という言葉に単なる定義以上の実体的な差があったことを示せる点。これまで示してきたホモ属の脳サイズやヒトの生息域(面積)の拡大、他の動植物の家畜化・栽培化といった具体的な変化と同様、ヒト同士の関係性を示す社会もまた、実態を伴って原始的な形態から国家へと変化したのが分かる。つまり国家への遷移もヒトの歴史における重要な画期だったと言っていいだろう。
21 明石茂生, 国家の形成:空間的視点からの考察 (2002)
22 Elman R. Service, Primitive Social Organization: An Evolutionary Perspective (1962)
23 Jared Diamond (1997), Table 14.1
24 Jared Diamond (2002)
25 Manvir Singh and Luke Glowacki (2021), Table 1
26 Manvir Singh and Luke Glowacki (2021), Figure 3
27 Tim P. Denham et al., Origins of Agriculture at Kuk Swamp in the Highlands of New Guinea (2003)
28 Bruce D. Smith and Richard A. Yarnell, Initial formation of an indigenous crop complex in eastern North America at 3800 B.P (2009)
29 Dorian Fuller and Charlene A Murphy, Evidence for Sorghum Domestication in Fourth Millennium BC Eastern Sudan Spikelet Morphology from Ceramic Impressions of the Butana Group (2017)
30 Concetta Burgarella et al., A western Sahara centre of domestication inferred from pearl millet genomes (2018)
31 Jared Diamond (1997), Chapter 14
32 Tim P. Denham, Domesticatory Relationships in the New Guinea Highlands (2017), pp48
33 Aleksey G. Korvin-Piotrovskiy, Tripolye Culture in Ukraine (2012), pp12
34 Aleksandr Diachenko, Settlement System of West Tripolye Culture in the Southern Bug and Dnieper Interfluve: Formation Problems (2012), pp133
35 Robert Hofmann et al., Governing Tripolye: Integrative architecture in Tripolye settlements (2019), Fig. 26
36 Johannes Müller et al., Tripolye Mega-Sites: “Collective Computational Abilities” of Prehistoric Proto-Urban Societies? (2022), Fig. 3, 5
37 そもそもポカホンタスの逸話が事実かどうかは今も議論の対象となっている; 佐藤円, ポカホンタスによるスミスの助命論争―再考― (2015)。1624年に出版された書籍内で、スミスが「王の愛娘であるポカホンタスが、もはやいかなる嘆願も聞き届けられないと知ると、スミスの頭を腕で抱え込み、彼の命を救うために自分の頭を彼の頭に重ね合わせた」と記しているのが史実だと主張する側の論拠となっている; John Smith, The Generall Historie of Virginia, New-England, and the Summer Isles (1632), pp49。ただし彼がそれ以前の1608年に出版した文章の中では、ポカホンタスが捕らわれの彼の命を救ったという話は載っておらず、後に出てきた話はスミスが自らを重要人物に仕立てるために粉飾したものだとの批判もある; Charles Deane, A True Relation of Virginia by Captain John Smith (1866), pp38-40
38 Christopher Steadman, The Powhatan Chiefdom: 1606 (2015)
39 Martin Gallivan, An Overview of the Powhatan Chiefdom (2005)
40 Timothy Earle, The evolution of chiefdoms (1991), pp3
41 James Mooney, The Powhatan Confederacy, Past and Present (1907), pp142
42 Peter Turchin and Sergey Gavrilets (2021), Table 1; ちなみにこの論文では地域ごとに専門の軍士官、兵、宗教関係者、官僚や、官僚試験、実績昇進システム、特定の政府建造物、公式の法律、専門の判事、弁護士、裁判所用の建造物のそれぞれの有無を調べ、その実在が半数を超えたタイミングで国家の成立と解釈している
43 Morton H. Fried, The Evolution of Political Society: An Essay in Political Anthropology (1967)
44 David G. Anderson, The Savannah River Chiefdoms: Political Change in the Late Prehistoric Southeast (1994), pp9
45 John H. Blitz, Mississippian Chiefdoms and the Fission-Fusion Process (1999), pp579
46 Jared Diamond (1997), Chapter 14
47 Joseph A. Tainter, The Collapse of Complex Societies (1988), pp29
48 Peter N. Peregrine, Toward a Theory of Recurrent Social Formations (2017), Table 2
49 Peter N. Peregrine (2017), Figure 6
50 Peter N. Peregrine (2017), pp8, Figure 5。ちなみにこの論文には現代まで対象範囲を広げて適応地形を描けば「事実上すべての社会に取り囲まれた大きな単独峰という『フジヤマ』のような景色が見られただろう」と記されている。
51 Lux Miranda and Jacob Freeman, The two types of society: Computationally revealing recurrent social formations and their evolutionary trajectories (2020), Fig. 1
52 Lux Miranda and Jacob Freeman (2020), Table 2
53 Lux Miranda and Jacob Freeman (2020), Fig. 7, Fig. 8
54 Peter N. Peregrine et al., Social Complexity at Cahokia (2014)
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