アフリカから世界へ

 かつてはアフリカに生息していたホモ・サピエンスが、最終氷期のさなかに世界中に広まって現代の人間社会を作り上げたという説が広く受け入れられるようになったのは、実は割と最近の話だ。このアフリカ単一起源説、より正確に言えば「最近のアフリカ起源説」を裏付けた最も大きな証拠はゲノムの分子系統解析であり、特に1987年に発表されたいわゆる「ミトコンドリアイブ」に関する論文が、その大きなきっかけとなった(29)。

 真核生物の細胞内組織であるミトコンドリアは、元は独立した真正細菌(アルファプロテオバクテリア)の一種であったが、何らかのきっかけで真核生物と細胞内共生を始め、酸素呼吸の機能を担うようになった(30)。ミトコンドリア内にあったDNAは長い共生を経て次第に核の中のDNAに取り込まれていったが、今でもいくらかのDNAがミトコンドリアにとどまっている。

 DNAなどの分子構造の中でも遺伝子として機能していない部分は、世代を経るに従って突然変異が蓄積していく。そうした変異の内容を調べれば、どのように生物が分岐しながら進化してきたかをたどることができる。加えてミトコンドリアは細胞内に大量に存在しており、昔のように分子系統解析技術が未発達だった時期であってもそのDNAを集めて分析するのは容易だった。そして生殖細胞のミトコンドリアは母方からのみ伝わるため、ミトコンドリアDNAを調べることで母方の先祖をたどることができた。ミトコンドリアイブ論文を記した遺伝学者のレベッカ・キャンらはこの手法を使い、現代人がどこから来たのかを調べた。

 彼女らは147人分のミトコンドリアDNAを分析。その結果、現代人の先祖はおよそ20万年前にアフリカに暮らしていたと思われる女性にまで遡ることが判明した。その後は父親から息子へと遺伝するY染色体を使って男系をたどる研究も登場し(31)、遡ることができる時期については色々な見解が出てくるようになったが(32)、その時期は数万年からせいぜい十数万年前。いずれを取ってもホモ・エレクトゥスがアフリカを出た百数十万年前よりはずっと新しい時代であることは間違いなかった。

 一方、ゲノム解析技術の発展とそれを使った研究が広まった結果(33)、かつて存在したもう1つの仮説が葬り去られることになった。アフリカを出てユーラシア各地に広まったホモ属の子孫が各地で進化し現生人類になったという「多地域進化説」だ(34)。ゲノム解析ではなく化石を使った考古学的な調査が中心だった時代には、各地で見つかった古い化石こそその地域に住んでいる現生人類の祖先であるという見方が一定の支持を受けていたが、ゲノムという過去から受け継いできたデータがホモ・サピエンスのアフリカ出自を強く裏付けた結果、そうした考えは今では時代遅れとなっている。

 ただし、ゲノム解析が始まった当初は間違った解釈もあった。既に述べたようにホモ・サピエンスはネアンデルタール人やデニソワ人と交雑した形跡があり、そのゲノムも限定的ながら現生人類の中に残っているのだが、そうした事情が判明したのはネアンデルタール人のミトコンドリアではなく核ゲノムの解析が終わった後になって。それ以前は初期人類のミトコンドリアDNAに対するネアンデルタール人の寄与は見当たらないという研究(35)もあり、両者の交雑はほとんどなかったか極めて少なかったためネアンデルタール人の遺伝情報は途絶えてしまったと考える研究者も多かった(36)。

 ゲノム解析だけでは分からないこともある。古人類の人骨からゲノム情報を抽出する技術が確立する以前には現代人のゲノム情報を使って過去に遡る手法が一般的であり、その方法を活用すると例えばY染色体ではアフリカ人以外の集団の共通祖先が存在したのは5万5000~4万7000年前、ミトコンドリアDNAなら5万5000~4万5000年前に存在したことが分かる。こうしたデータのみから推測するのなら、我々の先祖がアフリカを出たのは6万~5万年前になりそうだ(37)。

 だがこれらのゲノム解析から分かるのは「今生きているホモ・サピエンスの先祖がいつアフリカを出たか」に限られる。現代にまで子孫を残さなかった他のホモ・サピエンスの一族がいて、彼らが一足先にアフリカを出ていたとしても、ゲノム解析では見つけられない。一応、シベリアのウスチ・イシムで発見された4万5000年前のホモ・サピエンスの人骨をゲノム解析したところ、5万8000~5万2000年前のネアンデルタール人との交雑が確認された(38)という事例もあるが、そうした証拠が数多く揃わない限り判断は困難。より早い時代の出アフリカがあったかどうかは昔ながらの化石を掘り出す方法で確認するしかなく、そして実際にそういう例を見つけたという研究が最近になって増えてきている。

 わかりやすい事例の1つがオーストラリア北部にあるマジェドベベ遺跡だ。それまでオーストラリアにヒトがやって来たのは古くても5万年ほど前だと推測されていたが(39)、この遺跡で新たに行われた発掘の結果、6万5000年前からヒトがいたことを示す石器や顔料が見つかったのだ(40)。他にもラオスのタン・パ・リン洞窟で見つかった下顎骨が最大7万年ほど前まで遡るとの研究や(41)、スマトラのリダ・アジェル洞窟から見つかったホモ・サピエンスの歯が7万3000~6万3000年前のものだという研究(42)もあり、特にユーラシア南岸沿いではゲノム解析からの推定より早い時期にホモ・サピエンスがアフリカを出ていたことを示す発見が増えているのだ。

 この件に関してはまだ議論が続いているのが実情。信頼性の高い放射性炭素年代測定でも6万年より以前は検出年代を超えているため古い時代の発掘結果については容易に信用できないとして、先行して別のグループがアフリカを出たとする二段階説に疑義を呈する向きもある(43)。ただ最近になって放射性炭素年代測定より古い時代まで検出できるウラン系同位体を使い、オーストラリア南東部のウィランドラ湖群地域で発見された人骨の時期が6万年ほど前まで遡る可能性が高いと指摘する研究も出ており(44)、二段階説を支持する研究も引き続き登場している。

 逆にゲノムの解析によって、考古学的証拠よりホモ・サピエンスの到来が早かったのではないかとの見方が広まってきたのがアメリカ大陸だ。ある研究によるとアメリカ原住民の先祖がユーラシア大陸のグループから分岐したのは2万2000~1万8100年前であり、さらにそこから現在のカナダ付近にあった氷河の南方で2つのグループに分岐したのが1万7500~1万4600年前だったという(45)。

 昔からアメリカで語られていたのは、クローヴィス文化の担い手たちが1万4000年前以降になってようやく氷河を抜けてアメリカ大陸に足を踏み入れたという説だ(46)。こちらは考古学的な証拠に基づく学説であり、アラスカにある1万4100年前の遺跡であるスワン・ポイントがこのクローヴィス文化のものであり、そこからホモ・サピエンスが氷河の南にあるクローヴィス(1万3050年前)やアンジック(1万2700~1万2600年前)へ移動してきたと考えられている。

 だがゲノム解析からの知見に加え、最近は南北アメリカでクローヴィスより古い可能性がある遺跡がいくつか報告されるようになっている。米テキサス州にある1万5500~1万3200年前の遺跡と見られるバターミルク・クリーク複合体(47)、同ペンシルベニア州の1万4500~1万4000年前と思われるメドークロフト・ロックシェルター遺跡(48)、そしてチリにある1万8500~1万4500年前まで遡ると見られるモンテ・ヴェルデ遺跡(49)などがその例。最近では1万7000年ほど前にホモ・サピエンスが太平洋岸に沿ってアメリカ大陸に広まっていたのではという説も出てきている。

 以上のように、ゲノム解析の手法が広まって以降も新たな発見や新説が唱えられ、ホモ・サピエンスがどのように世界に広まっていったかについての見解は目まぐるしく入れ替わっている。様々な最新技術が導入されている分野なればこその事態であり、ここに記したことも少したてば間違いだったと判明するかもしれない。だがそれ以前のホモ属がたどり着くことのできなかった地域に、ホモ・サピエンスが数万年程度の短い時間で一気に生息域を広げたのは、おそらく事実だと思われる。



29 Rebecca L. Cann et al., Mitochondrial DNA and human evolution (1987)

30 Matteo P. Ferla et al., New rRNA Gene-Based Phylogenies of the Alphaproteobacteria Provide Perspective on Major Groups, Mitochondrial Ancestry and Phylogenetic Instability (2013)

31 Peter A. Underhill et al., Y chromosome sequence variation and the history of human populations (2000)

32 例えばY染色体では15万6000~12万年前、ミトコンドリアDNAでは14万8000~9万9000年前まで遡るという研究がある; G. David Poznik et al., Sequencing Y Chromosomes Resolves Discrepancy in Time to Common Ancestor of Males versus Females (2013)

33 日本語に翻訳された一般向けの書物としては以下のものが代表例だろう; ブライアン・サイクス, イヴの七人の娘たち (2001)

34 Milford H. Wolpoff et al., Modern Homo Sapiens Origins: A General Theory of Hominid Evolution, Involving The Fossil Evidence From East Asia (1984)

35 David Serre et al., No Evidence of Neandertal mtDNA Contribution to Early Modern Humans (2004)

36 Elizabeth Pennisi, No Sex Please, We're Neandertals (2007)

37 篠田謙一, 人類の起源 (2009), pp112

38 Qiaomei Fu et al., Genome sequence of a 45,000-year-old modern human from western Siberia (2014)

39 Jane Balme, Of boats and string: The maritime colonisation of Australia (2013)

40 Chris Clarkson et al., Human occupation of northern Australia by 65,000 years ago (2027)

41 Laura Shackelford et al., Additional evidence for early modern human morphological diversity in Southeast Asia at Tam Pa Ling, Laos (2018)

42 Kira Westaway et al., An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago (2017)

43 篠田 (2009), pp114-115

44 Rainer Grün and Chris Stringer, Direct dating of human fossils and the ever-changing story of human evolution (2023)

45 J. Víctor Moreno-Mayar et al., Terminal Pleistocene Alaskan genome reveals first founding population of Native Americans (2018)

46 Jennifer Raff, Genomes Reveal Humanity’s Journey into the Americas(https://www.scientificamerican.com/article/genomes-reveal-humanitys-journey-into-the-americas/、2024年3月3日確認)

47 Michael R. Waters et al., The Buttermilk Creek Complex and the Origins of Clovis at the Debra L. Friedkin Site, Texas (2011)

48 J. M. Adovasio et al., The Meadowcroft Rockshelter Radiocarbon Chronology 1975-1990 (2017)

49 Tom D. Dillehay et al., New Archaeological Evidence for an Early Human Presence at Monte Verde, Chile (2015)。これらの遺跡に関する現時点での評価は以下の文献にまとめられている; Aurelio Marangoni et al., Homo sapiens in the Americas. Overview of the earliest human expansion in the New World (2014),

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