第4章 延長された表現型
ギンギツネ、オオカミ
1948年、第二次世界大戦に勝利したばかりのソヴィエト連邦で、1人の男がモスクワの毛皮育種中央研究所の毛皮動物育種部門責任者の地位を失った。当時、ソヴィエトで正統とされていたルイセンコ学説に彼が反対し、ダーウィンやメンデルの学説を支持していたのがその理由だった。スターリン時代のソ連における異様な空気を示す一例だが、彼はなお西側で受け入れられている学説を捨てず、動物生理学の研究をするという口実の下に遺伝についての研究を続けた。1950年代に入るとスターリンの死もあってルイセンコ学説は力を失い、男はノヴォシビルスクに移ってソヴィエト科学アカデミーのシベリア部門設立に貢献することができるようになった。1959年、彼は同部門の細胞学遺伝学研究所の所長となり、1985年に死去するまでその職務を務めた。男の名はドミトリ・ベリャーエフという(01)。
ベリャーエフの名が広く知られるようになったのは、彼が行ったギンギツネの家畜化実験のおかげだ。動物の家畜化はヒトが従順な個体を選ぶことで進んだとの仮説を立てたベリャーエフは、長期にわたるギンギツネの交配を行うことでその仮説を立証しようとした。30匹のオスと100匹のメスから実験を始めた彼は、個体のうちヒトに従順なもののみを残して交配させるという手順をひたすら繰り返した。すると驚くべきことに8~10世代もすると家畜化されたイヌに見られるのと同じく顔に斑点(星)を持つ個体が登場。続いて耳が垂れるようになり、15~20世代もすると尻尾や脚が短いものも現れた。さらに繁殖期間は長くなり、骨格などオスとメスの個体差も縮小(02)。性格のみで選んだのに、それが家畜らしい外見や行動の違いにまでつながったわけだ。
キツネの家畜化実験はベリャーエフ死後も、さらにはソヴィエト崩壊後も続けられた。今ではこの話は様々な形で報道され(03)、多くの人が知るようになっている。動画サイトで実際に家畜のような挙動を見せるキツネの姿を確認することも可能だ(04)。さらにこの実験で現れたキツネの身体的行動的特徴がヒトにも似ていることから、ヒトもまた家畜化された(自ら家畜化した)動物ではないかという議論も起きている(05)。
自己家畜化を巡る議論の正否は後にまた触れるとして、他の動物の家畜化、あるいは植物であれば栽培化という手法は、ホモ・サピエンスを新たな歴史に導いた。ヒトはそれ以前までの、目の前にあるものを収奪する狩猟採集という方法とは異なる、新たなリソースの活用法を見出していったのだ。3万3000~2万年ほど前まで続いた最終氷期極大期に、真っ先切ってそういう関係をヒトとの間で築き上げたのが、オオカミを祖先種とするイヌだ。
オオカミは、南極以外の地球上の大半に生息域を広げたホモ属を除くと、陸生哺乳類の中でも最も広範囲に分布している生き物だ(06)。かつては北アメリカの北緯15度以北、ユーラシアでは北緯12度以北に住んでいたが、西欧やメキシコ、米国の大半、日本列島などでは絶滅してしまい、今ではかつての生息域の3分の1ほどを失っている。それでも今なおユーラシアと北アメリカの様々な気候帯に暮らしており、その個体数は世界全体で20万~25万頭とかなりの数に上る。そのため国際自然保護連合(IUCN)が作成しているレッドリストでも「低懸念」の範疇に入っている(07)。
オオカミはホモ属同様、動物を狩って食糧とすることを主な生存戦略として採用している種だ。群れをなして狩猟を行うあたりもヒトと似通っており、つまり前章の最後の方で紹介した肉食動物たち同様、同じリソースを巡ってヒトと争い合う関係にあったと思われる。そんなオオカミが家畜化されたきっかけについて、最近よく取り上げられるのが「オオカミが自己家畜化した」という説(08)。ヒトが残した大型動物の死骸を一部のオオカミが漁るようになったのをきっかけにオオカミの方からヒトに接近し、そこから両者が互いに協力関係を築き上げることで家畜化が始まった、というのがよく見かける説明である(09)。
こうした議論が増えてきた背景には、イヌの家畜化時期がかなり古くまで遡るという研究が増えてきたことがある。例えばアルタイ山脈のラズボイニチャ洞窟から発見された3万3000年前のイヌ科の骨は、1000年前にグリーンランドで家畜化されていたイヌのものと最もよく似ており、従ってオオカミではなく家畜化された初期のイヌだとする研究がある(10)。欧州で発見された古いイヌのゲノム解析を通じ、イヌが家畜化されたのは今から4万~2万年前という、まさに最終氷期極大期であったとする研究(11)、あるいは2万8500年前のイヌ科動物の骨を分析した結果、オオカミとは異なり骨をより多く食べていた痕跡があったとの研究もあり、家畜として余った食糧を消費していたのではないかと見られている(12)。
これだけ古い時期にオオカミが既に家畜化されていたことを説明する仮説として提示されているのが、自己家畜化を含むイヌの2段階家畜化説だ。まずはオオカミの中でも攻撃性や恐怖心の少ない個体がヒトに接近して彼らが残したゴミを漁る。その後でヒトがこれら原始のイヌの交配に取り掛かり、品種改良を進めて家畜化した(13)。狩猟採集民が同じリソースを巡るライバルであるオオカミを積極的に家畜化するメリットは考えづらいのだから、むしろオオカミ側から接近してきたと解釈する方が辻褄が合う、という理屈だろう。
ただしこの説に対しては厳しい批判もある。長年オオカミを研究してきたデヴィッド・メックは、他の動物同様にオオカミはヒトを極めて恐れており、ヒトが積極的に餌をやらない限り自ら近づくことは考えにくいと指摘。家畜化はヒトを恐れない子供のオオカミをホモ・サピエンスが巣からさらってきて育てたのがきっかけだとの見方を示している(14)。狩猟採集を行っていたヒトがオオカミの子供をさらった理由は、狩猟や自分たちのリソースを守るのを手伝わせるため、居住地のゴミを処理させるため、非常食とするためなどに加え、ペットとして飼った例もあるのではと彼は見ている。
オーストラリアのアボリジニと放し飼いにされているイヌであるディンゴの関係が、オオカミの家畜化モデルになるとの研究もある(15)。ヒトに育てられたオオカミの子供は成熟するとヒト居住地の近くに巣を作り、同じようにヒトに慣れているオオカミたちとの間で交配する頻度が高まった。その結果としてベリャーエフの実験のように従順な個体の交配が進んだとの説だ。他にもイヌは人為交配によって作られたのであり、決して自己家畜化したとは言えないとする主張は存在する(16)。
自己家畜化説に対する批判の中には、そもそも狩猟採集社会でオオカミほど大きな動物が生きていけるほど大量のゴミが出てくることはあり得ない、というものもある(17)。これについては、ヒトの肝臓が持つタンパク質代謝能力の制限のためにヒトは赤身肉だけでは生きていけず、特に獲物の脂肪が少なくなる冬場にはヒトが代謝できずに捨てた肉をオオカミが食べたのではないかという反論もある(18)。
結局のところ、オオカミがどのようにしてイヌになっていったかについて定まった説はない。そもそもイヌの家畜化が最終氷期極大期、つまり農業の開始以前に遡るという見解ですら、考古学者の間では同意する者が多いものの異論もある(19)。イヌとオオカミのゲノムを解析したところ、イヌにはデンプンの消化に重要な役割を果たす遺伝子が存在しており、そこからイヌの家畜化においては農業が重要な役目を果たしたとする主張がその例だ(20)。それでも最近の研究から、イヌがヒトの手によって家畜化された最古の生物であることはほぼ通説となりつつある。
遺伝子によって作られる生物個体の形質を「表現型」と呼ぶ。単なる物理的な特徴だけではなく、生物個体の行動まで含んだ概念だが、そうした生物の行動は時に他の生物や環境まで変えてしまう。ビーバーが作るダムはその典型例だが、リチャード・ドーキンスはそういった、ある生物が他の生物にまで及ぼす影響を「延長された表現型」(21)と呼んだ。ホモ・サピエンスはまだ氷期が続いている間に、そうした延長された表現型の一形態として、他の動物を家畜化(植物であれば栽培化)する能力を手に入れたと思われる。
01 Lyudmila N. Trut, Early Canid Domestication: The Farm-Fox Experiment (1999), pp161-162
02 Trut (1999), pp164-167
03 例えばScientific Americanに掲載されたJason G. Goldman, Man's new best friend? A forgotten Russian experiment in fox domestication (2010)や、National Geographicに載ったEvan Ratliff, Taming the Wild (2011)など
04 https://www.youtube.com/watch?v=yx2P5fHFO2w(2024年3月8日確認)など
05 Richard Wrangham, The Goodness Paradox: The Strange Relationship Between Virtue and Violence in Human Evolution (2019); Brian Hare and Vanessa Woods, Survival of the Friendliest: Understanding Our Origins and Rediscovering Our Common Humanity (2020)など
06 L. David Mech and Luigi Boitani, Wolves: Behavior, Ecology, and Conservation (2010), xv
07 Red List: Grey Wolf(https://www.iucnredlist.org/species/3746/247624660、2024年3月9日)
08 Raymond Coppinger and Lorna Coppinger, Dogs: A New Understanding of Canine Origin, Behavior and Evolution (2002); Bryan Sykes, Once a Wolf: The Science Behind Our Dogs' Astonishing Genetic Evolution (2019)など
09 Adam H. Freedman and Robert K. Wayne, Deciphering the Origin of Dogs: From Fossils to Genomes (2017)
10 Nikolai D. Ovodov et al., A 33,000-Year-Old Incipient Dog from the Altai Mountains of Siberia: Evidence of the Earliest Domestication Disrupted by the Last Glacial Maximum (2011)
11 Laura R. Botigué et al., Ancient European dog genomes reveal continuity since the Early Neolithic (2017)
12 Kari A. Prassack et al., Dental microwear as a behavioral proxy for distinguishing between canids at the Upper Paleolithic (Gravettian) site of Předmostí, Czech Republic (2020)
13 Brian Hare et al., The self-domestication hypothesis: evolution of bonobo psychology is due to selection against aggression (2012)
14 Mech, An assessment of current wolf Canis lupus domestication hypotheses based on wolf ecology and behaviour (2021)
15 Adam Brumm et al., The human-initiated model of wolf domestication – An expansion based on human-dingo relations in Aboriginal Australia (2023)
16 Friederike Range and Sarah Marshall-Pescini, Comparing wolves and dogs: current status and implications for human ‘self-domestication’ (2022)
17 Karen D. Lupo, Hounds follow those who feed them: What can the ethnographic record of hunter-gatherers reveal about early human-canid partnerships? (2019)
18 Maria Lahtinen et al., Excess protein enabled dog domestication during severe Ice Age winters (2021)
19 Greger Larson and Daniel G. Bradley, How Much Is That in Dog Years? The Advent of Canine Population Genomics (2014)
20 Erik Axelsson et al., The genomic signature of dog domestication reveals adaptation to a starch-rich diet (2013)
21 リチャード・ドーキンス, 延長された表現型: 自然淘汰の単位としての遺伝子 (1987)
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