進む品種改良
わかりやすいSカーブの例は、メガファウナが家畜化された時期だ。ダイアモンドが紹介した14種の家畜のうち、直近1000年の間に家畜化されたのは最も重要度の低いトナカイだけであり(119)、メジャー5、すなわちウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギ、ウマはいずれも5500年前までには家畜化されている。さらに言うなら、5500年前に家畜化されたのはメジャー5の中でも2022年時点で6058万頭と桁違いに数の少ないウマであり、残るウシ(15億5151万頭)、ブタ(9億7897万頭)、ヒツジ(13億2153万頭)、ヤギ(11億4538万頭)という飼育数の多い家畜は(120)、1万年前にほぼ横並びでまとめて家畜化されている。短期間に一気呵成に家畜化が進み、その後になって家畜化の流れが鈍るという流れは、まさにSカーブだ。
栽培化された植物の場合、Sカーブが見られるのは収穫量の増加につながる品種改良の分野だ。例えばコムギの場合、穀粒の重量について紀元前1万年頃からの推移を調べると、紀元前6000年あたりまでは右肩上がりで増えるが、その後は横ばいになるという傾向が浮かび上がる(121)。もちろん農業の収穫という意味では穀粒のサイズだけでなく、耕地面積の拡大や単位収量の増加といった他の要因も重要だし、コムギのように地力を回復させる必要がある作物の場合はどの程度の頻度で栽培を行うかも影響する。それでも穀粒の増大という品種改良が割と短期間で進み、その後で停滞に陥ったのは確かだ。
コメにも同じ傾向がある。こちらで調べているのは米粒の幅だが、紀元前6000年から3000年頃まで増大が続いた後で、やはり横ばいに転じている(122)。栽培化を始めた当初に大きく穀粒のサイズが拡大するが、やがては伸びが鈍るあたりはこれまたSカーブの特徴だ。なおコムギもコメも近代に入って再びサイズの増大を達成しているが、これはグローバルな交易が広まった結果としてより多様な品種を使った交配が可能になったことなどがプラスに働いたのだろう。
一方、トウモロコシの穂軸の長さについてはそうした明白な傾向は見られず、紀元前5000年からほとんど一直線の伸びを記録している(123)。ただしここで使用しているデータはかなり古いものであり、またサンプル数も少ない。最近のデータを使った研究を見ると、穂軸についている穀粒の列の数は今から6000年ちょっと前には5列未満だったのが4000年ほど前には12~14列へと3~4倍に増加しているのに対し、それ以降は多くても20列をちょっと超える程度にとどまっており、列の増加が鈍っていることが分かる(124)。
一風変わったSカーブを提示している研究者もいる。狩猟採集社会から農業社会へと遷移する過程で生じる一連の重要イベントに注目したもので、具体的には定住型の狩猟採集民、野生型の穀物収穫用の道具、村、植物の栽培化、動物の家畜化、土器製作、首長制、そして金属加工がそれらに相当する。もしそれぞれのイベントの重要性が同じだとした場合、各イベントが生じた時期を並べた時にイベントの起きる頻度が最初は低く、やがて高くなり、それからまたペースが落ちるというSカーブを描く、というのがこの研究者の指摘だ。
具体的には定住型の狩猟採集民が生まれたのが1万5000年前であり、野生型の穀物収穫がその4000年後に訪れた。だが村の誕生はそこから2000年後、植物の栽培化、動物の家畜化はそれぞれたった500年の時間を経ただけで実現した。しかしそこから農業社会へのシフトは減速し、土器製作には1500年の時間がかかった。さらに金属加工にもそこから1500がかかっており、最終的に9000年の時間をかけてSカーブが描かれた、というのがこの説だ(125)。
本当にこれらのイベントが同じ程度に重要かどうかは分からず、だからこのSカーブが妥当なのかは判断しがたい。それでも農業の開始が人間社会を大きく変えていったという主張は確かに広く受け入れられている。農業を通じてヒトは貯蔵可能な余剰食糧を手に入れられるようになり、それが居住地の人口密度上昇、専門化と分業、交易や取引、集権化された管理機構、政治構造、階層的なイデオロギー、財産権、さらには文字、数学、天文学など、様々な変化や発明へとつながっていった(126)。
いや、農業が生み出した変化はヒトの暮らしや社会を新しい軌道に遷移させただけにとどまらなかった。それはまさに延長された表現型として、ヒト以外の生物や環境までも大幅に変えていったのだ。例えば1万年前には世界全体で農地は10万ヘクタールにとどまっていたが、紀元1900年にはこの数字は25億ヘクタール、現在は48億ヘクタールと桁4つ分も膨らんでいる。一方でホモ・サピエンスが生息域を本格的に広げる前である10万年前に炭素換算で2000万トンに達していた野生哺乳類の生物量は、現在はたった300万トンしか存在していない(127)。
ヒトが特に大きく変えたのは、哺乳類と鳥類の世界だ。現在、哺乳類の生物量全体のうち野生動物が占める比率はたった4%に過ぎず、34%はヒトが、そして残る62%は家畜が占めている。家畜の内訳はウシ(35%)、ブタ(12%)、スイギュウ(5%)、ヒツジ(3%)、ヤギ(3%)など。また鳥類を見ると野生種は29%にとどまり、ニワトリなどの家禽が71%に達している(128)。もちろん植物やバクテリアなども含めた全生物量との比較で言えばヒトの割合はたったの0.01%に過ぎないが(129)、それでも地球の長い歴史を踏まえるなら農業を始めてほんの1万年ほどでここまで生態系を変えたことには驚きを覚える。
それだけではない。ヒトの足跡は数千年前以降の大気にも残されている。ミランコビッチ・サイクルから予測できる二酸化炭素とメタンの量は1万年前から現在まで右肩下がりになるはずだが、うち二酸化炭素は8000年前から、メタンは5000年前から予測されるトレンドを外れてむしろ増加に転じ、現在では前者は本来の想定より40ppm、後者は250ppbも多い水準に達しているという研究がある(130)。二酸化炭素が増えたのは森林破壊、メタンの増加はアジアでの水田農耕の普及が原因だという指摘もあり、これが事実だとしたら温暖化の淵源は農業にまで遡るという話になる。
しかもヒトのもたらした変化はここで終わりではなかった。延長された表現型は他の生物だけでなくヒトそのものにも及び、その行動を変えていく。より複雑な社会が生まれようとしていた。
119 Jared Diamond (2002)
120 FAOSTAT(https://www.fao.org/faostat/en/、2024年3月23日確認)
121 Peter Turchin et al., An Integrative Approach to Estimating Productivity in Past Societies using Seshat: Global History Databank (2021), Figure 1
122 Peter Turchin et al. (2021), Figure 3
123 Peter Turchin et al. (2021), Figure 2
124 Douglas J. Kennett et al., High-precision chronology for Central American maize diversification from El Gigante rockshelter, Honduras (2017), Fig. 5
125 David John LePoire, Exploring Phenomenological Models for Societal and Technological Transitions of the Neolithic Revolution and Early Civilization Formation (2023), Table 1, Figure 4
126 Sherif Khalifa, Geography and the Wealth of Nations (2022), pp17
127 Hannah Ritchie, Wild mammals have declined by 85% since the rise of humans, but there is a possible future where they flourish(https://ourworldindata.org/wild-mammal-decline、2024年3月23日確認)
128 Yinon M. Bar-On et al., The biomass distribution on Earth (2018); Hannah Ritchie, Wild mammals make up only a few percent of the world’s mammals(https://ourworldindata.org/wild-mammals-birds-biomass、2024年3月23日確認)
129 Hannah Ritchie, Humans make up just 0.01% of Earth's life — what's the rest?(https://ourworldindata.org/life-on-earth、2024年3月23日確認)
130 William F. Ruddiman, The early anthropogenic hypothesis: Challenges and responses (2007), Figure 1A, 1B
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