第一部

第一幕 覚醒

 新暦1035年7月4日。世界は禁忌に手を染めました。


 およそ2か月前。北の大国、グウェネ帝国が一夜にして滅んだとの報せが首都に届いたのは実際にはグウェネ滅亡より10日程が経過してからだった。その原因は明白で、誰も伝える人間がいなかったからである。それでも行商人や旅人などの間で噂が広まり、遂にこのグリッグズ共和国の首都ハイロープにも伝わったのだ。その後、国軍による調査が行われ、グウェネ帝国の滅亡が確認されたのである。

 しかし、その調査もほとんど無駄だったのかもしれない、と国家元首カイム・ライノハート大統領は眉を顰めた。もう何日もまともな睡眠がとれていないため、本来精悍な顔つきのカイムも今は非常にくたびれた様子である。

 帝国滅亡が確認された翌日、<天使>は共和国にもやってきた。最低でも90万人。その1日で死亡が確認された人数は、共和国総人口の1割弱にも及んだ。それでもグウェネ帝国と同じ結末を辿らなかったのは、異形の存在を事前に確認できていたことと、奴らが北の国境からのみ攻め入ってきたこと、そして洗練された共和国軍の防衛作戦の賜物だった。

 異形の存在はその容姿から<天使>と名付けられ、国はそれからも断続的に侵攻を繰り返す<天使>への対策を練ることとなった。

 そこからの約1か月半。国軍の決死の作戦によって判明したことは、<天使>は人間を喰らうこと、<天使>には知能は感じられないが群れを統率する<大天使>と呼ばれる存在には知性があること、<天使>の活動停止には頭部を含めた身体全体の40%以上の損傷または頭上の光輪の破壊が必要であること、といった絶望的なものばかりだった。その間も、<天使>の侵攻は続き、遂に昨日国軍の損耗率は8割を超えた。北から国土の半分近くは既に<天使>の支配下に落ちた。そこに住まう人間も助かってはいないだろうから、最早共和国は辛うじて国家の形を保っているといってよかった。

 周辺国家との連絡ももう1か月とれていない。大陸随一の軍事力を誇る共和国でさえもこのざまなのだから、他の国がどうなったかなど、考えるだけで嫌になる。

 この絶望定な状況で、若き大統領、カイムには一つの決断が迫られていた。


 「<生体人形バイオ・パペット>?」

 「左様でございます、坊ちゃま」

 国軍の被害報告を終えた秘書――といっても、幼少期から家庭教師を務めてきた老爺ではあるが――のアルバが報告に続いてしてきた話にカイムは思わずそのまま訊き返してしまった。

 その言葉が分からなかったわけではない。ただ、自らの思考の地平にそんなものは全くとして昇ってきてはいなかったため、面食らったのだ。

 「最早、かの技術に手を付けるしか、この国が、いいえ、この世界が生き残る術はありますまい。少なくとも、議会はそのように思っているようですぞ」

 議会の連中の欲深い顔が目に浮かぶ。<天使>とはまた別の意味での怪物たち。奴らにとっては私利私欲を満たすことが何よりも重要だと考えているのだ。

 「……個人的な意見を述べるのであれば、あれを使うことには反対だ。だが、現状そのようなことを言っていられないというのもまた分かる。大統領たる俺がそれを決めねばならないことも、な」

 「僭越ながら私めの考えも述べさせていただきますと、今がご決断の時かと」

 年老いてかつてよりも随分と小さくなった体から絞り出すかのようなアルバの声にカイムはより一層表情を険しくさせ、頷いた。

 「明日だ。明日まで時間をくれ。そこで、決定を下す」

 それを聞いてアルバが何か言いかけたが、カイムはそれを遮るかのように続けた。

 「それしか手がないのはわかっている。だからこそ、1日だけ時間が欲しいのだ。あのような、およそ人間が扱うべきではない禁忌に手を染めるのだから」

 あまりの沈痛な声にアルバも投げかける言葉を失くしたのだろう、それ以上老爺が口を開くことはなかった。


 世界には、人が生み出した禁忌がある。決して触れてはならないタブー。それが、<生体人形バイオ・パペット>だった。

 事の発端は400年前の大陸戦争。未だ国家と呼べるほどのコミュニティが存在していなかった時代、後のグウェネ帝国の源流となるグウェン一族が戦乱の満ちる大陸を統一することとなる戦争である。

 国家がないといっても、支配関係がなかったわけではない。当時最も力を有していたのはとある盗賊団あがりの武装勢力だった。大陸中央部の寒村から台頭してきたグウェン一族を脅威とみなした彼らは、グウェン一族の討伐にうって出た。結果、グウェン一族に敗北したのだが、彼らは突如として一時的に勢力を巻き返した。

 この時に戦場を駆け抜けたと言われるのが<生体人形バイオ・パペット>。一体誰がそれを発明したのかは分かっていない。しかし、今なおその情報が伝えられているのは、それだけ<生体人形バイオ・パペット>が与えた影響が甚大だったからである。

 それは、一人の少女だった。いや、少女ものだった。特別な処置を施すことによって身体そのものを兵器へと変えられた少女たち、それが<生体人形バイオ・パペット>だった。

 <生体人形バイオ・パペット>が400年にわたり禁忌とされ続けてきたのには理由がある。第一に、少女を兵器へと変えるという行為そのものが非人道的であること。そして、彼女らの覚醒に蜜が必要となるカレイサスと呼ばれる花の育成があまりにも簡単であること。極めつけは、カレイサスの花の蜜と同時に人間の血液を飲ませることによってその人間の命令に絶対服従するようされてしまうこと。

 近代兵器のどれとも比べ物にならないほどの戦闘力を誇る<生体人形バイオ・パペット>は量産可能な大量殺戮兵器として戦場を跋扈した。大陸戦争は、グウェン一族もこの技術に手を出し、相手方を駆逐することで漸く終結したのだった。


 「使うしかない、か……」

 今、執務室の豪華な椅子に座るカイムの手には小さな瓶が握られていた。カレイサスの花の蜜。少女を<生体人形バイオ・パペット>へと変える悪魔の液体であった。

 コンコン、とドアがノックされる。

 「……来た、か。……入れ」

 開かれた扉からアルバに案内されて入ってきたのは、まだ15、6といった少女。身体には襤褸1枚を身に纏い、手には枷が嵌められている。

 「これから、君にある処置を施す。説明は聞いているな?」

 少女はこくりと頷く。

 「……名は?」

 答えを求める問いかけにも少女は答えない。カイムは仕方なくアルバの方を見遣る。

 「坊ちゃまの仰せの通り、貧民街で一人佇んでいた娘を連れて参りました。付近にいた者の話によりますと、名前はサーニャ、というそうです」

 「そうか」

 短く答えた後、カイムは用意していた小皿の上で袖を捲る。そして、腰に提げた短刀を抜くと手首にそっと刃を押し付け、横一文字に赤い筋を浮かばせた。垂れた血液は小皿を鮮やかに彩る。

 このまま少女――サーニャに声を掛け続ければ、確実に情が湧く。情が湧けば迷いが生じる。その迷いは国家元首たる自分が持ってはいけない迷い。国を守るため、自分は鬼にもならねばならない。

 カイムは瓶を開けると、そこに小皿の上に溜まった血を流しいれた。黄金色の蜜と深紅の血液が混ざり、夕陽の如き色へと変わる。そのまま瓶を手に持ち、サーニャの口へ運ぶ。

 果たしてサーニャは、やはり一言も発しないままそれを飲み干した。

 「っ!?」

 閃光。カレイサスの花の蜜とカイムの血液の混合液と同じ、夕陽を思わせる光がサーニャから溢れ出した。隣のアルバも思わず、おぉと声を洩らす。

「これが、<生体人形バイオ・パペット>の覚醒…」

 光は徐々におさまり、サーニャの身体へと収束していく。やがて光の中から現れたサーニャは、兵器へと変貌を遂げていた。

 <生体人形バイオ・パペット>としての覚醒を果たしたサーニャは、見た目の変化はほとんどない。しかし、身体から発せられる威圧感は確かに彼女が人ならざるものへと変貌したことを物語っていた。

 「……成功、したのか?」

 「恐らくは。坊ちゃまもご存知の通り、この処置の成功率は100%とのことですから」

 もっとも、アルバの言うその情報は400年前の伝承に過ぎないが。

 「……カイム・ライノハート様。貴方を私の<人形師パペッティア>に認定しました。命令オーダーをどうぞ」

 感情の起伏が感じられない平坦な声音。思わずぞっとした。その声は、彼女がまさしく人形に成り果てたのだということを否応なく実感させた。

 同情は彼女を冒涜する。これは己が少女に科した不条理なのだから。そして、自分はもう堕ちたのだ。道半ばで止まることは許されない。更に戻ることなど言語道断。だから、冷酷さを鎧とした言葉で彼女に告げる。

 「命令オーダーだ。現在このグリッグズ共和国を襲う異形の存在、<天使>を殲滅せよ」

 「命令オーダー、承りました」

 こうして、カイムはサーニャを死地に送り出した。

 サーニャの戦死の報告を受けたのは、日付が変わる直前、たった6時間後のことだった。

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