第5章 2つの閾値
シュメールの水争い
それは農業社会によくある争いから始まった。ある大河の上流と下流にある2つの勢力が、彼らの間にある灌漑水路の利用権と隣接するオオムギ畑からの収穫を巡って対立を強めていたのだ。長さ10キロ、幅1キロにわたって広がるこの細長いオオムギ畑の用益権は大河の下流に位置する勢力が保有していたが、実際にそこの耕作に当たっているのは上流側の勢力だった。上流側勢力は収穫したオオムギの3分の1を下流側勢力に小作料として支払い、下流側はその収益を灌漑路や貯水池の維持費に充てることになっていた。ところが上流側はこの小作料支払いを拒絶した。
両者の対立は灌漑路の一部破壊と、上流側による水路の勝手な変更につながった。結果、両勢力はそれぞれ軍を持ち出し、相争う事態に至った。戦いは40年にわたったが、最終的に下流側が勝利。灌漑路は再建され、改めて国境を定める石碑が設置された。こうした水利権や耕作地を巡る争いはヒトの歴史においてありふれた出来事だが、ここで話した内容は文書記録に残されたものとしてはおそらく最古の事例の一つ。紀元前第3千年紀の半ばにメソポタミアのチグリス川流域で、下流に位置する都市国家ラガシュと、その上流にある都市国家ウンマの間で起きた争いだ(01)。
こうした記録はメソポタミアから発掘された楔形文字に記されている。例えばエンテメナ(エンメテナ)の粘土釘と呼ばれる円錐形の粘土(02)や、エンテメナの円錐(03)には、ラガシュの王であったエンテメナの事績を記した楔形文字が刻まれており、その中でこの争いについての経緯がかなり詳細に語られている。それによるとラガシュとウンマの国境は昔からこの地域の覇者であったキシュの王によって定められていたが、その国境はしばしばウンマによって侵害されたという。
最初の争いはウンマの王ウシュとメソポタミア神話に出てくる神エンリルの間で行われた。次にエンテメナの叔父であるエアナトゥムとウンマの王エン・アカレ(エン・アカリ)の間で両都市の間にあるグ・エデナと呼ばれる平野の境界が定められたが、後のウンマの王であるウルルンマ(ウル・ルマ)は堤防を破壊し(あるいは水を奪い)、境界を示す石碑を破壊して国境を侵害した。エアナトゥムはウギガの平野へと兵を進めてウンマと戦い、これに勝利。この時、ウルルンマは兵60人もしくはロバ60頭を灌漑路沿いに置き去りにして逃げ出したという。
このウギガの戦いについて記している有名な石碑が「ハゲワシの石碑」と呼ばれるものだ(04)。それによるとウンマ側の協定違反に対しエアナトゥムが神ニンギルスに訴えたところ、ニンギルスが夢枕に現れてウンマの王(ハゲワシの石碑ではウスルドゥと記されている)を打ち倒すと約束したそうだ。そしてエアナトゥムは自らに向けて矢が降り注ぐ中で(つまり最前線で)戦い、勝利を収めた。敵に与えた損害は大きく、彼は戦場に20もの墳丘墓を作ったという。境界線は引き直され、ウンマは負債の支払いを改めて約束した。
この、今から5000~4000年ほど前に起きた出来事を見ると、そこからさらに5000年強前の農業開始当初(第4章)から世の中が大きく変わったことがよくわかる。例えば耕作されているオオムギ自体は古くから肥沃な三日月で栽培化されていた植物だが、オオムギ畑のために灌漑路が整備されている点は大きな変化だ。紀元前第3千年紀の後半にあたるウル第3王朝で書かれた報告書の中にも、耕作用の溝が溢れた時には水を抜いた、といった灌漑にまつわる話が載っている(05)。
灌漑のような農業技術の進化は高い人口密度を持った社会をもたらしただろう。実際この時期のメソポタミアでの農業生産力は極めて高く、紀元前第3千年紀半ばのラガシュではオオムギの収穫が播いた種の76.1倍に達し、その後のウル第3王朝期にも播種量の20倍が平均収穫だったことが楔形文字の記録から分かるという(06)。これらの数字は後のローマ時代におけるシチリア(8倍)や中世英国(10倍)の水準を大きく上回っており、この時代の肥沃な三日月地帯が文字通り肥沃な土地であった様子がうかがえる。
家畜も盛んに飼育されていた。この時期には分業化も進んでいたようで、例えば牛飼いの中にも牝牛と子牛・種牛を育てる者、牡の若牛を育てる者、そして農作業に使うために成牛を飼っている農夫といった具合に役割が分かれていた。またウシやヒツジと異なり、ブタを飼うのは女性労働の延長として考えられていたそうで、製粉所で飼育されるブタの会計簿などが残されているという。シュメール語には「ヒツジのように無数にいる」といった比喩も頻出するそうで、家畜がかなり身近な存在であったことも分かる(07)。
ラガシュとウンマの争いからは土地の用益権という法的な権利関係、あるいは小作料のような経済的な契約関係の存在もうかがえる。実のところ楔形文字の大半は行政や経済関係の文書で占められており、文学や神話を扱ったものに比べて圧倒的に多い。少し後の時代になるが、アッシリア帝国のテキストを集めたサイトでジャンル別の数字を見ると、法的な記録(2188件)や行政上の手紙(2100件)などに比べ、文学(59件)や儀式・礼拝(61件)に関する文献はずっと少ないことが分かる(08)。それだけ法的、経済的な活動が恒常的に広く行われていたと推測できる。
そもそも楔形文字以前、紀元前第4千年紀末から同第3千年紀冒頭に存在していたウルク古拙文字からして、4000点近くあるうち約8割を行政記録が占めている(09)。ウル第3王朝の頃には家畜集配組織が存在し、税などとして持ち込まれた家畜に関する持参記録や受理記録、移管記録といったものが数多く残されている(10)。さらにメソポタミアでは各種の経済文書についての形式まで固まっていたようで、例えば領収書であれば受領した財物の種類と量、提供者の氏名、受領者の氏名、日付といった順番に情報が記されることになっていた(11)。
この時代、国王はもちろん重要人物ではあったが、必ずしも国土全体の所有者と見なされていたわけではない。経済文書についても圧倒的に多いのは神殿の管理運営上の記録であり、どうやら地縁的な社会組織であった神殿の方が具体的な経済活動への直接的な関与は大きかったようだ(12)。王も神殿も、それぞれの所有地を直営地と割当地に分け、直営地は農場や牧場、製粉所などの生産活動に当て、割当地は王族や家臣などに貸与して代わりに直営地の耕作や労役義務、軍役などを課していたという(13)。
もちろん数が少ないとはいえ、文学や神話に相当するものもあった。例えば「神への手紙」と呼ばれるテキストの一群が存在するが、これについては手紙形式の祈祷だとする見方がある(14)。もちろんかの有名なギルガメッシュ叙事詩も存在する。こちらは古いものだとウル第3王朝の頃に成立したと見られており、5つの叙事詩に彼の名が出てくる(15)。そしてラガシュとウンマの紛争でも触れられていたように、神の名も語られるようになっている。
だが何よりも注目すべきは国王の存在そのものかもしれない。国王がいるということは当然国家も存在しており、その運営に当たる官僚的な役割を果たす者たちもいたと推定できる。明白に実在していたことが分かる官僚組織が軍隊だ。エアナトゥムがラガシュの兵を率いてウンマの軍勢と戦ったように、軍隊はこの時代から存在し、国家の利益を守るために他国の軍と戦っていた。
ハゲワシの石碑には楔形文字だけでなく、エアナトゥムと彼の軍勢を記したと見られるレリーフも刻まれている。断片的にしか残されていないが、その中には長方形の盾を持ち兜をかぶった槍兵たちの先頭にエアナトゥムが立っているものや、盾を持たず槍や斧を担いだ兵たちの前をチャリオットに乗ったエアナトゥムが前進している姿が見られる。前者については盾を並べて身を守りつつ槍衾を構える「ファランクス」を描いたものか、そうではなく盾兵に守られた槍兵の隊列を示しているのかについて議論がある。また後者については前者と別の盾を持たない兵を描いたものか、それとも同じ兵が別のタイミングで武装を変えたものかについて論争が行われている。
ある研究者は石碑の4つの断片がそれぞれ戦いのさなか、王がチャリオットにのって追撃に転じる場面、敵の敗北(倒れた多くの者をハゲワシが狙っている)、そして埋葬のシーンを描いたものだと解釈している(16)。あるいはエアナトゥムの夢の中でニンギルスが勝利を予言した場面を描いたものかもしれない。いずれにせよ当時の兵が槍や斧で武装していたことは確かだろう。また盾を使うようになったのは弓矢への対抗手段だとも考えられる。槍や斧、そして弓矢はホモ・サピエンスが狩猟などの道具として発明したものだが、盾や兜のような防具はむしろ戦争のために生まれたものと思われる。
農業技術の進化や分業の進展、法的・経済的活動の増加と複雑化、神話や文学の登場、国王に代表される国家の活動と戦争。そういった変化に加えてもう一つ重要なものとして、それらの記録を現代に至るまで残すことを可能にした文字の発明そのものがある。実際、古代メソポタミアからは一説によると100万点近くもの大量の楔形文字が出土している(17)。一方でその解読に当たる専門家の数は少なすぎるようで、最近はAIを使って楔形文字の翻訳に取り組む研究が現れたほどだ(18)。
文字が持つ意味の重要さについては、例えば「ウルクの大公共組織は、粘土板記録システムが発明されるのをいわば『待っていた』」(19)と指摘する研究者がいることからも想像できるだろう。当時のメソポタミア都市国家が作り上げた組織は、粘土板による記録なしでは運営が不可能なほど大規模化、複雑化しており、実際に楔形文字が発明された初期のころからそのテキストには大組織の複雑な管理・運営が記録されていたという。複雑な社会を動かすために文字が求められ、その文字によってさらに複雑な社会が維持、拡大されていった可能性があるのだ。
この粘土板に記録する楔形文字の体系は、紀元前3000年頃のごく短期間のうちに、ある個人(おそらくはウルク在住のシュメール人)が考え出したとも言われている(20)。そう、ここでも短期間の急速な変化というSカーブに通じる何かが、ヒトの歴史に生じていた可能性があるのだ。他の生物との間に延長された表現型を及ぼした第3の画期と異なり、この第4の画期にヒトは自分たち同士の関係、すなわち「社会」を大きく変化させていった。
01 Peter H. Sand, Environmental Dispute Resolution 4,500 Years Ago: The Case of Lagash v Umma (2020)
02 https://oracc.museum.upenn.edu/etcsri/Q001103/html(2024年3月30日確認)
03 James B. Nies and Clarence E. Keiser, Historical, Religious and Economic Texts and Antiquities, pp5-12
04 https://cdli.mpiwg-berlin.mpg.de/inscriptions/2322290(2024年3月30日確認)
05 https://etcsl.orinst.ox.ac.uk/cgi-bin/etcsl.cgi?text=t.3.1.03#(2024年3月30日確認)
06 前川和也, 古代シュメールにおける農業生産 (1966)
07 前田徹, シュメール語文字史料から見た動物 (2003)
08 https://oracc.museum.upenn.edu/atae/browsetextsbygenre/index.html(2024年3月30日確認)
09 前川和也, 前3千年紀シュメール語彙リストとアッカド語世界 (2008)
10 酒井龍一, ドレヘム文書と家畜集配組織 (2004)
11 酒井文雄, 古代メソポタミアの商業簿記 (1965); なおこの文章には領収書のほかに債務契約書、譲渡可能な債務契約書、売買契約書、賃貸借契約書、現金支出票、財貨支出票、出張手当支出票、家畜飼料の支出票、賃金支出票、受取地代の報告書、衣服生産の報告書、家畜群の棚卸表、王室の監査報告書それぞれの形式が紹介されている
12 山本茂, シュメール都市国家ラガシュにおける神殿の社会組織について――割当地保有者をめぐって――
13 水谷謙治; 古代のシュメールと中国における初期の貸借考 (2019)
14 高井啓介; シュメール語の嘆願の文学書簡とその意義について (2006) 15 Gilgamesh(https://www.worldhistory.org/gilgamesh/、2024年3月30日確認)
16 Graham Charles Liquorish Wrightson, Greek and Near Eastern warfare 3000 to 301: the development and perfection of combined arms (2012), pp44-51
17 John Huehnergard and Christopher Woods, Akkadian and Eblaite (2004)
18 Gai Gutherz et al., Translating Akkadian to English with neural machine translation (2023)
19 前川和也, 粘土板記録システムの成立と伝播 (2002)
20 Marvin A. Powell, Three Problems in the History of Cuneiform Writing: Origins, Direction of Script, and Literacy (1981), pp419-423
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