間氷期の到来

 居住可能な大陸すべてに広がった結果、利用できるリソースの上限にぶつかりつつあったホモ・サピエンスにとって、この家畜化・栽培化の能力は新たな「画期」を切り開くためのツールとなった。だがそのツールが実際に使えるようになるためには、他にも超えなければならない条件があった。そのうちの1つは、皮肉なことにヒトの力だけでは手の届かない事象、すなわち気候変動であった。

 ホモ属が生きていたのが氷期と間氷期が交互に訪れる時代であったことは既に述べた(第3章)。基本的に前者は寒冷な、後者は温暖な気候によって特徴づけられるのだが、細かく見ていくと話はもう少し複雑。グリーンランドの氷河をボーリングして手に入れた氷柱を使った分析を見ると、氷期には何度も気温の急激な変動が生じていたのに対し、間氷期になると気温が全体的に上昇しただけでなく、変動の少ない安定した状態に移ったことが分かる(22)。

 寒冷な気候より温暖な方が農業に向いているのは確かだが、たとえ氷期であっても低緯度地域なら十分に農耕を手掛けられるだけの暖かさは存在したと言われている(23)。にもかかわらず、ホモ・サピエンスたちはアフリカを出た後も数万年にわたって狩猟採集にこだわり続けた。彼らの居住地の中にはもちろん寒冷な北欧やベーリンジアもあったが、一方で低緯度の東南アジアやメソアメリカ、アマゾンなども含まれていたはずだ。そうした温暖な地域でも農業が始まらなかったであれば、実は農業に必要なのは気温の上昇よりも安定の方だったのではないかとの考えが出てきた。

 なぜ気候の安定が重要だったのか。農業は、生産性は高いが種類は限定的なリソースに労働を集約させる生業の手法だ。コムギが効果的なカロリー源であれば、できるだけコムギを大量生産する。結果として多様性に欠ける生態系が出来上がるが、そこから得られるエネルギーは最大化され、多くのヒトを養うことができる。一方、狩猟採集は生産効率の低いものも含めたより多様な生態系に頼るため、得られるエネルギーの総量は農業より低い。だが気候変動が激しい場合、特定の作物に頼る農業はその作物が不作になれば壊滅的な打撃を受けるのに対し、一部の収穫が減っても他の収穫で補う余地のある狩猟採集生活の方はそれだけリスクが少なくて済む。更新世の世界では「少量ではあるが、安定的に食料を確保することができる」(24)狩猟採集の方が適応的な生存戦略だったのだ。

 逆に気候が安定すれば生産性の高い農業の方がより適応的になる。実際、農業の始まりを見ると、その地域こそ世界各地に広く分散している一方、時期は気候が安定した2000年ほど後で一致している、という説がある。レヴァントでのコムギ、中国でのコメ、メソアメリカでのトウモロコシ、アンデス地方のカボチャ栽培の痕跡がいずれも1万~9000年ほど前に遡るのがその証拠だ。この4地域はそれぞれ独自に植物の栽培化や動物の家畜化を進めており、農業生活を発展させた時期は古いところで9500年前(中国)、新しくても5500年前(メソアメリカとアンデス)と、それ以前の狩猟採集時代の長さに比べるとかなり似通ったタイミングで農業へと移行している(25)。

 具体的には、シリア北部での遺跡から出土した植物の残骸を調べた研究がある。更新世末期の地層からはライムギや氾濫原で見つかるスイバ、タデなどが主に出土するのに対し、完新世に入るとオオムギやエンマーコムギが中心になるそうで、更新世には植物が信頼できる生産手段にならなかったのだとこの研究は主張している(26)。シリア北部では安定した気候条件の到来によってようやく持続可能な農業が確立され、それが様々な遺跡に痕跡を残すようになった。

 乾燥し、大気中の二酸化炭素が少なく、そして気候変動が激しかった氷期と異なり、間氷期になると農業はもはや義務と化していた、と主張する研究者さえいる。それによると、まずは植物の採集を強める取り組みが先行。やがて農業へと進化し、さらに集約化が進んで生産力を高めていった。より効率的に土地を利用できる社会は、周囲のそうでない社会とのグループ間競争で優位に立ち、結局は農業に取り組む社会が地球上に広まっていったとの考えだ(27)。もちろん農業が広まるうえでは様々な障害もあったが、それらはせいぜい伝播速度の違いをもたらしただけで、最終的には農業社会が狩猟採集社会を駆逐していったという。

 ただ、更新世(氷期)から完新世(間氷期)への移行自体は決してスムーズにいったわけではない。具体的にはいったん温暖化が進んだ後に「寒の戻り」があり、それから再び温暖化と安定した気候が訪れたという流れがあった。前者はベーリング・アレレード温暖期、後者はヤンガードリアス期と呼ばれる(28)。

 氷期からベーリング・アレレード期への移行はおよそ1万4690年前頃に生じた(29)。この時期にグリーンランドでは短期間だったが完新世とほとんど同じ水準まで気温が上昇し(30)、そうした気候の変化が例えばインドのモンスーンにも変化を及ぼしていたとの研究もある(31)。だがこの温暖化は長続きせず、早いところでは1万3100~1万2900年前には寒冷な気候が戻ってきた(32)。このヤンガードリアス期は1万1700年前まで続き(33)、そこからようやく温暖な完新世が始まった。

 なぜこのような「寒の戻り」が生じたかについては色々と説がある。以前から有力とされていた説の一つが、現在のカナダ中央部にかつて存在したアガシ湖と関連付けたもの。間氷期に入り、北アメリカ大陸北部にあった氷河が溶け、この巨大湖にたまっていた淡水がセント・ローレンス河を通って北大西洋に(34)、あるいはマッケンジー河を通って北極海に流れ込むようになった結果(35)、このような気候変動をもたらしたとの考えだ。実際、この湖が急激に水量を減らした証拠があるとする研究者もいる(36)。

 ただしそうした主張に反対し、湖が決壊したことを示す明確な場所と時間を示す地形の特徴は存在しないと指摘する研究者もいる(37)。代わって最近、注目を集めているのは火山活動の活発化。ドイツにあるカルデラ湖、ラーハー湖の噴火が最初の引き金となって寒冷化が起きたという説(38)、テキサス州の洞窟にある堆積物を分析した結果、この時期に断続的に火山噴出物が堆積していたとする説などが出てきている(39)。またグリーンランドと南極の氷床コアにある硫酸塩と硫黄を調べたところ、紀元後に起きたどんな火山活動よりも多くのエアロゾルを噴出した火山活動がヤンガードリアス期の直前に発生していたことも分かっている(40)。

 何が原因であったにせよ、ヤンガードリアス期という「寒の戻り」はヒトの行動にも影響を及ぼした。第3章でも述べたようにホモ・サピエンスは更新世末期から植物食へのシフトを進めており、農業の開始はさらにその傾向を強める結果をもたらした。しかし更新世末から完新世初期にかけての不安定な以降は、その遷移の歩みをとてもゆっくりしたものにしていた。



22 North Greenland Ice Core Project members, High-resolution record of Northern Hemisphere climate extending into the last interglacial period (2004)

23 中川毅, 人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか (2017), pp188

24 中川毅 (2017), pp200

25 Joan Feynman and Alexander Ruzmaikin, Climate Stability and the Development of Agricultural Societies (2007)

26 George Willcox et al., Late Pleistocene and early Holocene climate and the beginnings of cultivation in northern Syria (2008)

27 Peter J. Richerson et al., Was Agriculture Impossible during the Pleistocene but Mandatory during the Holocene? A Climate Change Hypothesis (2017)。なお経済学者の中にはまったく逆に、気候が不安定化したからこそ貯蔵可能な農業へのシフトが進んだと主張する向きもある; Andrea Matranga, The Ant and the Grasshopper: Seasonality and the Invention of Agriculture (2024)

28 Wim Z. Hoek, Encyclopedia of Paleoclimatology and Ancient Environments (2009), pp100-103, 993-996

29 S. Olander Rasmussen et al., A new Greenland ice core chronology for the last glacial termination (2006)

30 Daniel E. Platt et al., Mapping Post-Glacial expansions: The Peopling of Southwest Asia (2017), Figure 5

31 Mahjoor Ahmad Lone et al., Speleothem based 1000-year high resolution record of Indian monsoon variability during the last deglaciation (2014)

32 Francesco Muschitiello and Barbara Wohlfarth, Time-transgressive environmental shifts across Northern Europe at the onset of the Younger Dryas (2015)

33 Rasmussen et al. (2006)

34 Brandon Katz et al., Constraints on Lake Agassiz discharge through the late-glacial Champlain Sea (St. Lawrence Lowlands, Canada) using salinity proxies and an estuarine circulation model (2011)

35 Timothy G. Fisher et al., Preboreal oscillation caused by a glacial Lake Agassiz flood (2002)

36 Michael Brown, Massive ancient lake across Prairies emptied quickly enough to set off an ice age, study suggests(https://www.ualberta.ca/folio/2021/08/massive-ancient-lake-across-prairies-emptied-quickly-enough-to-set-off-an-ice-age-study-suggests.html、2024年3月14日確認)

37 Wallace S. Broecker et al., Putting the Younger Dryas cold event into context (2010)

38 James U. L. Baldini et al., Evaluating the link between the sulfur-rich Laacher See volcanic eruption and the Younger Dryas climate anomaly (2018)

39 N. Sun et al., Volcanic origin for Younger Dryas geochemical anomalies ca. 12,900 cal B.P. (2020)

40 Peter M. Abbott et al., Volcanic climate forcing preceding the inception of the Younger Dryas: Implications for tracing the Laacher See eruption (2021)

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