第1章 Sカーブ

人口論と関数

 2019年の年末、中国の武漢市で呼吸器系の疾患が広がりを見せ始めた。やがてCOVID-19と呼ばれるようになるこの新型コロナウイルスを原因とする疾患は、ほとんど間を置くことなく翌2020年には他の国へと広まり、そして世界にパンデミックをもたらした。どのようにして新型コロナウイルスが生まれ、ヒトへの感染を果たしたのかついては色々な見解があるが(01)、その感染拡大が2020年代初頭の世界に大きな影響を与えたのは間違いない。

 中国から始まった感染症が最初に急速な広がりを見せたのは、欧州と米国だった。それまで世界で1日に1万人を超えることは滅多になかった新規感染者数は、2020年3月になると感染域の拡大に伴って一気に膨れ上がり、4月には8万人前後まで、6月には10万人を超えるところまで増えた(02)。以後のパンデミックの様相については、改めて説明するまでもないだろう。世界保健機関(WHO)によると2024年3月までの累計感染者数は7億7500万人を超え(03)、世界人口の10人に1人弱が感染するところまで猛威が及んだ。

 パンデミックの最中には世界各地で繰り返し流行の波が訪れ(04)、そのたびにメディアは急増する新規感染者数のグラフを報じて警告を発した。指数関数的に伸びる新規感染者のグラフを見た人も大勢いるだろう。ただし新規感染者が永遠に増え続けることはない。いずれ伸びが止まり、逆に今度は指数関数的に数が減る局面が来る。こうした流れが一巡することでパンデミックの1つの波が終わり、そしてまた次の波がやって来る。

 新規感染者数が形作るこうした山型のグラフを累計の感染者数に直すと、アルファベットのSのような形をした特徴的なカーブが姿を見せる。最初はほとんど横ばいに近いところから緩やかな増加、急激な増加とペースを上げて増えていく。だがやがて増加ペースは低下し、グラフの角度はなだらかになり、最後にはほぼ横ばいにまで戻る。新型コロナウイルスのパンデミック中には、世界各地でこうしたSカーブが繰り返し発現した。

 例えばオミクロン株が流行するようになった2022年7月に野村総研のサイトに掲載されたコラムには、世界の色々な地域における累計感染者の推移が図表1にまとめられている(05)。そこにある韓国のデータを見ると、2021年中は少しずつしか増えていなかった累計感染者数が2022年1月から急速な増加に転じ、しかし数ヶ月すると伸びが鈍ってまた横ばいに近づいたのが分かる。オミクロン株によって急激に新型コロナが広まったが、感染しやすい人に一通り行きわたった後になるとそのペースは鈍り、感染者数は頭打ちになった。

 このSカーブを描き出す数理モデルとして知られているのが、ロジスティック方程式だ。実は感染症拡大の最も基本的な数理モデルとされるSIモデルにも、このロジスティック方程式が使われている(06)。SIモデルは一度感染すると治ることはない想定のモデルだが、その発展形として感染から回復することを想定したSISモデルや、回復の際に免疫を持つようになるSIRモデルといった数理モデルもあり(07)、感染症の拡大をモデル化する際にロジスティック方程式が大いに役立っていることが分かる。実際の累計感染者数がSカーブを描くところを見ても、この方程式を使ったモデルが有効なのは間違いない。

 一体このロジスティック方程式とは何であり、どのようにして生まれたのだろうか。きっかけを作ったのは18世紀末に書かれたとある本だ。著者はトマス・ロバート・マルサス。書物の名は「人口論」という。


 マルサスがこの本で展開した主張はシンプルだ。彼によれば食糧のような生活資源は算術級数的にしか増えないのに対し、人口は幾何級数的に増える。従って人口が増えれば生活資源は必ず不足することになり、それが貧困問題をもたらす、と彼は考えていた(08)。この書物は当時、大いに話題となり、その結果として何度も訂正や増補を加えて版を重ねることになった。彼の議論は後に実際に人口抑制を試みる産児制限運動などにもつながり、グローバルに大きな影響を及ぼしたと言われている(09)。

 ただし彼の議論には問題もあった。彼が幾何級数的に増えると主張した人口だが、現実には環境や資源の制約によっていずれその増加にはブレーキがかかる、という点もその一つ。この問題を踏まえ、19世紀のオランダ人であるピエール=フランソワ・フェルフルストがより現実に即した人口増減の予測式として編み出したのが、ロジスティック方程式だった(10)。残念ながらこの方程式は彼の生前にはほとんど注目されず、20世紀に入って米国の生物学者であるレイモンド・パールとローウェル・リードの手によって再発見され(11)、ようやく広く知られるようになったという。

 パールらがロジスティック方程式を再発見したのも、やはり米国の人口成長に関する研究がきっかけだったそうで、生物が時系列に沿ってどのように増えていくかをモデル化する際にこの方程式が有効だったことがよくわかる。同じく生物のように増殖していく病原体の感染拡大を調べるうえでもロジスティック方程式の使い勝手が良かったのは、それが理由だろう。実際、ロジスティック方程式はヒトや新型コロナウイルス以外の生物でも観測できる。

 ネット上でよく紹介されているのが、パンを発酵させるイーストの増殖だ。嫌気的な環境下でイーストを増殖させると、彼らが排出するアルコールが環境に蓄積し、やがてはイーストの増殖を抑制するようになる。結果、当初は幾何級数的に増えていたイーストの量が、ある段階からは増殖速度が鈍って最後は横ばいになる。時間に沿ったこうした変化は、かなりきれいなSカーブを描く(12)。

 実験室だけではなく、自然環境でもSカーブを観察することは可能だ。昔から米ワシントン州の沿岸部にはゼニガタアザラシが生息していたが、魚類を捕食する彼らを漁業やスポーツフィッシングと直接競合する害獣だと見なしていた20世紀前半には、当局がその数を減らすためのプログラムに取り組んでいた。だが1960年の報奨金制度廃止と、1972年の海生哺乳類保護法の成立といった政策の変更を機に、ゼニガタアザラシの個体数は回復し始めた(13)。

 生態系保護へと方針を切り替えたワシントン州は、1978年から1999年にかけてゼニガタアザラシの個体数調査を行い、その数がどのように変化したかを調べた。政策変更の効果は歴然で、この期間中に計測された個体数は6786頭から1万9379頭へと約3倍に増加(14)。しかしその増え方は時期によってペースが異なっており、1980年代までは右肩上がりの急速な増加が続いたものの、1990年代に入るとペースが鈍化していった。つまりSカーブを描いていたのだ(15)。

 ワシントン州によるゼニガタアザラシ生態系回復の試みは、おそらく環境収容力の上限にぶつかったところで止まったのだろう。2019年にワシントン州のサン・ファン諸島で再び調査が行われた際に、ゼニガタアザラシの生息数が20世紀末とほぼ同水準にとどまっていたことからも(16)、そうした推測が可能だ。利用できる環境や資源の制約が個体数の変化に影響を及ぼすというフェルフルストの予想が的中していたことが分かる。



01 新型コロナウイルスの起源については、研究所から漏出した説や人為的に作られたという説、コウモリからヒトに感染した人獣共通感染症であるという説、武漢の卸売市場で取引されていた野生動物から感染したとの説などがある; James C. Alwine et al., A Critical Analysis of the Evidence for the SARS-CoV-2 Origin Hypotheses (2023)。市場からの感染説については以下参照; Michael Worobey et al., The Huanan Seafood Wholesale Market in Wuhan was the early epicenter of the COVID-19 pandemic (2022)

02 https://www.hc.u-tokyo.ac.jp/covid-19/overseas/、図2(2024年2月12日確認)

03 WHO COVID-19 dashboard(https://data.who.int/dashboards/covid19/cases?n=c、2024年4月7日確認)

04 例えばOur World in DataのCoronavirus (COVID-19) Casesに感染者数のデータがまとめられている(https://ourworldindata.org/covid-cases、2024年2月12日確認)

05 梅屋真一郎、オミクロン株は各国の新型コロナ感染状況をどう変えたか?(https://www.nri.com/jp/knowledge/blog/lst/2022/souhatsu/data_view_use/0719、2024年2月12日確認)

06 永原正章、ポストコロナ未来社会に向けたシステム制御の役割 (2020)

07 南就将ら、異なる接触頻度を持つ個体からなる人口集団における感染症流行のモデル化について (2013), pp6-7

08 Thomas Robert Malthus, An Essay on the Principle of Population (1826)

09 倉田和四生と高巍、現代中国における出生力抑制政策の展開 (1992)

10 Pierre François Verhulst, Recherches mathématiques sur la loi d'accroissement de la population (1845)

11 J.S. Cramer, The Origins of Logistic Regression (2002), pp5

12 C.T. de Wit and J. Goudriaan, The growth of yeast (1993), Figure 4.1

13 Steven Jeffries et al., Trends and Status of Harbor Seals in Washington State: 1978-99 (2002), pp1

14 Jeffries et al. (2002), pp214

15 Jeffries et al. (2002), Figure 5

16 Elizabeth A. Ashley et al., Causes of Mortality in a Harbor Seal (Phoca vitulina) Population at Equilibrium (2020), FIGURE 1

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