変化のダイナミクス

 それだけではない。ロジスティック方程式は生物の増殖を説明するモデル以外にも多様な分野で使用されている。一例として、言語学における言語変化の中に出てくるSカーブについていくつか紹介しよう。

 カナダのゴールデン・ホースシュー地区で“sneak”(こっそりと動く)という言葉の過去形がどのように表現されているかを調べた研究者が、発話者の年齢別にまとめたグラフを作っている。この地域では伝統的に過去形は“sneaked”と語られていたが、ある時期から“snuck”という言葉を若者が使い始めた。2006年の論文に載っている、X軸に年齢(右に行くほど若くなる)、Y軸に“snuck”の使用頻度を記したグラフを見ると、80歳以上では低い“snuck”の比率が60代や50代あたりまでは急激に上昇し、しかし40代以下になると上昇ペースが落ちて20代以下になるとほぼ横ばいになっているのが分かる(17)。綺麗なSカーブだ。

 他にも日本の山形市の言語変化について調べた研究(18)、明治期の学術漢語辞典の消長(19)、あるいは英語で中世末期から近代初期にかけて“do”に関する迂遠な言い回しが増える事例(20)など、様々な言語変化に関する研究でSカーブが観測されている。言語変化とは要するに新しい言語の増殖とも捉えられるが、それが生物と似た振る舞いを見せている格好だ。

 言語は進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが唱えた文化的な自己複製子とも呼ばれる「ミーム」の一種であり(21)、だから遺伝子という自己複製子に基づく生物と似た振る舞いを見せるのだと考える人もいるかもしれない。だがロジスティック方程式が使われる分野はそれだけにとどまらず、言語学以外にも多数存在する。その中には統計や機械学習の世界、化学の世界での反応モデル、物理におけるフェルミ分布関数、光学での蜃気楼などのモデル化、材料科学、農学など、生物的振る舞いとは無縁に見える分野も多い。

 おそらくロジスティック方程式が描き出すのは、有限の世界における変化のダイナミクスという、より抽象的な振る舞いなのだろう。別に生物でなくても、リソースが有限な世界で変化が起きる際には、それがSカーブを描くケースがしばしば存在する。そして現実世界のリソースは基本的に有限であり、だからあっちを向いてもこっちを見てもSカーブが姿を現す、のではなかろうか。

 さらにこのSカーブはイノベーションの普及という分野でも観測される。最初にそう指摘したのは社会学者のエベレット・ロジャース(22)。彼は新しいイノベーションが普及していく過程で、正規分布のベルカーブの端の方から順番にイノベーションを受け入れていくというモデルを想定した。最初にイノベーションを採用する2.5%がイノベーター、次の13.5%がアーリーアダプターで、以下34%のアーリーマジョリティ、34%のレイトマジョリティ、そして最後に残る16%のラガードが続くというモデルだ。

 このような順番でイノベーションを採用していく場合、当初は低かった採用比率は途中から加速し、アーリーマジョリティに広まりきるあたりで最もペースが高まる。その後は普及率が高まるにつれて伸びは鈍化し、最後は市場が新たなイノベーションによって飽和する、という流れになる。実際、日本国内におけるテレビやエアコン、電子レンジといった各種家電の普及度合いを見てみると、Sカーブを描いて普及率が高まっている様子が分かる(23)。

 イノベーションとその普及が我々の世界を豊かにしてきたのは言うまでもない。化石燃料を使った様々な技術、進歩した医療や公衆衛生、インターネットに代表される情報技術の進歩など、現代人は様々なイノベーションの恩恵を受けている。その意味でヒトの歴史はイノベーションとその普及の歴史だったと言えるかもしれない。だとすればヒトの歴史においても、繰り返しSカーブが現れていたのではないだろうか。

 実際にそう指摘する研究者もいる。これまでにもロジスティック方程式を使ったモデルが重要なイベント、エネルギー消費パターン、政治的な遷移に当てはまるという主張や(24)、宇宙が生まれた130億年前から現代に至るまで、宇宙的、地質学的、ヒト的、ホモ・サピエンス的、現代人的、文明的、そして科学的という7つのロジスティック曲線を描く形で複雑さが増してきたという説(25)などが唱えられている。ビッグバンによる宇宙の誕生から現在に至るまで、常にSカーブが存在してきたという壮大すぎる考え方だ(26)。


 さすがに宇宙創成まで風呂敷を広げるのは難しいだろうが、ヒトの歴史における主要な画期においてSカーブが現れてきた可能性について論じることはできそうに思える。実際、歴史上でしばしば見られる短期間での急激な変化と長期にわたる安定という2つの流れを説明するうえで(27)、Sカーブによる遷移という考え方は非常に相性がいい。Sカーブを描きながら大きく伸びる場面が歴史に急激な変化をもたらし、その前後の横ばいの時期は長期の安定を示しているという理屈が使えるからだ。

 以下では過去に大きな変化をもたらした画期をいくつか取り上げる形で、ヒトの歴史について語ってみたい。それぞれの画期ではロジスティック方程式のような変化が見られること、そうしたSカーブはおそらくイノベーションとその普及によって形作られたであろうことなどを踏まえたうえでの説明となる。ヒトはどのようにして誕生し、地球上にくまなく広まり、さらには太陽と惑星の軌道が作り上げてきた気候まで変えるほどの存在になったのか(28)、それを知るうえでも歴史の画期を乗り越えてきた我らの祖先の取り組みを見るのは悪くないと思う。



17 Shoichi Yokoyama and Haruko Sanada, Logistic regression model for predicting language change (2009), Figure 1.1

18 井上史雄, 東北方言の変遷 (2000)

19 真田治子, 近代日本語における学術用語の成立と定着 (2002)。この2つの事例については以下参照; 真田, 言語変化のS字カーブ : 解析手法の比較とその適用事例 (2008) 20 Anthony Kroch and Beatrice Santorini, The rise of English periphrastic do (2015)

21 リチャード・ドーキンス, 利己的な遺伝子 (1980)

22 エベレット・ロジャース, イノベーション普及学 (1990)

23 田崎智宏ら, 使用済み耐久消費財の発生台数の予測方法 (2001), Fig. 2

24 David John LePoire, Exploring Phenomenological Models for Societal and Technological Transitions of the Neolithic Revolution and Early Civilization Formation (2023), pp8

25 Theodore Modis, Forecasting the growth of complexity and change (2002), Figure 5, Table III

26 ビッグヒストリーのジャンルにはこうした観点を持った研究がいくつか存在するという; Alexander Panov et al., The Twenty-First-Century Singularity in the Big History Perspective: An Overview (2020)

27 ピーター・ターチンはSeshat: Global History Databank(https://seshatdatabank.info/、2024年2月12日確認)のデータを使い、社会の複雑さが大半の期間においてほとんど変化しない一方、数は少ないが大幅な変化が起きる時期があることを示しており、断続平衡説的なパターンがあると指摘している; Peter Turchin and Sergey Gavrilets, Tempo and Mode in Cultural Macroevolution (2021), Figure 2

28 気象庁暫定訳IPCC第6次評価報告書、観測された温暖化とその原因(https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/ar6/IPCC_AR6_SYR_SPM_JP、2024年2月12日確認)

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