世界三大穀物

 上で述べたように農業は世界の各地で一斉に始まったように見える。例えばある研究では、肥沃な三日月地帯で1万3000年前(疑問符付きの農作物を除けば1万年前)、メソアメリカと南米北部(アンデスとアマゾンの一画)で1万年前、別のアマゾンの一画で8500年前、中国の華北と華南で8000年前、ニューギニア及びこれまた別のアンデスの一画で7000年前にそれぞれ個別に農作物の栽培化が始まったとの見方を示している(54)。加えてもっと新しいものとして、北米東部が5000年前、インド南部が4500年前、サヘル地方が4000年前にやはり農作物を生み出している。

 こうした研究は他にもあり、その多くが似たような分布を示している(55)。もちろん作物の原産地は上にあげた地域だけではなく、他にも様々な場所で植物の栽培化が行われたが(56)、農業発祥の地となるとそこまで広範囲であったとは見られていない。特に古い時期に農業が始まったと見られるのは、前の節でも触れたレヴァント(肥沃な三日月)、中国(黄河流域と長江流域)、メソアメリカ、アンデス及びアマゾンの一部地域に、あとはインダス河畔やニューギニアの高地地方が加えられるくらいだ

 何がこれらの地域に農業を生み出させたのだろうか。一つは気候条件が挙げられる。植物を育てられるだけの降水量が得られる一方、洪水を避けるための乾季(特に冬)もある方が望ましい。また病気の発生を抑制する寒い季節も一定期間存在した方が好都合だ(57)。これらの条件を満たすのが、赤道付近に存在し季節に応じて北上・南下する低圧帯「熱帯収束帯」(58)が夏場に位置している地域だ。北半球では肥沃な三日月や中国、メソアメリカが、南半球ではアンデス地域やニューギニアが、まさに夏場は熱帯収束帯の下に存在していたといわれている。

 厳密に言うと足元の気候では、例えば乾燥した肥沃な三日月まで熱帯収束帯が北上することはない。だが完新世でも前半の5000年ほどの時期には熱帯収束帯が北半球の夏に今よりも北側まで移動していたとの指摘もある(59)。当時はサハラ砂漠に草原が広がっていたことが知られており(60)、中東地方も今よりは降水量が多かったようだ。この完新世初期はモンスーンの活動も活発だったようで、農業が始まった地域に十分な降水量が供給されていたとの指摘もある。

 また栽培化が進んだ地域は熱帯や亜熱帯に多く、その中でも生物多様性のホットスポットに不釣り合いなほどに集中しているという指摘もある(61)。ホットスポットには地球上の44%の植物種が生息しており、面積的には熱帯や亜熱帯のうち12%がこのホットスポットに相当する。一方で栽培化の中心となった地域のうち28%はホットスポット内に存在しているそうで、生物多様性に富んだ地域ほど初期の農民にとって最も農耕に向いた植物を選びやすかったのだと考えられる(62)。

 もう一つは、そもそも栽培化に適した植物が自生していた地域で農業が始まったという説だ。肥沃な三日月では現在のパンコムギの祖先種にあたるヒトツブコムギやエンマーコムギ、またオオムギが、黄河流域ではアワやキビ、長江流域ではコメ、メソアメリカではトウモロコシやペポカボチャ、アンデス付近ではジャガイモ、そしてニューギニアではバナナやタロイモといったものが独自に栽培化された(63)。いずれも元はその地域に自生していた野生種の品種改良を進めることで、狩猟採集社会から農業社会へとシフトが進んだと見られている。

 栽培化された植物の中には、その後原産地を離れて世界の広い地域で栽培されるようになったものも数多い。特に世界三大穀物とも呼ばれるコムギ、コメ、トウモロコシは2022年の生産量がそれぞれ8億844万トン、7億7646万トン、11億6350トンに達しており(64)、人口1人あたりそれぞれ年100キロ前後の食が提供されている計算だ。この三大穀物は全人類のカロリーのうち42.5%、タンパク質の37%、脂質の6%を供給していると言われているほどで(65)、まさに全人類の胃袋を支えていると言っていい。

 穀物がヒトにとってこれだけ重要なエネルギー源となる過程で進んだのが、穀粒の大型化だ。穀物の栽培化に際してはヒトが刈り取る前に穂軸から穀粒が落ちてしまう「脱粒性」の喪失がかなり初期段階で起きたと見られている(66)。植物にとっては種子を地面に落とさないと子孫が残せないために脱粒性を持っているのは当たり前だが、ヒトにとって地面に落ちた穀粒を拾い集めるのは非常に手間がかかるために、この性質を持たない穀物がいち早く人為選択されたと考えられる。だが研究者によっては1000~2000年かかったと見られる脱粒性の喪失よりも早く、500~1000年以内に粒径の増加という形で穀粒大型化が進んだと主張する者もいる(67)。

 とはいえ栽培型の誕生と、それが野生型に取って代わることとは同義ではない。栽培型が定着するには時間を要する。肥沃な三日月で時代の異なる遺跡から発見されたコムギやオオムギについて、野生型と栽培化の可能性があるもの、完全に栽培化されたものそれぞれの占める割合が時代とともにどのように変化したかを調べた研究によると、1万200年前の時点では野生型が14個、栽培化の可能性があるものが4個で、完全に栽培化されたものはなかったが、9250年前になると完全に栽培化されたものが11%、7500年前は36%、そして6500年前には65%と時間とともにその比率は高まっていった(68)。

 栽培型と簡単に言ったが、実は栽培型の農作物がどのように出来上がってきたかについての議論も結構複雑だ。最もよく分析されているコムギを取ってみても、現在主に栽培されている六倍体(ゲノムのセットが6つ存在する)のパンコムギが生まれてくるまでの道筋については色々な意見がある。四倍体である野生のエンマーコムギから栽培型のエンマーコムギが生まれ、それが野生のタルホコムギと自然交配して栽培型のパンコムギが生まれたという説明が一般的だが(69)、そうではなくゲノム解析の結果40万年ほど前にはパンコムギが生まれていたという研究もある(70)。

 いずれにせよパンコムギの祖先にヒトツブコムギ、クサビコムギ、タルホコムギといった野生型のコムギがいたであろうことは確かなようだ。そしてこれらの野生型コムギが繁殖していたのが、まさに肥沃な三日月地帯とその周辺だった。野生のヒトツブコムギはアナトリアからイランにかけての山沿いの地域に、ヒトツブコムギとクサビコムギの自然交配で生まれた野生のエンマーコムギはほぼ肥沃な三日月と重なる形で分布していたと見られ(71)、また野生のタルホコムギは今のトルコ、イラン、コーカサスにまたがる地域に自生していたようだ(72)。

 肥沃な三日月で栽培化された植物はコムギだけではない。ライムギやレンズマメ、イチジク、さらにイモ類など、非常に多様な植物が栽培されていたし、また時期によって主力となる作物が変化していた様子もうかがえる(73)。だがその中でも最も成功を収めたコムギの原産地が肥沃な三日月周辺に集まっている点は、なぜここで農業が始まったかを理解するうえで重要な意味を持つだろう。気候の安定は地球上の幅広い地域に及び、ホモ・サピエンスは南極を除く全大陸に広まっていた。だが農業を始めるためにはより細かい気候条件に加え、栽培化に向いた野生の植物がそこに存在している必要があったのだ。

 現在、世界最大の生産量を誇るトウモロコシも、その野生型がかなり狭い範囲に自生していた植物だ。トウモロコシはおよそ8700年前にメキシコ南部のバルサス峡谷で栽培化されたと見られている(74)。巨大な穂軸に穀粒が大量についているトウモロコシに比べ、その野生型であるテオシントの穂軸は極めて小さく、栽培化によってその姿までが大きく変わった様子がうかがえる(75)。テオシントにはいくつかの亜種が存在しており、高地に自生するものと低地に自生するものがそれぞれメキシコ南部を中心に分布していたと見られている(76)。

 栽培化されたトウモロコシは、その後かなり早いタイミングで南方へと広がっていった。早くも今から8000年以上前には既に南米エクアドルのアンデス山中でトウモロコシが使用されていた痕跡が見つかっており(77)、6500年前からはアマゾンに、5000年前からはペルーやウルグアイといったところにまでトウモロコシが広まった証拠が見つかっている(78)。おそらく最初に栽培化されたのが熱帯地域だったため、暑い地域への拡大は容易だったのだろう。逆に北方へ広まっていったのは今から5000年前以降に限られていたようで、トウモロコシにとっては北方への生息域拡大の方がハードルが高かったように見える。

 ただし作物によっては野生型が広範囲に自生していたのに、栽培化されたのは一部地域にとどまっていたと思われる例もある。コメだ。コメは大きくアジアイネとアフリカイネの2種に分かれ、うち前者には穀粒の長さが短いジャポニカ、長いインディカ、大型のジャヴァニカという3種が存在する(79)。一方のアフリカイネが栽培化されたのは今から3500~2800年前と比較的新しい(80)。

 このうちアジアイネがどのように栽培化されたかについてはいくつか説がある。野生型のうち多年生株がジャポニカと、一年生株がインディカと関係しており、それぞれ異なる野生型から栽培化されたという説(81)がある一方、脱粒性の喪失に関連する遺伝子はジャポニカとインディカで一致しているため、1回だけ栽培化が生じた後に品種が2つに分かれたとする研究もある(82)。最近ではジャポニカの先祖で1回だけ栽培化がなされた後に、他の野生型との交雑を通じてインディカなどが生まれたとの説もある(83)。

 コメが最初に栽培化されたのは、遺跡の存在などから長江下流域あるいは中流域だとするのが通説だ(84)。もちろんこちらでもコムギ同様、出土品を見ると時代とともに栽培型の割合が増えている(85)。おそらく最初は1万年以上前、山麓と平野の境目あたりに住む人が部分的にコメの利用を始め、7000~6000年ほど前には有名な中国浙江省の河姆渡遺跡で大規模なコメの栽培跡が見つかるなど、一部で集約的な農業が始まった可能性がある。6000~4000年前になると稲作の比重が増していったほか、北は山東省、南は東南アジアや台湾、インド各地と広範な地域にコメの栽培が広まっていった(86)。

 問題はコメの野生型であるノイネが現在分布している地域に長江流域が含まれていない点だ(87)。またコメのゲノム解析から中国内でもずっと南方の珠江流域に生息しているノイネとの関係が深いことが分かっており、そのためこの地域こそ最初にコメ栽培化がされた地域だとする説もある(88)。ただしこの地域には古い時代のコメ栽培を示す遺跡が少ないという問題があり、そうした遺跡データベースに基づいた分析だとやはり長江流域こそが最初に栽培された地域と考える方が辻褄が合う(89)。どうやらかつては長江流域にもノイネが自生しており、それが栽培化されていったのだと見られている。

 そう判断する理由の一つは気候変動。アジア地域ではヤンガードリアス期の影響が小さく、早めに温暖化が進んだ結果として昔はノイネの生育限界が今より北にあったのではないかとの説がある(90)。実際に完新世の初期から中期にかけての中国東北部での花粉などの分析、石筍の記録を調べると、当時はモンスーンが今より活発だったことが分かるそうで、長江流域も今より温暖で湿潤な気候だったとの指摘もある(91)。加えて1000年ほど前までは長江流域でもノイネが生息していたとする文献記録が存在しており(92)、実は栽培型のコメが広まった結果として生息地を奪われたノイネがこの地域から姿を消した可能性もあるという。

 だとしても、ノイネは中国の長江以南から東南アジアを経てガンジス川流域までの広い範囲に生息していたわけで、そのうち長江が最初に栽培化された地域になった理由は明白ではない。中国ではコメの栽培化と同時期に黄河流域でキビやアワの栽培化が進んでおり、8000年近く前にはその両方を同じ地域で栽培していた例もあった(93)。もしかしたらキビやアワといった雑穀栽培とコメの栽培のそれぞれが互いに影響しあったことが、この地域で栽培化を進める原動力になったのかもしれない。



54 Michael Balter, Seeking Agriculture's Ancient Roots (2007)

55 Dolores R. Piperno, A model of agricultural origins (2018); Dorian Q. Fuller, Convergent evolution and parallelism in plant domestication revealed by an expanding archaeological record (2013), Fig. 1; Jared Diamond, Evolution, consequences and future of plant and animal domestication (2002), Figure 2

56 CGIAR, Origins and primary regions of diversity of agricultural crops(https://cgspace.cgiar.org/items/a248e930-9cbf-4b83-997d-d588b1aec81e、2024年3月17日確認)

57 Malaize Bruno, Climate change and ancient civilizations (2020)

58 Yuk Yee Yan, Encyclopedia of World Climatology (2008), Intertropical Convergence Zone (ITCZ) pp429-430

59 Heinz Wanner and Stefan Brönnimann, Is there a global Holocene climate mode? (2012), Figure 1

60 Ahmed Dawelbeit et al., Sedimentary and paleobiological records of the latest Pleistocene-Holocene climate evolution in the Kordofan region, Sudan (2019)

61 Paul Gepts et al., Introduction: The Domestication of Plants and Animals: Ten Unanswered Questions (2012)

62 Paul Gepts, Tropical Environments, Biodiversity, and the Origin of Crops (2008), Table 1.2

63 Michael D Purugganan and Dorian Q Fuller, The nature of selection during plant domestication (2009), Figure 1

64 FAOSTAT(https://www.fao.org/faostat/en/#home、2024年3月17日確認)

65 Food and Agriculture Organization of the United Nations, Save and Grow in Practice Maize Rice Wheat (2016), pp3

66 小西左江子 et al., イネはどのように栽培化されたのか? 一イネ脱粒性遺伝子の単離から見えてきたこと一 (2007), pp447

67 Dorian Q. Fuller, Contrasting Patterns in Crop Domestication and Domestication Rates: Recent Archaeobotanical Insights from the Old World (2007)

68 Ken-ichi Tanno and George Willcox, How Fast Was Wild Wheat Domesticated ? (2006), Fig. 1F

69 Yoshihiro Matsuoka, Evolution of Polyploid Triticum Wheats under Cultivation: The Role of Domestication, Natural Hybridization and Allopolyploid Speciation in their Diversification (2011), Fig. 2

70 The International Wheat Genome Sequencing Consortium, A chromosome-based draft sequence of the hexaploid bread wheat (Triticum aestivum) genome (2014), Fig.1; Thomas Marcussen et al., Ancient hybridizations among the ancestral genomes of bread wheat (2014), Fig. 3

71 Carlos A. Driscoll et al., From wild animals to domestic pets, an evolutionary view of domestication (2009), Fig. 1

72 Jutta Lechterbeck and Tim Kerig, Inventions, innovations and the origins of spelt wheat (2024), Fig. 1

73 Amaia Arranz-Otaegui and Joe Roe, Revisiting the concept of the ‘Neolithic Founder Crops’ in southwest Asia (2023), Fig. 3。なおこの論文では、かつて唱えられていた肥沃な三日月地帯でまず「始祖の作物」と呼ばれる8種類の作物の栽培が始まったという説に対し、その後の考古学的な調査から判明している実態に合っていないと批判している; Daniel Zohary and Maria Hopf, Domestication of Plants in the Old World: The Origin and Spread of Cultivated Plants in West Asia, Europe, and the Nile Valley (1988)

74 Dolores R. Piperno, The Origins of Plant Cultivation and Domestication in the New World Tropics (2011)

75 例えば以下の文献などにトウモロコシとテオシントの穂軸が載っている; Huai Wang et al., The origin of the naked grains of maize (2005), Figure 1

76 José de Jesús Sánchez González et al., Ecogeography of teosinte (2018), Fig 1

77 Jaime R. Pagán-Jiménez et al., Late ninth millennium B.P. use of Zea mays L. at Cubilán area, highland Ecuador, revealed by ancient starches (2016)

78 Robert J. Hard and John R. Roney, Way Down South: A Review of Evidence Pertaining to Early Agriculture in Mexico and Beyond (2011), Figure 1-4

79 Ed. C. Wayne Smith and Robert H. Dilday, Rice: Origin, History, Technology, and Production (2002), Figure 1.1.2

80 Duncan A. Vaughan et al., The evolving story of rice evolution (2008), pp403

81 Chaoyang Cheng et al., Polyphyletic Origin of Cultivated Rice: Based on the Interspersion Pattern of SINEs (2003)

82 Duncan A. Vaughan et al., Was Asian Rice (Oryza sativa) Domesticated More Than Once? (2008); Jeanmaire Molina et al., Molecular evidence for a single evolutionary origin of domesticated rice (2011)

83 Jae Young Choi et al., The Rice Paradox: Multiple Origins but Single Domestication in Asian Rice (2017)

84 Keyang He et al., Prehistoric evolution of the dualistic structure mixed rice and millet farming in China (2017), Figure 3

85 Yunfei Zheng, The Domestication Process and Domestication Rate in Rice: Spikelet Bases from the Lower Yangtze (2009), Fig. 4

86 臼田 (2010), pp144-145。コメ栽培の拡大と言語の広がりとを重ねて考察した研究もある; Dorian Q. Fuller, Rice and Language Across Asia: Crops, Movement, and Social Change (2011)

87 Duncan A. Vaughan et al., The evolving story of rice evolution (2008), Fig. 3(a)

88 Xuehui Huang et al., A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice (2012)

89 Fabio Silva et al., Modelling the Geographical Origin of Rice Cultivation in Asia Using the Rice Archaeological Database (2015), Fig 1

90 明石茂生, 気候変動と文明の崩壊 (2005), pp50

91 John Dodson et al., The Probable Critical Role of Early Holocene Monsoon Activity in Siting the Origins of Rice Agriculture in China (2021)

92 Dorian Q. Fuller et al., Consilience of Genetics and Archaeobotany in the Entangled History of Rice (2010), Fig. 1-2

93 Jianping Zhang et al., Early Mixed Farming of Millet and Rice 7800 Years Ago in the Middle Yellow River Region, China (2012)

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