第3話

俺は立ち上がった。


 いや、立ちあがろうとした。


 全身が粟立つのを感じた。

 俺は咄嗟にリュックのファスナーを開け中の剣に手をかける。響は手にしていたペットボトルを放し、ペットボトルが地面に落ちるよりもはやくハードケースの留め具を開ける。

 時間が無限に引き延ばされように錯覚する。

 ペットボトルがゆっくりと落ちていく。

 空気が重い。

 左から1人の女性が歩いてくる。長い黒髪で、黒い服を着ている。

 俺はこいつが原因だと悟る。身から滲み出るプレッシャー。圧倒的強者の風格。一歩一歩歩くだけでさらに空気が重く、あたりの風景が暗くなる。

 脳が危険だと警鐘を鳴らす。目が女の一挙手一投足を追うだけで体は動かない。

 響は片膝をつきながら大きく目を開いて女を見つめる。ハードケースにかけている手が小刻みに震えている。留め具がカタカタと音を立てる。

 息ができない。

 女がふと顔を動かして俺たちを視界に収める。いや、見ているのは俺たちじゃない。女は俺だけを見ている。

 刺すような視線だ。肉食動物が獲物を探す時の瞳に似ている。


 カタンとペットボトルが地面に落ちて音を立てる。開放された空間にも関わらずその音は反響して、何重にも重なって聞こえる。

 女はその音に驚いたらしく、じっとペットボトルを見つめ、そこから流れ出る水を観察している。

 それから初めて存在に気づいたように響に視線を移す。

「だ、れ……」

 今にも消えそうな声が響の口から漏れ出る。響の瞳孔は小刻みに揺れる。

 恐怖心だ。恐怖心が敵意に勝ってしまっている。

 女はじっと響を見ていたが、顔を動かして再び俺を見てくる。今度は刺すような視線ではない。俺の中を覗こうとしている。俺の本質を覗き込んでいる。

 女が目を細めてフッと笑った。俺の中に何か興味深いものを見つけたのだろうか。それとも……

「だれ」

 響が先ほどよりも強い声で尋ねる。

 が、女は響には目もくれない。

 響はゆっくりとギターを取り出す。少し青みがかった黒色のギターネックが顔を覗かせる。

 

 女はしばらくの間目を細めながら俺を見ていたが、視線を外して再び歩き出した。

「あなたは何者……」

 俺は後ろ姿に声をかける。

 女は立ち止まり少しだけ首を動かして俺を見てくる。

「安心して。あなたたち八咫烏が選択を間違えないかぎり私たちは味方」

 澄んだ声だ。声質からして40歳くらいだろうか。

「あ、まだ違いましたね」

 まだ違う?

 

 響が何か声をかけたが、女は答えず歩いていく。もう立ち止まることも振り返ることもなかった。


「大丈夫?」

 響は女が去ってしばらくするとコンビニのトイレに駆け込んだ。あまりの恐怖から気分を悪くしたらしい。

「うん、もう大丈夫」

 響はストンと俺の隣に腰を下ろした。

 響のペットボトルの中身は全て流れ出て空っぽだった。

 俺はバックからペットボトルを取り出した。

「飲む?」

「あ、いや……え〜っと…その…ありがとう」

 響は俺からペットボトルを受け取ったものの、しばらくキャップの縁を指でなぞっている。少し頰が赤い。

「……やっぱり自分で買ってくる!」

 ペットボトルを俺に押し付けるように返すとまたコンビニの中に入っていった。


「はあ……落ち着いた……」

 今度はあたたかいお茶を買ってきて隣で飲んでいる。

「ねえ光一くん、あの人って何者?」

「わからない。魔法養成所にあんな人はいなかった」

「そうだよね、私も見たことないもん」

 響はペットボトルを膝の上に置いて左手で支えつつ右手でラベルをさすっている。

 あの女のあの圧。あれは魔法を使える人間特有のものであり、魔法を使える人間だけが感じられるもの。

 あの圧の大きさは、俺と女の間に大きな力の差――魔力の差――があるということを示している。

「八咫烏関係者?」

「それもおそらくない」

『あなたたち八咫烏』といっているところから八咫烏内部の人間でないことは容易に想像つく。

「八咫烏と魔法養成所以外に魔法関連の組織ってあったっけ?」

「国内にはない。というかあっちゃいけない」

 日本政府は八咫烏と魔法養成所以外に魔法関連の組織はつくっていない。魔法は八咫烏関連組織の専売特許だ。

「俺たち以外に日本国内に魔法を使える人間はいない」

 八咫烏を裏切った人間が隠れて人材を育成していなければの話だが。

「となると海外……」

 ヨーロッパには魔法連盟という組織があって、ドイツ・イギリス・フランスにそれぞれ1か所存在する扉を守っている。アメリカには2か所扉があるが、こちらはAMS(アメリカ魔法協会)が管理している。そして八咫烏は魔法連盟とAMSとの間で協力関係を結んでいる。

「海外の人間の可能性も低いと思う。お互いの組織はお互いに協力しあわなければならず、気に食わないことがあるなら静観するという条約がある限り、敵対することはできないはずだ。それに……」

「それに?」

「……いやなんでもない」

 それに俺はあの女を海外の組織で見たことがない。

「……まあほら、敵対って口だけかもしれないよ?」

 考えるのが嫌になったのか、響は勢いよく立ち上がる。

「はやく行こっ!」

「そうだね」

 俺も立ち上がる。あの女の存在は記憶の片隅に置いておくとしよう。

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