6. 別次元の存在

「手を、離しなさい」


氷のように冷ややかな声に命じられるまま、そっと柄から手を離すと、彼女が静かに立ち上がった。

ゆったりとした優雅な動きなのに、隙のない身のこなしは、風さえも動かない。

思えば、彼女は最初から気配が薄かった。

その姿を認めるまで、そこに居たことに気が付かないほどに。

閑麗で美しい故に意識から外れていたが、身のこなしは並の武官よりも洗礼されていたし、決して剣の間合いには入らない距離の取り方は、歴戦の将軍にも勝るとも劣らない。

このヒトは、やはり人間ではないのだろう。


「朱虎様」


名を呼ばれ、身体が硬直する。

「異能者」は、真名で人間を縛ることが出来るのだったか。

どんな命令でも、名前一つで下すことが出来る至上の命令。

真っ直ぐこちらを見つめる彼女は、その力を行使しようとしているのだろうか。


「先程から私のことばかり案じてくださいますが、あなた様こそ、お一人で参られたのですか?お見受けしたところ、高貴なお方と存じます。そのようなお方が、お一人でこのように危険な場所に参られたとなれば、お付きの方も、さぞ気を揉まれていることでしょう。この地で夜を明かせない以上、早急に戻られた方が宜しいのではありませんか?」


「早く立ち去れ」と、遠回しではあるが明確に告げられた言葉。

身体も、彼女から放たれる圧に押され、一刻も早くこの場を逃げ去りたいと思っている。

これが「至上命令」であったなら、おそらく後ろも振り返らずに走り去っていたのだろう。

その一方で、この場を立ち去りたくないと思ってしまうのは、もう彼女に魅入られている証拠なのかもしれない。


「あぁ、そうだな・・・だが、それはそなたにも言えるのではないのか?」


直ぐに立ち去ると思ったのだろう、言葉を返す俺に、彼女は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

そして、怪訝そうに首を傾げる。


「仰っている意味がわかりません」

「暁で日が落ちたということは、宵では日が昇っているのだろう?そちらの国では、朝方から昼にかけて活動を停止していると聞いた。あまり遅くなると、心配するモノがいるのではないか?」


俺の言葉に、今度は目に見えて驚いたように息を呑んだ。

まるで、俺の口から信じ難い言葉が発せられたかのように。

何に対してそこまで驚いたのか分からず、尋ねようと口を開く前に、彼女が静かな声で言葉を紡いだ。


「やはり、あなた様は早くお帰りになった方が宜しいようです」

「え?」


「早く立ち去れ」とは言葉を変えて何度も言われていたが、「帰った方が良い」とはどういう意味なのか。

言っている意味が解らずに首を傾げれば、彼女がおもむろに俺の背後を指差した。


「護衛の方が、あなた様のお迎えに参られたようですので」


そう言われて振り向くと、そこには見慣れた大柄な男。

剣の柄に手をかけ、いつでも抜けるように構えた状態で立っているのは、彼女の言う通り自分の迎えに来たであろう護衛だ。


「牙黄丸・・・」


名前を呼ぶも牙黄丸がその声に答えることはなく、ただ射貫くような鋭い目つきで、彼女を睨みつけるようにして佇んでいるだけ。

背後にまで迫っていた牙黄丸の気配に気が付かなかったことも驚きだが、歴戦の武将と謳われている牙黄丸がここまで殺気立っている姿を見るのも初めてだ。

チリチリと肌を焦がすような殺気と、張り詰めた空気に思わず息を飲む。


「腕の立つ護衛の方が参られたのなら、鎮守様があなた様に危害を加えることはないでしょう」


鈴を転がすような軽やかな声に視線を戻せば、先程と何ら変わらぬ様子で薬草を籠に入れ、身支度を整える彼女の姿が。

殺気を向けられている本人であるはずなのに、彼女は一向にその事を気にした様子がない。

この身動き一つ取れなくなるほどの殺気が、まるで最初から無いものであるかのように。

彼女にとっては、西軍の大将軍が向けた殺気でさえ、無視するに値するものだというのだろうか。


「若、お下がりください」


張り詰めた様子で言う牙黄丸に、彼女は呆れたように小さく溜息をつき、籠を手にして立ち上がった。


「私は先に宵に戻りますので、あなた様も暁にお戻りくださいませ。くれぐれも、護衛の方におかれましては、決して剣を抜かれませぬよう。では、失礼いたします」


彼女は優雅に頭を下げると、躊躇うことなくこちらに背を向け、宵に向かって歩き出した。

その華奢な背中は隙だらけに見えるし、手にしているのも薬草が入った籠一つ。

剣を腰に下げているわけでも、短刀を胸元に仕込んでいるようにも見えない。

にもかかわらず、牙黄丸は柄から手を離すことも、彼女から視線を外すこともない。


「若」


咎めるように俺を呼ぶ牙黄丸には、きっと俺が彼女に魅入られているように見えるのだろう。

このヒトは、関わりをもってはいけない類の存在だ。

それでも俺は、もっと彼女の話を聞きたかった。

自分の知らないことを知っている彼女と話をして、もっと多くのことを知りたい。

そして何より、厳しい修練を積んでいる自分でさえ、指一本動かすことが出来ないほどの牙黄丸の殺気を真正面から受け、それでもなお顔色一つ変えずに平然としている彼女のことを、もっと知りたい。


「そなた、名は?」


随分と小さくなった彼女の背に、やっとの思いで問いかけると、その足が止まった。


「・・・ハクと、呼ばれております」


無視されるかとも思ったが、足を止めた彼女は暫し思案した後、こちらを振り返ることなく静かに答えた。


「ハクか・・・良い名だな」

「ありがとうございます・・・それから、勘違いしておられるようですので、一応申し上げておきますが・・・」

「勘違い?何をだ?」

「私は、女人ではございませんよ」

「・・・え?」

「それでは、失礼します」


そう言い残して彼女、否、彼は一度も振り返ることなく森を後にした。


「あの顔立ちで男か・・・計り知れないな」


彼の姿が見えなくなってから暫くして、思わず口から出たのはそんな言葉。

何度思い返しても、先ほどまで共に居たヒトが男だったとは、とても思えない。

鈴のように凛とした涼やかな声も、一つ一つ洗礼された優雅な立ち振る舞いも。

何より、美人画に描かれた美女さえもしっぽを巻いて裸足で逃げ出してもおかしくない、あの美しさは尋常ではない。

あらゆる美を閉じ込めたかのように、美し過ぎる存在。

美し過ぎるからこそ、性別を超えていると言われれば、それまでかもしれないのだが。


「若」


呼ばれて振り返ると、先ほどまで考えていたくだらないことが一瞬して吹き飛ぶほど、真剣な顔をした牙黄丸の姿。

気持ちを入れ替えて居直すと、牙黄丸が神妙な様子で口を開いた。


「あの者とは、金輪際お会いになりませんよう」

「ハクと、か?」

「はい、あの者は完全に気配を立った我輩の存在を、意図も簡単に見破りました。おそらく、我輩がこの森に入った時点で、誰かが来たことには気が付いていたでしょう。女子のような姿をして温和そうに見えますが、あの者はかなりの手誰にございます。間違いなく、「異能者」かと」

「やはり、彼は「異能者」か・・・」


人智を超えた強大な力を持ち、人間とは異なる恐ろしい獣の姿を二つ目に持った、冷酷非情な生き物。

存在自体が許されぬ、人間の敵。

穏やかな口調で話し、こちらを気にかける素振りすら見せていたというのに、彼は人間を滅ぼそうとしていた生き物だというのか。


「・・・なぁ、牙黄丸。俺と彼が本気で戦ったら、俺は負けるか?」

「確実に。我輩とて、あの者にかすり傷を与えることすらかなわぬでしょう」


その言葉を聞いた瞬間、「人間」が長きに渡って「異能者」を迫害してきた意味が少しわかってしまったような気がした。

「人間」と「異能者」の実力は、あまりにも差が開き過ぎている。


「あのようなモノたちが、東軍には多くいるのだろう?そんな東軍と戦などしたら、俺たち西軍はどうなるんだ?」


その問いに、牙黄丸は静かに首を振った。

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