第3章 海と寒さの向こう

最終氷期の人類

 南アフリカのサバンナ。狩ったばかりのインパラを口にくわえたヒョウが、水場近くをゆっくりと歩いている。息が荒い。今ちょうどとどめを刺したばかりの獲物を、邪魔されない場所まで運んでじっくり味わおうとしているのだろうか。突然、ヒトの会話が聞こえてくる。ヒョウはすぐに目を見開いて足を止め、引きずっていた獲物をその場に落とすと振り返りもせずに一目散に逃げていく……。

 カナダのウェスタン大学の研究チームがアフリカで撮影した1万5000本にも及ぶビデオの中には、こうした映像が多数残されていた。撮影された映像は動画サイトにアップされており、ヒョウ以外にも多様な種類の動物が水場から逃げ出す様子が映されている(01)。キリン、ハイエナ、シマウマ、イボイノシシ、サイ、ゾウなどなど、いずれもヒトの日常会話が聞こえてくると、たとえ水を飲む前であっても踵を返し走り去っている。一方、ライオンのうなり声が流れた時のゾウの反応を映した動画を見ると(02)、ゾウは逃げ出す代わりに声に向かって威嚇するように前進してきており、時にはカメラを破壊してしまっている。

 研究チームが行ったこの実験では、ヒト、ライオンの声の他に、狩猟に関連する音(銃声や犬の吠え声)、鳥の鳴き声などを鳴らして野生動物の反応を見た。結果、動物はライオンよりもヒトの声を聞いたときの方が2倍の確率で逃げ出し、より早く水場を放棄する確率も40%高かった。95%の野生動物はライオンよりもヒトの声に反応して逃げるか、あるいはより早く水場を放棄した(03)。

 研究に当たった保全生物学者のリアーナ・ザネットは、サバンナの哺乳類コミュニティに蔓延するこの恐怖こそヒトが環境に与える影響を示す証拠だと話している。同じく研究チームの一員である保全生物学者のマイケル・クリンチーも「ヒトに対する恐怖は根深く、広く浸透している」と指摘(04)。野生動物にとってライオンよりも恐ろしい極めて致命的な超・捕食者、それがヒトである。

 ホモ属が狩猟と動物食へとシフトし始めて200万年。これだけ長期にわたってヒトによる狩猟という選択圧がかかれば、アフリカの動物たちがヒトに対する恐怖を遺伝子レベルまで刻み込んでいたとしても不思議ではない。逆に言えばヒトにとってもこの200万年の間に獲物の行動という環境が変わったことを意味している。この環境変化に対応するようにヒトもまた変わっていくのだが、その際に彼らが頼ったのがここまでSカーブを描いて大きくなった脳であった。


 今からおよそ258万年前、ホモ属が生まれたか生まれていないかの頃に、地球は更新世と呼ばれる時代に入った。この時代は氷河が大きく発達する氷期と、逆に両極や高山に氷河が後退する比較的温暖な間氷期が交互に訪れたのが特徴で、このサイクルは120万年ほど前にはおよそ4万年周期だったが、それ以降は10万年周期で生じている(05)。地球の公転軌道の離心率、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因がこうした周期的な変化をもたらしており、発見者である地球物理学者、ミルティン・ミランコビッチの名を取ってミランコビッチ・サイクルという名で呼ばれている(06)。

 そうした周期が繰り返される中、ホモ属は次第に進化していった。約11万5000年前、エーミアン間氷期と呼ばれた温暖な時代が終わり(07)、最終氷期が始まった時点で、世界に広がっていたホモ属は大きくは3つのグループに分かれていたと見られる。1つはアフリカのホモ・サピエンス。今のところアフリカのモロッコで見つかった31万5000年前の化石が最古のホモ・サピエンスの証拠であり、彼らはアフリカ大陸を舞台に現代人へと進化しつつあった(08)。

 2つ目のホモ属はネアンデルタール人だ。彼らの化石は欧州を中心にユーラシア西部で数多く発見されているが、それ以外に中央アジアやシベリアあたりからも痕跡が見つかっている(09)。古くはゲノム解析によってネアンデルタール人と関連があると判明した43万年前の化石がスペインで発見されている一方(10)、彼らが絶滅した時期については色々な意見があるものの大雑把に4万~3万年前の間と見られている(11)。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに比べて胴体は太くて四肢が短く(12)、そして脳のサイズが大きいといった特徴を持っていた(13)。

 3つ目はデニソワ人だ。彼らはほとんど化石が発見されておらず、小指の一部を使ったゲノム解析によってその存在が判明したことで知られている(14)。元々ネアンデルタール人と近縁だったようだが、いつ頃ネアンデルタール人と分岐したかについても様々な説が出ている状態で詳細はまだはっきりしていない(15)。ほとんど化石が見つかっていないために生息地は明確ではないが、現代人のゲノムに残っているデニソワ人のDNAを調べるとユーラシア東部から特にオセアニア地域で高い比率を示している(16)。また中国で発見された12万~10万年ほど前の化石がデニソワ人のものではないかとの説もある(17)。

 この3種以外にも辺境の地に生き残っていた他のホモ属もいた。有名なのは2003年にインドネシアのフローレス島で発見されたホモ・フローレシエンシスだろう。身長はたったの106センチ(18)、脳のサイズはアウストラロピテクスなどと大して変わらない417立方センチと(19)かなり小型のホモ属だったため、当初の報道では指輪物語に出てくる「ホビット」に例えられた。この化石は当初3万8000年~1万8000年前のものと思われていたが、後に調べなおしたところ10万~6万年前に生息していたことが分かった(20)。

 また2007年にフィリピンのルソン島で発掘され、2010年にホモ属であることが判明した化石が、2019年に新種に認定された。現代人的な特徴と、もっと原始的なアウストラロピテクスに似た特徴を併せ持つこの化石は、ホモ・ルゾネンシスと呼ばれている(21)。こちらも身長は120センチほどとかなり小柄だったようで(22)、当初は6万7000年~5万年前のものと推定されていた化石の年代が、最近の研究では約13万4000年前まで遡っている(23)。

 以上のような多様なホモ属がいただけではなく、それらの間で交雑が起きていたことも分かっている。2022年にノーベル生理学・医学賞を受賞した進化遺伝学者のスバンテ・ペーボは、ネアンデルタール人のゲノム復元に取り組んだことが評価されたのだが、その研究過程でネアンデルタール人とユーラシアのホモ・サピエンスとの間に交雑があったこと(24)、及びデニソワ人のゲノムが現代のメラネシアに住む人々に伝えられていることが判明した(25)。またデニソワ洞窟で発見された骨の中には、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の間に生まれた者が含まれていることもゲノム解析から確認されている(26)。

 以上のように、最終氷期が始まった当時のホモ属の状態は今とはかなり違っていた。その種類は今より多く、一方で生息地は現在より狭い範囲にとどまっていた。当然、人口もはるかに少なかっただろう。そしてそうした状況はかなり長く続いていたと見られる。前章でも述べたが、ホモ・エレクトゥスは100万年ほど前には南欧にまで到達し、ユーラシアの南半分に生息するようになっていた。そこから数回の氷期と間氷期のサイクルが発生し、ホモ属の中身は色々と入れ替わったが、複数のホモ属が各地に散らばっていたこと、そして彼らが生息している地域が基本的にアフリカ及びユーラシア南部であったことは変わらなかった。

 ところが最終氷期が終わり、完新世が始まった1万1700年前(27)、地球上を歩き回るホモ属の様子は激変していた。小人のようなホモ・フローレシエンシスからがっちりとした体格のネアンデルタール人まで様々な種類がいたはずのヒトは、今やたった1種類しか存在しなくなっていた。しかも彼らはかつてホモ属が一度も足を踏み入れたことのなかったユーラシア北部、オーストラリア、南北アメリカにまではびこるようになっていたのだ。何度もの氷期と間氷期のあいだほとんど広がらなかった生息域は、たった1回の氷期で急速に拡大し、そして完新世に入るとそこからは僅かにしか増えていない(28)。この新たなSカーブを描く画期をもたらしたのが、我らホモ・サピエンスだった。



01 https://www.youtube.com/watch?v=2b4qYXhOG50(2024年2月24日確認)

02 https://www.youtube.com/watch?v=duFdVEcaqCA(2024年2月24日確認)

03 Liana Y. Zanette et al., Fear of the human “super predator” pervades the South African savanna (2023)

04 Fear of human 'super predator' pervades the South African savanna(https://phys.org/news/2023-10-human-super-predator-pervades-south.html、2024年2月24日確認)

05 Yasuto Watanabe et al., Astronomical forcing shaped the timing of early Pleistocene glacial cycles (2023)

06 Christopher J. Campisano, Milankovitch Cycles, Paleoclimatic Change, and Hominin Evolution(https://www.nature.com/scitable/knowledge/library/milankovitch-cycles-paleoclimatic-change-and-hominin-evolution-68244581/、2024年2月25日)

07 NEEM community members, Eemian interglacial reconstructed from a Greenland folded ice core (2013)。この間氷期は、海底堆積物にある酸素同位体比率から過去の時代を区分する海洋酸素同位体サブステージ5eと基本的に同じ時代とされている; Nicholas J. Shackleton et al., Marine Isotope Substage 5e and the Eemian Interglacial (2000)

08 Jean-Jacques Hublin et al., New fossils from Jebel Irhoud, Morocco and the pan-African origin of Homo sapiens (2017)

09 Johannes Krause et al., Neandertals in Central Asia and Siberia (2007), Figure 1

10 Matthias Meyer et al., Nuclear DNA sequences from the Middle Pleistocene Sima de los Huesos hominins (2016)

11 Jordi Agustí and Xavier Rubio-Campillo, Were Neanderthals responsible for their own extinction? (2017)

12 Timothy D. Weaver, The meaning of Neandertal skeletal morphology (2009)

13 Hideki Amano et al., Virtual reconstruction of the Neanderthal Amud 1 cranium (2015)

14 Johannes Krause et al., The complete mitochondrial DNA genome of an unknown hominin from southern Siberia (2010)

15 例えば現代人と分岐したのが80万4000年前、ネアンデルタール人との分岐が64万年前といった例がある; David Reich et al., Genetic history of an archaic hominin group from Denisova Cave in Siberia (2010)

16 Sriram Sankararaman et al., The Combined Landscape of Denisovan and Neanderthal Ancestry in Present-Day Humans (2016), Figure 2A

17 Jane Qiu, How China is rewriting the book on human origins(https://www.nature.com/articles/535218a、2024年2月25日確認)

18 M. J. Morwood et al., Further evidence for small-bodied hominins from the Late Pleistocene of Flores, Indonesia (2005)

19 Dean Falk et al., The Brain of LB1, Homo floresiensis (2005)

20 Thomas Sutikna et al., Revised str vised stratigraphy and chr aphy and chronology for Homo flor onology for Homo floresiensis at esiensis at Liang Bua in Indonesia (2016)。もし当初の推測通りだったならホモ・フローレシエンシスがホモ・サピエンスと一緒に生息していた可能性があったが、新しい推測であればその可能性はほとんどない

21 Florent Detroit et al., A new species of Homo from the Late Pleistocene of the Philippines (2019)

22 Charlotte Stoddart, These bones belong to a new species of human(https://www.nature.com/articles/d41586-019-01150-5、2024年2月25日確認)

23 Rainer Grün and Chris Stringer, Direct dating of human fossils and the ever-changing story of human evolution (2023)

24 Richard E. Green et al., A Draft Sequence of the Neandertal Genome (2010)

25 David Reich et al., Genetic history of an archaic hominin group from Denisova Cave in Siberia (2010)

26 Viviane Slon et al., The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father (2018)

27 Mike Walker et al., Formal definition and dating of the GSSP (Global Stratotype Section and Point) for the base of the Holocene using the Greenland NGRIP ice core, and selected auxiliary records (2008)

28 最後に発見された大陸である南極には未だにヒトは定住しておらず、1959年に採択された南極条約で領土主権などの主張は凍結されている; 外務省, 南極条約(定訳)

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