二段ロケット

 そう、ホモ属は新たなニッチに進出しただけでなく、新たな大陸へも広がっていった。既に今から180万年ほど前に、彼らはアフリカを出てジョージアに到達しており(69)、さらに中国へ、氷期にはユーラシア大陸と陸続きになっていた東南アジアの島嶼部(スンダランド)へ、そして欧州へと、ユーラシアの各地にその足跡を記していった(70)。ホモ属が揺籃の地であるアフリカを出たのは、これが初めてだった。

 近い親戚であるチンパンジーやゴリラがずっとアフリカで暮らしているのに、なぜホモ属は生息域を広げていくことができたのか。これもまた動物食が原因だとの説がある。植物はしばしば動物から食べられることに抵抗するため、独特の物理的あるいは化学的な防御機構を備えるようになる。そのため草食動物も、その地域の植物が持つ防御機構に適応した能力を進化させる。ただしそうした能力はいわば地域限定であり、他の地域に進出するためには今度はその新たな地域の植物が持つ防御機構に対して適応しなければならない。このため植物食の動物は局所的にしか生息しない傾向を持つ。

 だが肉食動物の場合、獲物の組織を消化するうえで特定の種に合わせて適応する必要性はあまりない。割と自由に獲物を選ぶことができるため、肉食動物は生息域が地理的に分散するという傾向がある(71)。ヒトとオオカミという、いずれも様々な動物を狩る捕食者が揃って広範囲に生息しているのを見ても、肉食動物にそうした傾向があるのは確かだろう(72)。初期ホモ属も動物食というニッチに進出したことで、それまでの縛りを脱しアフリカ以外の大陸へと踏み込むことができるようになった。

 ホモ・エレクトゥスが大型動物を積極的に狩っていたことも、彼らの生息域の広がりに影響したと見られる(73)。動物食から効率よく栄養を得るには、大型動物を主に狩猟するのが望ましい。消費するエネルギーに比べ狩猟が成功した時に手に入れられるエネルギーの多さ(特に脂肪)において有利だったうえに、数だけではなく体重まで含めるなら獲物としての重要性がより大きかったためだ(74)。当然ながらホモ属が大型動物を追って新天地に進出したケースもあったことだろう。

 実際にそうだったと指摘されているのが、90万年ほど前に欧州に進出したホモ属の事例だ。その少し前からアフリカでは乾燥化が進み、草食動物にとって生息環境が厳しくなっていた(75)。一方でこの気候変動は欧州のドナウ河流域やポー河流域をサバンナのような植生へと変化させており、アフリカを脱出した大型動物(特にゾウ)がこのルートを通って南欧へと移動していった。そしてホモ属もまたこの獲物を追って欧州まで進出した、というシナリオが唱えられている(76)。

 ただしホモ・エレクトゥスが進出できる範囲には限界があったようだ。彼らの化石が見つかるのは、東では中国の華北、西だとスペインやイタリアといった地中海北岸あたりが北限で、基本的にユーラシアの南部にのみ暮らしていた様子がうかがえる(77)。上に述べたように暑いアフリカでの持久狩猟に適応した彼らは、毛皮の喪失や発汗によって体を冷却させる能力は大いに向上させたものの、逆に一定以上の寒さに耐えることができなかったと見られる。少なくともホモ・エレクトゥスの段階において、彼らは動物食というニッチを上手く活用することはできたものの、多様な環境に適応できるような柔軟性はあまり持ち合わせていなかったようだ(78)。


 さらに彼らを脅かす新たな存在が後を追うように姿を現した。それは他のホモ属、特に我々ホモ・サピエンスの先祖にあたるホモ・ハイデルベルゲンシスだ。実はホモ・エレクトゥスで進んだと見られる脳の肥大化の流れが、その後に登場したホモ・ハイデルベルゲンシスでもう一段階進んだという説がある。つまり二段ロケットだ。

 古生物学者のフィリップ・ジンジャーリッチは、およそ320万年前から最近までの233の化石を分析し、どのように脳のサイズが変化したかを調べている(79)。まず単純にX軸に脳サイズ(自然対数)、Y軸に時間を取って近似線を引いた図を見ると、脳のサイズは右肩上がりに直線を描いて増えていたことが分かる。ところがデータを10万年単位でまとめ、それらをつないでいくと異なる景色が見えてくる。200万年前までサイズがあまり変わらない安定軌道を、200万年前から150万年前まで急速な増加傾向を示すところは上に指摘したのと同じだが、その後70万年前まではまた安定期が訪れ、そこから再び増加が始まるというグラフが浮かび上がってくるのだ(80)。

 後者の図の方が正しいのだとしたら、ホモ属の登場によってもたらされた画期には1つではなく2つのSカーブが存在していたという結論になる。我々の先祖は単発ロケットではなく二段ロケットを使って脳を大きくしてきたわけで、ホモ・ハイデルベルゲンシスが登場してきたあたりで二段目に点火され、2度目の急成長を達成していたことになる(81)。

 実はこの2度目の脳肥大化の前に、我々の先祖の数が急速に減少するボトルネックが発生していたというゲノム解析に基づく研究がある(82)。およそ93万年から81万3000年前に発生したこのボトルネックの際、ヒトの先祖の繁殖可能な個体数はたった1300人にまで落ち込んだ。しかしこのボトルネックは逆に新たな進化をもたらすきっかけになったようで、研究者の1人はこれをきっかけに新たな種であるホモ・ハイデルベルゲンシスが誕生し、さらにそこからネアンデルタール人とホモ・サピエンスが登場するに至ったと見ている(83)。

 ホモ・ハイデルベルゲンシスがどこからやって来たかについては色々と議論になっている。最も古い化石と見られるのはエチオピアで発見された約85万年前のものであり、そこから推測するならアフリカで生まれてユーラシアに広がったと考えられる(84)。一方、5000以上の歯を分析した研究では、ユーラシアとアフリカの双方で進化が進んだとの説を唱えている(85)。

 化石の数自体が限られていること、特に地域によってはまだ発掘自体が少ないこと、最近になって考古学関連の技術が大幅に進展を見せたとはいえ年代推定などにはどうしても誤差がつきまとうことなど、古い時代については明確にならないことが存在する。それに後期ホモ・エレクトゥスからホモ・ハイデルベルゲンシスまでの脳サイズの増加率(20%増)は、アウストラロピテクスから初期ホモ属までの増加率(41%)に比べても小さく、二段ロケットが実在していたとしても二段目の影響は小ぶりにとどまっていたとも考えられる。

 結局のところ、このホモ・ハイデルベルゲンシスから始まった脳の肥大化がヒトの歴史における画期においてどれだけ重要だったかを知るためには、もっとこの時代に関するデータが出そろうのを待たなければならないだろう。現状、彼らのもたらした画期が個別に取り上げるに足るだけの変化をヒトにもたらしたのかどうかを判断するには、あまりに材料が足りなすぎる。

 現時点で言えるのは、最初の画期を生み出したホモ・エレクトゥスが、やがて他のホモ属に取って代わられたことくらいだ。そうやって繰り返された主役交代劇を経て一番後に登場した最も新しいホモ属、すなわちホモ・サピエンスは、やがて巨大化させた脳の能を生かし新たなSカーブを描き始めた。



69 G. Philip Rightmire et al., Skull 5 from Dmanisi: Descriptive anatomy, comparative studies, and evolutionary significance (2017)

70 ホモ・エレクトゥスがユーラシア各地にいつ頃到達したかについては諸説あり、例えばインドネシアについては166万年ほど前に到達したという説と、100万年前よりも後にやってきたという説がある; Richard G Klein, Hominin dispersals in the Old World (2005), pp97

71 Robert A. Foley, The Evolutionary Consequences of Increased Carnivory in Hominids (2001)

72 A. Clark Arcadi, Species resilience in Pleistocene hominids that traveled far and ate widely: An analogy to the wolf-like canids (2006)

73 例えばレヴァントで40万年前にゾウが絶滅したのも、ホモ属による狩猟が背景にあったとの説がある; Ben-Dor et al., Man the Fat Hunter: The Demise of Homo erectus and the Emergence of a New Hominin Lineage in the Middle Pleistocene (ca. 400 kyr) Levant (2011)

74 Ben-Dor and Ran Barkai, Supersize does matter: the importance of large prey in Palaeolithic subsistence and a method for measuring its significance in zooarchaeological assemblages (2021)

75 Giovanni Muttoni et al., Human migration into Europe during the late Early Pleistocene climate transition (2010), pp86

76 Giovanni Muttoni et al., Migration of hominins with megaherbivores into Europe via the Danube-Po Gateway in the late Matuyama climate revolution (2014), Fig. 4

77 Adam P. Van Arsdale, Homo erectus - A Bigger, Smarter, Faster Hominin Lineage (2013), Figure 1(https://www.nature.com/scitable/knowledge/library/homo-erectus-a-bigger-smarter-97879043/、2024年2月25日確認); Eudald Carbonell et al., The first hominin of Europe (2008)

78 Ben-Dor et al. (2021)

79 Philip D. Gingerich, Pattern and rate in the Plio-Pleistocene evolution of modern human brain size (2022)

80 Gingerich (2022), Figure 1, 3

81 Jean-Jacques Hublin, The origin of Neandertals (2009), Fig. 1。この論文ではホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシスを別物として扱っているが、この2つの種は実際には同一の種だとの考えもある; Xijun Ni et al., Massive cranium from Harbin in northeastern China establishes a new Middle Pleistocene human lineage (2021)

82 Wangjie Hu et al., Genomic inference of a severe human bottleneck during the Early to Middle Pleistocene transition (2023)

83 Population collapse almost wiped out human ancestors, say scientists(https://www.theguardian.com/science/2023/aug/31/population-collapse-almost-wiped-out-human-ancestors-say-scientists、2024年2月23日確認)

84 Antonio Profico et al., Filling the gap. Human cranial remains from Gombore II (Melka Kunture, Ethiopia; ca. 850 ka) and the origin of Homo heidelbergensis (2016), pp55

85 M. Martinón-Torres et al., Dental evidence on the hominin dispersals during the Pleistocene (2007)

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