肥大化する脳

 新たなニッチを開拓し、強度の高い労働を厭わずに実行して、類人猿よりずっと多くのエネルギーを入手するという新しい生存戦略を手に入れたホモ属。彼らが始めたイノベーションがもたらした成果が脳の肥大化であり、そのペースは第1章で紹介したロジスティック方程式、つまりSカーブを描いた。

 類人猿の脳のサイズはもちろん種によって異なるが、大雑把にチンパンジー程度のサイズが一般的だったと思われる。成人したチンパンジーの脳サイズはオスで400グラム前後、メスで370グラム前後と見られるが(54)、例えば900万~700万年ほど前に生息していたオレオピテクスという類人猿も脳サイズは276~529立方センチ(脳の重量はおよそ1立方センチ=1グラム)ほどで、チンパンジーと似た水準にあった(55)。また1000万年ほど前にいたルダピテクスも、体のサイズを踏まえて考えれば現存のチンパンジーが持つ脳のサイズの範囲に収まると言われている(56)。

 アウストラロピテクスの脳サイズについては、成人で平均442立方センチ(57)、あるいは466立方センチ(58)といった数字が提示されている。チンパンジーと似た水準、もしくはそれより少し大きくなった程度、といったところだろう。アウストラロピテクスとチンパンジーの共通先祖が枝分かれしたのは少なくとも700万年前まで遡ると見られており(59)、つまりホモ属が現れるまでの500万年近く、脳サイズの増加は微々たるものにとどまっていたことになる。

 ところがホモ属の登場はこの流れを変えた。初期のホモ属(ホモ・ハビリスなど)の脳サイズは平均して658立方センチとアウストラロピテクスに比べて1.41倍に、初期のホモ・エレクトゥスは758立方センチと1.63倍にまで急増したのだ(60)。さらに中国や東南アジアで見つかった後期のホモ・エレクトゥスになるとサイズは1000立方センチとアウストラロピテクスの倍以上になり(61)、続くホモ・ハイデルベルゲンシスは平均1200立方センチ(62)、そしてホモ・ネアンデルタレンシス(ネアンデルタール人)の時に1500立方センチ強というピークに達したと言われている(63)。

 こうした変化をまとめたある研究によると、アウストラロピテクスまではゆっくりとしたペースで増加していた脳容量が、およそ200万年前のホモ・エレクトゥスの頃から急激に増加した。だが150万年ほど前からはそのペースが緩やかになり、足元のホモ・サピエンスに至ってはネアンデルタール人よりも縮小するに至っている(64)。この研究は計985個の化石データを使って分析しているのだが、それまで100万年あたり常用対数でおよそ0.03増加していた脳のサイズは、210万年前から0.35へと増加ペースが急増。しかし149万年前にはそれが0.19へとダウンした計算になっている。

 類人猿に共通したサイズを長く続け、少しずつしか大きくなっていなかった脳が、ホモ属の登場とともに急速に拡大し、しかしやがてその拡大速度が鈍って最近の比較的安定した軌道に落ち着く。地上という安定した位置からロケットで加速し、やがて衛星軌道という別の安定した場所までたどり着いたようなこの変化は、まさにロジスティック方程式に基づくSカーブを描いている。身体構造の進化や持久狩猟という新たなイノベーションのおかげで最初は幾何級数的に増えていった脳サイズが、霊長類の体格や摂取可能な栄養という制約によってやがて減速していったのだろう。かくしてヒトはその最大の特徴ともいえる巨大な脳を手に入れた。

 だがヒトをヒトへと至らしめたこの変化を推し進めた原動力は、決して単純なものではない。少なくとも1つの要因だけで説明がつくようなものでないことは、これまでも説明した通りだ。移動効率の高い二足歩行に、さらにそれを生かした持久走の能力、長時間獲物を追うために必要な発汗、無毛化などの放熱機能、そして手に入れた食糧から効率的にエネルギーを入手するための調理など、多様な要素が軒並み揃ったところで初めてヒトを特徴づける大きな脳を安定して運用できるようになった。

 これらの様々な要因は、最初の変化を踏み出しさえすればドミノ倒しのように次々と達成できるという類のものではなかった。ヒトの先祖はヒトになるまでに様々な条件を一つ一つクリアしなければならず、それらをすべて成し遂げた後でようやく世界を変えるところまでたどり着いたと考えるべきだろう。その証左となるのが、ホモ・エレクトゥスとほぼ同時代のアフリカに生きていたパラントロプスたちである。

 パラントロプスの大きな特徴は、頭頂部に存在する特徴的な突起だ(65)。前後に走るこの突起はゴリラにも存在しており、彼らの強靭な顎を動かす筋肉がそこに繋がるようになっている。この筋肉を使うことで、パラントロプスもゴリラと同様に繊維質の多い植物を長時間咀嚼し、エネルギーを摂取していたのだろう(66)。彼らは主要な食料源の1つとして塊茎を多く食していたとする研究もあり(67)、そうした食糧を多く入手できる地域では、ホモ属ではなくパラントロプスのような進化、つまり省エネしながら手に入る獲物で満足する「原初の裕福さ」を追求する生存戦略の方が、むしろ有利だったのかもしれない。

 パラントロプスが100万年以上の長期にわたって生き延びたのを見ても(68)、彼らの戦略がホモ属のそれと比べて極端に劣っていたとは言い難い。もしかしたら途中で環境条件が変わり、ホモ属が追求しようとした戦略はコストに見合うリターンが得られず、Sカーブが途中で崩れ落ちてしまった可能性だってある。その場合、今も生き延びていたのはパラントロプスの方だっただろう。だがそうはならず、パラントロプスはやがて絶滅して化石人類と呼ばれるようになり、逆にホモ属は生まれ故郷のアフリカを離れ、新天地にまで足を踏み入れた。



54 James G. Herndon et al., Brain weight throughout the life span of the chimpanzee (1999)

55 William L. Straus Jr. and Miguel A. Schön, Cranial Capacity of Oreopithecus bambolii (1960)

56 David R. Begun, The Fossil Record of Primate Intelligence (2023)

57 Ralph L. Holloway, Australopithecine Endocast (Taung Specimen, 1924): A New Volume Determination (1970)

58 William H. Kimbel and Brian Villmoare, From Australopithecus to Homo: the transition that wasn’t (2016), Figure 5

59 Tim D. White et al., Ardipithecus ramidus and the Paleobiology of Early Hominids (2009)

60 Kimbel and Villmoare (2016), Figure 5

61 Antón, Morphological variation in Homo erectus and the origins of developmental plasticity (2016), Table 1

62 G. Philip Rightmire, Brain size and encephalization in early to Mid-Pleistocene Homo (2003)

63 Holloway, The poor brain of Homo sapiens neanderthalensis: see what you please… (1985), TABLE 1

64 Jeremy M. DeSilva et al., When and Why Did Human Brains Decrease in Size? A New Change-Point Analysis and Insights From Brain Evolution in Ants (2021), Figure 1; なおこのグラフのY軸は脳サイズの絶対値ではなく常用対数となっている

65 Bernard A. Wood, Paranthropus boisei: Fifty Years of Evidence and Analysis (2007), Fig. 2B

66 Thure E. Cerling et al., Diet of Paranthropus boisei in the early Pleistocene of East Africa (2011)

67 Gabriele A. Macho, Baboon Feeding Ecology Informs the Dietary Niche of Paranthropus boisei (2014)

68 Bernard A. Wooda and David B. Pattersona, Paranthropus through the looking glass (2020), Fig. 1

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