第二幕 追憶

 新暦1036年2月11日。悪魔は自らが悪魔たる所以を忘れてしまっていました。


 グリッグズ共和国南部、首都ハイロープ郊外の裏通り。この辺りは未だ<天使>の直接侵攻がない。それゆえ、中部以北の民衆がこぞって避難してきており、そして人が多く集まるがゆえに治安も悪くなっていた。

 だが、その最たる原因は政府にあった。大統領による人形狩り。無差別かつ大量の少女たちの拉致によって<生体人形バイオ・パペット>の安定的な生産が可能となっていた。残存する共和国民から搾り取った戦力であっても、<天使>たちへの最も有効な対抗手段となるほどに。

 今日も裏通りにはカイムの姿があった。紫紺の軍服からはその清潔さとは対照的な薄汚れたマントが靡いている。後ろから続くのは長身のカイム以上に大柄な男。無精髭を生やした熊のような顔の男は殊更に大きな靴音を立てて歩く。

 「大統領閣下、この辺り一帯のモデルも随分と少なくなってしまいましたな。そろそろより奥の方へも捜索の手を広げるべきかもしれません」

 「あぁ、今日からは吹き溜まりの方へも回収の手を広げるつもりだ。……セラ、分かっているな?」

 カイムの声は大男の後ろに控えていた小柄なフードに向けられたものだった。自らが呼ばれたことを把握したのだろう、ゆっくりとフードの顔が上げられる。そしてその中から覗く翡翠色の双眸がカイムを射抜いた。

 「モデルの回収、承知しております」

 氷のように冷たく澄み切った声でフードの少女は答えた。

 「結構だ。では、行くか」

 カイムは短く確認し、その足を裏通りの奥へと向ける。そこは通称吹き溜まり。治安の悪い裏通りの中でも特に殺伐とした区画。元々はそこまで酷い状態でもなかったのだが、避難民の増加に伴ってならず者の集団からもあぶれてしまった人々が自然と集まってきたことにより吹き溜まりは最悪の環境へと変わってしまったのだ。

 最早廃墟と化したアパルトメントの群れもかつては人の出入りがあったのだろうが、今は荒廃ぶりを物語るだけである。日のも射さない道には草木も生えず、それどころかどこからともなく鼻が曲がりそうになる程の腐敗臭が漂ってくる。その発生元は、尋常な人間ならば見ない方が身の為だろう。

 「セラ、モデルは感知できるか」

 「はい。前方、入口の扉がまだ残っている建物の2階のベッドルームに一人確認できました。小型のナイフを携行しています。行って取り押さえますか?」

 セラの翡翠色の目が妖しく光り、件の建物を睨み付ける。

 「いや、いい。一人しかいないのであれば俺が直接捕えよう」

 「閣下、あまり無謀な真似はしないで頂けますか。貴方ならば万が一という事もないでしょうが、それでも今の御自分の血に一体どれだけの価値があるのか分かっているのですか。そもそもこうしてモデル狩りに御自ら足を運んでいることさえ本来は控えるべきことだというのに」

 「やかましいぞ、アイゼンヴォルフ。俺が直接捕獲することなど珍しくもないだろう。いくら吹き溜まりとはいえ、警戒のし過ぎもかえって自らの首を絞めることになるぞ」

 見かけによらず神経質なこの男は、数少ないカイムの側近の一人だ。かつて共和国軍中将として北のグウェネとの国境となるローズ砦の責任者を務めていたが、<大災厄>の日に<天使>の襲撃を受けることとなり、そのまま防衛線を指揮していた過去を持つ。<天使>の前に軍は壊滅したものの、国全体が滅びるところまで行かなかったのは偏にこの男のお陰であった。数少ない北部防衛線の他の生き残りも現在共和国軍の再編を担う英傑ばかりだった。

 「……失礼いたしました。もうこれ以上は何も言いますまい」

 そう言ってアイゼンヴォルフは建物の入口で足を止めた。

 「セラ、何かあれば共感覚で呼ぶ。すぐに来い。アイゼンヴォルフは何があろうとこの場で待機だ」

 「かしこまりました」

 「承知」

 二人の了解の声を聞くとカイムは単身アパルトメントへと乗り込んだ。

 玄関正面には階段。コンクリート製のそれは埃が溜まり所々罅割れてはいたが実用には耐えられそうだ。足音を立てないように二階へと上がり、先刻セラが告げた部屋の前で止まる。

 この中に、モデル――<生体人形バイオ・パペット>の宿主がいる。

 カイムはそっとノブに手をかけゆっくりと扉を押し開けた。

 「死ねぇぇーー!」

 金切声と共に目の前に迫って来たのは白刃。その目指す先は真直ぐカイムの喉元。言葉の通り殺すつもりで刺しにきている。刹那のうちにそう判断したカイムは迫るナイフを握る手を掴むとそのまま捻り上げた。

 「くそっ……!」

 金属音を立ててナイフが床に落ちる。手首を掴まれたままになっているのは、セラの言っていたモデル。光沢が失われた銀朱色の髪はボサボサに伸び、手の爪には垢やら土やらが詰まっていて不衛生きわまりない。真っ黒に汚れた衣服を纏った身体は瘦せ細っていて栄養が足りていないのも一目瞭然だ。

 「この、人殺し! 死んでもあんた達の人形になんかなるもんか! あたし達の命の上に汚く生き延びようとしているあんた達なんかのために!」

 どうやら、この少女は自分達の行く末を、<生体人形バイオ・パペット>の存在を知っているらしい。別に政府としては隠していたわけでもないし、実際計画を知っている人間はかなり多い。しかし、碌に外との交流のないこの吹き溜まりにいるこんな少女が情報を知っていることにカイムは少し驚いた。

 「…知っているのか、<生体人形バイオ・パペット>のことを」

 「……戦場へ行って無残に命を散らすことを強制された人形。悪魔の産物よ」

 「悪魔、か。そうか、そうかもしれんな。お前の言う通りだ。俺たちは悪魔だ。自らが生き残るために民草を犠牲にすることを選んだ怪物だ。そして、今もお前を俺の命令だけを聞く人形に変えようとしているというわけだ」

 殊更に悪ぶったようにも聞こえるその口調は、それでもこれ以上ないかと思われた少女の怒りを更に爆発させるのに十分だった。

 少女は掴まれた片手を軸にして身体を回転。その回転のエネルギーを乗せて高速の蹴りをカイムの腹目掛けて打ち込んできた。互いの体格差を考慮しても流石にそれを無防備に食らえば怪我の一つや二つはしそうである。カイムは仕方なく少女の手を放すことにした。

 「抵抗はよせ。外には俺の部下たちが控えている。お前の豪胆さとその身体能力は評価するが、この努力は徒労に終わるぞ」

 先程まで掴まれていた右手を庇いながら少女はこれまで以上に険しい眼をしてカイムを睨み付けた。その瞳には激しい憎悪の炎が燃えているのがこの暗い建物の中でも見てとれる。

 「徒労? 何人もの女の子を無駄死にさせてきたあんた達がそれを言うの? ふざけないでよ! こんな、こんな奴なんかにサーニャは……」

 「待て、サーニャ……だと?」

 サーニャ。その名前がカイムの冷え切った心に痛烈に突き刺さった。そう、それは最初の<生体人形バイオ・パペット>。カイムが悪魔として生きていくことを決意したあの日。人としての道と国を守るという責任との間の板挟みの末、悩みに悩み抜いた上で決めたあの時にアルバが連れてきた襤褸をまとったあの少女。夕陽の如き閃光を放ち<生体人形バイオ・パペット>へと覚醒し、文句の一つを言う事もなく戦場へと赴き、数多の<天使>たちを葬り、そして数時間のうちに命を散らしていった。

 カイムは今の今まで忘れてしまっていた。<生体人形バイオ・パペット>の使用を決意したあの瞬間を。サーニャの死を聞いて一人涙したあの夜を。最初であったがゆえに最も残酷な死を与えることとなってしまったサーニャが生きた証をいつまでも心に刻み込むために、彼女が纏っていた襤褸をマントとして自らの軍服に縫い付けたことを。

 そして、それを今鮮烈な衝撃と共にカイムは思い出していた。目の前のモデルが放ったサーニャという名前によって。

 気づけば目からは涙が溢れていた。それはこの7か月の間、本来流すはずだった涙。<生体人形バイオ・パペットの報せを聞くたびに少しずつ、だが着実に心に負っていた傷が流させたものだった。

 「ちょっと、急に泣き出してどうしたってのよ、あんた」

 唐突に涙を流し始めたカイムに困惑顔の少女。流石に予想外の出来事にどうしてよいものかといった感じで立ち尽くしている。

 「サーニャの名前を聞いて突然……。ねぇ、あなた、サーニャを知っているの?」

 そう訊ねる少女の声は幾らか落ち着きを取り戻していた。

 「あぁ、知っている。知っているとも。お前も、サーニャの知り合いなのか?」

 「え、えぇ。サーニャは貧民街の同じ地区に住んでいた友達よ」

 「そうか……。それでは、お前が<生体人形バイオ・パペット>について知っていたのも貧民街の人たちから聞いていたからか」

 少女はこくと頷く。思っていたよりも素直な反応に驚いたが、カイムは自身の声から先程までの鬼気が抜けていたことに気づいた。

 「あなたの方こそ、サーニャのことを知っているなんて、一体誰?」

 そう問われて答えに窮する。何と答えればよい。俺はお前の友達に自分の血を飲ませて<生体人形バイオ・パペット>に仕立て上げ、たった一人戦場に向かわせ殺したのだと、そう言えというのか。そんな惨いことを。

 自問を繰り返すが、今のカイムにはこの目の前の少女に対して偽りを伝えようという気が微塵も起こらなかった。所詮、答えが憚られるのは少女への同情を隠れ蓑にした自分の保身でしかないのだから。

 「俺は、グリッグズ大統領のカイム・ライノハート。サーニャを<生体人形バイオ・パペット>にして戦地へ送り込んだ張本人だ」

 言い終えると、まさに目にもとまらぬ速さで少女は動いた。まだどこかに隠し持っていたのか、新たなナイフを袖口から取り出し、その刃をカイムに向けて。

 ――確かに、セラはナイフが1本とは言っていなかったか。

 カイムによるその攻撃への対応が全くなかったのは、反応できなかったからか、それとも反応しなかったからなのか。ともあれ、扉を開けた際には殺すつもりで襲い掛かって来た少女が再び向けたナイフはカイムの身体に吸い込まれ、そしてその太腿を刺していた。

 カイムには激痛が走る。しかし、これでは致命傷にはなりえない。その傷をつけた当の本人でさえ、なぜ殺さなかったのか不思議に思っている様子だ。

 「あれ、あたし、あんたのこと殺そうと動いて…。それなのに…」

 カイムの脚にナイフを残したまま少女は手を放してふらふらと後ろざまに倒れる。もうそこに殺意は感じられなかった。


 その後、<生体人形バイオ・パペット>と<人形師パペッティア>、つまり人形とその主との間でのみ繋げることのできるテレパシーにも似た能力、共感覚によってセラを呼んだカイムは脚の応急処置を受け終わったところだった。

 「カイム様、あちらのモデルはいかがいたしますか」

 そういってセラが見遣った先には、どこか気の抜けたような表情の少女が座り込んでいた。セラがいたからというのもあるだろうが、応急処置の間ずっと微動だにせずそこにいたのは、まだ話をする気があるからなのだろうか。

 カイムは痛む脚を引き摺ってモデルの元へと歩み寄った。支えようとしたセラのことは手で制し、一人モデルの少女と相対する。彼女の琥珀色の瞳がこちらを見上げた。

 「ねぇ、何で大統領がわざわざモデルを調達しにきてるわけ? 少なくとも、サーニャの時は役人が連れて行ったでしょう」

 「連行に関して俺が一切関与していないのはサーニャの時だけだ。二人目以降の<生体人形バイオ・パペット>の調達は必ず俺がこの手でやってきた」

 彼女の瞳孔が僅かに開かれた。どうやらサーニャが連れ去られた目的自体は知っていても、その具体的な方法については関知していないらしい。もっとも、貧民街や吹き溜まりに一国の首脳が足しげく通うことなど、誰も想像できないだろうが。

 「俺は、この国を守るために人道に外れることを選んだ。だからこそ、せめて犠牲となる罪もなき少女たちのことは覚えていよう、と。そう、思ったのだ、最初は」

 カイムはどこか昔を懐かしむような様子で淡々と過去を語る。想いが込められたその言葉は廃墟の静謐に朗々と響き渡る。

 雲が流れたか、突如として廃墟の崩れた壁から辺りに月光が射し込む。柔らかな光に照らされた二人の視線が絡み合う。そして、再び雲がかかったのだろう、周囲を闇が支配した。

 「今考えれば、俺は間違っていたのだ。それは一人俺が罪悪感から逃れるための口実に過ぎなかった。俺がやるべきことは、死者を嘆くことでも、不要な義憤のために自己満足でしかない慈悲を与えてやることでもない。課せられた使命はたった一つ。<天使>の駆逐。これだけだ」

「……あんたの覚悟と決意はよくわかった。理解もしたし、同情もする。けどな、大統領さんよ。あんた一人がどう思ったところで、現実は変わらない。<天使>の侵攻は止まないし、それへの対策が、いや、<生体人形バイオ・パペット>以上の対策が出来る訳でもない。あんたの言葉はまったくの詭弁よ」

 「その通りだ。まさか、俺が人形狩りを止めるとでも思ったのか? <生体人形バイオ・パペット>計画が止まる事は最早絶対にない。だから、俺は彼女らを使い倒さなければならない。たとえ敗北し死することとなろうとも、その最期の一瞬までな。それがこれまで犠牲となった869名のモデルたちと、これから命を散らすことになるであろう全ての<生体人形バイオ・パペット>たちに報いるための唯一の手段だからだ」

 「まさかあんた、これまでの<生体人形バイオ・パペット>になった子のこと、全員を覚えてるの……?」

 その問いにカイムが答えることはない。確かに全てのモデルの顔と名前は憶えている。しかし、それはただということにしかならない。実際、先刻その名を耳にするまで、サーニャのことさえ記憶から目を逸らし続けてきたのだから。

 「……まだ、お前の名を聞いていなかったな。何という?」

 突如話が変わったことにやや驚いた風だったが、銀朱色の髪の少女はその驚きの表情を刹那のうちに隠し、気丈に答えた。

 「リゼット」

 名しか言わないのは、彼女に親がいないから。親のいない子は姓を知らない。ここまで貧民街から裏路地へ移り住んで生き抜いてきたことは並々ならぬ努力の賜物なのだろうことが容易に想像できた。

 「よし。では、リゼット。これからお前はリゼとして<生体人形バイオ・パペット>となり、この俺の駒となってもらう。いいな?」

 長い沈黙。親友であるサーニャを不当に奪われ、今度は自分も同じ目に遭わせようとしている共和国政府、もといカイム・ライノハートという男。リゼットの胸に去来するのはかつて感じた怒りと憎しみ、先のカイムの言葉を聞いて感じた熱意と悲しみ。その交々と向き合い、そうしてリゼットは答えた。

 「いいわ。あんたの手駒となってあげる。サーニャを殺したあんたたちが、これからどうやってあの子の死を意味あるものにしていくか、しっかりと見届けてあげる。その為になら、あんたの思うように動いてあげるわよ」


 奇しくも時刻はかつてサーニャが<生体人形バイオ・パペット>になった時と同じ頃だった。

 首都ハイロープ、大統領府地下。災害時の緊急避難用に作られた広大な空間に今、一面の花畑が作られていた。カレイサスの花。その燃えるような深紅の花は辺り一帯を炎で埋め尽くしているかのようである。通称<業火の海エルフランメ>。

 今、この焔の海にリゼは立っていた。整えられた銀朱色の髪は周囲の赤の中でもひときわ輝いて見える。身に纏うものも、紫紺の軍服。その胸には共和国の国章である4枚の翼が金糸で刺繍されている。それは彼女が国の為に戦う存在となったことを如実に物語っていた。

 「準備はいいな、リゼ」

 「ええ、いつでもどうぞ」

 「よし。では、これを飲め」

 そう言ってカイムが取り出したのは小瓶に入れられた夕陽を思わせる色合いの液体。カレイサスの花の蜜とカイムの血の混合液。<生体人形バイオ・パペット>への覚醒に必要な秘薬だった。

 リゼはそれを受け取るとややその美しい液体に見惚れてから、躊躇なく一息にそれを飲み干した。

 閃光。それはかつてサーニャも発した光。<生体人形バイオ・パペット>覚醒の証だった。やがて眩い程の光はおさまり、やはりどこか近寄りがたい雰囲気を感じさせるリゼの姿が現れた。

 「気分はどうだ、リゼ」

 「最悪ね。自分が人形に成り果てた、って考えると。ただ、思っていたよりあんたからの束縛は強くないのね」

 「俺がその気になって下した命令には絶対服従だが、何もその思考や行動の全てを四六時中制限しようなどとは思わんのでな。お前が果たすべき仕事をこなしてさえいれば、特に何も言わん」

 初めて<生体人形バイオ・パペット>を作ったサーニャの時は無意識的にその思考を縛り付けていたために、まさに人形同然の振る舞いしかできなくさせていたが、扱いに慣れた今のカイムであれば彼女らの意思はほぼそのままに契約を結ぶことができていた。

 「そう。なら、とっとと戦場でもどこでも放り込みなさいよ」

 そう語るリゼの目には確かに炎が宿っていた。<生体人形バイオ・パペット>計画を憎む彼女とて、<天使>に人生を滅茶苦茶にされたことは変わりない。今、その<天使>に対抗しうる力を手に入れ、リゼはどこか満足感を覚えていた。

 「そう慌てずとも直にその時はやってくるさ」

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