第2章 ヒトに至る道
選ばれた生存戦略
「働くように“配線”された種」(01)。人類学者のヴィヴェク・ヴェンカタラマンがそう呼ぶ動物種がいる。ヒトだ。彼の指摘によれば「仕事は常に我々とともにある。それはヒトを他のヒトに、そしてその地の景観に結びつける相互依存関係の複雑な網の一部」だ。ヒトは仕事に追われ、仕事を追い求め、生活の利便性を高めるものが手に入れば「もっと皿に多くを載せたがり、仕事の量を増やし、結果として自らの幸福に大きな損害を与える」存在である。今現在だけではない。昔からそういう存在であった。
そう書くと疑問を抱く人もいるだろう。狩猟採集が中心だった時代のヒトは今よりも短い時間しか働かず、それでも十分な豊かさを享受していたのではないか。確かにそういう説が1960年代に生まれ、今に至るまで唱えられている。きっかけになったのは1966年にシカゴ大学で開催されたMan the Hunterという人類学カンファレンスだ(02)。この会合で話をした文化人類学者のマーシャル・サーリンズは、狩猟採集社会での労働時間について1日あたり4時間未満、あるいは平均2時間といった事例を紹介。こうした「原初の裕福な社会」(03)に暮らすヒトは短い時間だけ働けば十分で、彼らは大半の時間を余暇に充てている、と主張したのだ。
この主張はまず人類学の世界で受け入れられ、そこから徐々に拡散していった。1990年代にはジャレド・ダイアモンドが、狩猟採集生活の放棄は「人類史最悪の失敗」(04)だったと指摘。この見解はさらに広く知られるようになった。21世紀に入ってもサーリンズの説を支持する研究者は後を絶たず、例えば政治学者のジェームズ・スコットは狩猟採集民について「食生活、健康、余暇の視点から、優秀だ」(05)との見方を紹介しているし、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは農業革命を「狩猟採集社会よりも過酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺」(06)と決めつけている。人類学者のデヴィッド・グレーバーに至っては2017年版のサーリンズの書籍に寄せた序文で「マーシャル・サーリンズにノーベル経済学賞を与えるよう要求する」(07)とまで記しているほどだ。
ところがサーリンズの研究内容については、同じ人類学者の間から厳しい批判も浴びせられている。まず彼が自説を裏付けるために持ち出した事例は、実はオーストラリアのアボリジニと南アフリカのサン人に関する研究のたった2つしかなく、広い証拠に基づいたものではなかった。しかもアボリジニの事例は4~11日という極めて短期間のフィールドワークで得られた結論に過ぎず、加えて調査対象となった者たちは実際には銃や小麦粉を使える現代的環境に暮らしていた。サン人についても調査期間は4週間に限られており、また宿営地を出てから戻ってくるまでを労働時間と見なしている一方で食糧加工などの時間は計算に入れていない。実はそうしたものも含めると労働時間は男性で週44.5時間、女性は40.1時間と、現代社会の労働者並みになるそうだ(08)。
サーリンズが使っていない研究の中には、サン人が慢性的あるいは季節的な栄養不足のせいで身長が十分に伸びないこと、食べ物について常に不安と懸念を抱えていることを報告している例がある。また現代の狩猟採集民は特に脂肪のような高エネルギーの食糧資源の不足に直面している。狩猟採集生活においては利用する主要資源が周期的に枯渇する問題が常につきまとっており、繰り返し到来する飢餓や旱魃に苦しめられることも珍しくはない。つまり余暇だけでなく、栄養や健康の面でも狩猟採集民が裕福とは言い難い生活を送っているとの研究は多数あるのだ(09)。
そうした指摘があったにもかかわらず、なぜ「原初の裕福な社会」という説は広まったのか。ヴェンカタラマンはこの説が1960年代のカウンターカルチャーに乗っかって流行したものであり、「ラッダイト、原始主義者、反成長主義者」といった政治的な主張を持った者たちにもてはやされたのだと記している。つまり学術的な妥当性よりもイデオロギー面から支持されたという指摘であり、確かにこの説を持ち上げているグレーバーはウォール街占拠運動の主導者として有名だ(10)。
実のところアメリカ人類学会については「科学から政治的活動へと変貌させられている」(11)という批判が内部からも出てきている。特に2010年からは団体綱領やその他の公式声明から「科学」という単語が取り除かれるようになっており、だとすると人類学(特に社会文化人類学)の分野でもてはやされている説が学術的に妥当かどうかについて、疑問を抱く向きが出てくるのも当然と言える。狩猟採集民の労働時間は本当にサーリンズが唱えたほど短いのか、それとも実際は過酷な面もあるのか。前者をもてはやす者たちに政治的な動機があるのだとしたら、よく耳にするからという理由だけでその説を安易に受け入れるのは控えた方がよさそうだ。
それに労働負荷の多寡については、そもそも時間で計測するのが適切かという問題もある。時間は短いが強度の高い労働もあれば、逆に時間当たりの負担は少ないものの長くかかる労働もあるからだ。イデオロギーを除いたとしても厄介な面があるこの問題について、ヴェンカタラマンは人類学者のトーマス・クラフトなど他の研究者と協力し、携帯呼吸測定器を利用した調査を行った(12)。呼吸時の酸素の消費と二酸化炭素の排出から消費エネルギーを測定するこの機械を使って、時間だけでなくエネルギー面からも狩猟採集民(及び農耕民)がどの程度の仕事をしているかを調べたのだ。
この研究で最も重要なのは、実は我々の遠い親戚であるオランウータン、ゴリラ、チンパンジーといった大型類人猿とヒトとの比較を行った点かもしれない。ヒトの働き方を調べるなら農耕民や狩猟採集民といったヒトの中での違いだけ見るのではなく、他の種と比べる方がずっと特徴が分かりやすく出てくるはず。そして実際にヒトが他の類人猿とは異なる生存戦略の下で行動していることが、この研究から判明した。ヒトは「労を惜しまず、しかし時を惜しんで」働くように“配線”されていた種だったのだ。
クラフトらの研究によると、1日当たり手に入れるエネルギー(つまり食糧)の量は類人猿よりヒトの方が圧倒的に多い。類人猿の入手エネルギーは大半が1日に2500キロカロリー以下、体の大きなゴリラのオスでも4000キロカロリー弱にとどまるのに対し、狩猟採集民であるアフリカのハヅァ族の男性は5000キロカロリーほど、焼き畑農業も行う南米のチマネ族の男性になると約7500キロカロリーもの食糧を手に入れていた。一方、同じ傾向は消費エネルギーでも見られ、食糧を得るために類人猿が多くて1日250キロカロリー前後しか消費していなかったのに対し、ヒトの特に男性が費やすエネルギーは500キロカロリーを超えていた(13)。
結果、入手エネルギーを消費エネルギーで割ったエネルギー効率で見ると、類人猿もヒトもおよそ10倍前後で大きな差はない(14)。類人猿が少ないエネルギー消費で手に入る食糧、具体的には手近にあるがエネルギー密度は低い果実などの植物を中心に食べているのに対し、ヒトはよりエネルギー密度の高い動物の肉を食している。だがそれを手に入れるために、ヒトは長い距離を移動して狩猟採集に従事する必要がある。ヒトの直立二足歩行はチンパンジーなどが行うナックルウォークに比べて同じエネルギー消費で3倍もの距離を稼ぐことができるほど効率的な歩き方だが、一方ハヅァ族の1日の移動距離は平均14キロとチンパンジー(2.5キロ)の6倍近くに及ぶ。ヒトは高いコストを費やして高いエネルギーを手に入れる、ハイコスト・ハイリターンな生存戦略を採用しているのだ。
一方、消費エネルギーではなく労働時間で見ると、ヒトは類人猿よりもずっと怠け者だ。類人猿たちは1日7.5時間をエネルギー摂取のための活動に費やしている。その中には固い繊維質の食糧を消化しやすくするため何時間も咀嚼するといった行為も含まれている。それに対しヒトは狩猟採集のための移動や焼き畑農業のための農作業に時間を使う一方、食事にかける時間は極めて短い(15)。エネルギー摂取のための活動時間はハヅァ族の男性こそ7.5時間近くをかけているが、チマネ族になると5時間を割り込む程度まで下がる。結果、1時間当たりの入手エネルギーで見ると、ヒトは類人猿を大幅に上回る。
クラフトらは以上の結果を踏まえ、類人猿からヒトへと進化する際に我々の先祖は「大量のカロリーを短い時間で手に入れるためにより高いエネルギーコストを支払うようになった」(16)と指摘している。ヒトの仕事は短時間に高いエネルギーを費やして行われる強度の高い労働となったわけだ。狩猟採集民が宿営地で怠けているように見えるのは、実際にはそうした厳しい労働で疲労した肉体を休める必要があるためだと、ヴェンカタラマンは指摘している。一見して楽をしているように見える狩猟採集民は、実際にはハードな仕事をこなすために「寸暇を惜しんで休んでいる」のである。
生物にとっての生存戦略は1つではない。類人猿のようにできるだけエネルギーを消費せず、極力動かない方法で包括適応度を高める方法もある。だがヒトはその道は選ばなかった。入手エネルギーを増やし、「もっと皿に多くを載せる」ためなら骨惜しみせずに働く戦略を採用したのが我々なのだ。現代の狩猟採集民が「ショットガン、ライフル、自動車、カセットレコーダー、CDプレーヤー、テレビ」(17)など、際限のない物欲に駆られているのも不思議ではない。サーリンズが描き出したような、最低限の物で満足する「原初の裕福な社会」を営んでいる者がいるとしたら、それは狩猟採集民よりも大型類人猿の方だろう。
とはいえクラフトらの研究を見ると、サーリンズの指摘にも頷ける部分はある。クラフトらが調べたハヅァ族とチマネ族の比較でははっきりと分からないが、他の研究も含めて調べると狩猟採集よりも農場での仕事の方が消費エネルギーは僅かながら多い(18)。狩猟採集社会から農業社会へ移行した際にヒトがさらなる重い労働負担を自らに課したのは、おそらく事実なのだろう。ただしその負担は時間ではなく消費エネルギーで測るものである点には注意が必要だ。
01 Vivek V. Venkataraman, Lessons from the foragers (https://aeon.co/essays/what-hunter-gatherers-demonstrate-about-work-and-satisfaction、2024年2月17日確認)
02 Ed. Richard Borshay Lee and Irven DeVore, Man the Hunter (1969)
03 Ed. Lee and DeVore (1969), pp85-89
04 Jared Diamond, The Worst Mistake in the History of the Human Race (1992)
05 ジェームズ・C・スコット, 反穀物の人類史 (2017), pp9
06 ユヴァル・ノア・ハラリ, サピエンス全史─文明の構造と人類の幸福, 上巻 (2016), pp107
07 Marshall Sahlins, Stone Age Economis (2017), ix
08 David Kaplan, The Darker Side of the "Original Affluent Society" (2000), pp305-309
09 Kaplan (2000), pp309-311
10 Janet Byrne, The Occupy Handbook (2012)
11 例えばルソーの唱えた「高貴な野蛮人」という概念に反する説を唱えた者について、学会は特別委員会を設置し、その「疑惑」を調査した; Glynn Custred, Turning Anthropology from Science into Political Activism(https://www.jamesgmartin.center/2016/02/turning-anthropology-from-science-into-political-activism/、2024年2月18日確認)。ルソーの「高貴な野蛮人」については以下参照; Jean-Jacques Rousseau, Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes (1755)
12 Thomas S. Kraft et al., The energetics of uniquely human subsistence strategies (2021)
13 Kraft et al. (2021), Fig. 2
14 Kraft et al. (2021), Fig. 3。なお脊椎動物全体ではエネルギー効率40倍超の種が大半を占めるという
15 Kraft et al. (2021), Fig. 4
16 Kraft et al. (2021), Major transitions in hominoid subsistence energetics
17 Kaplan (2000), pp314
18 Kraft et al. (2021), Fig. 5
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