征野に咲く君に捧ぐ
はつゆき
序幕 終焉
新暦1035年5月2日。世界は終わりを迎えました。
グウェネ帝国旧都ヴェスピア。かつて栄華をきわめたこの都が新都カンパーテへの遷都から半世紀が経った今もなお賑わいを見せているのは、帝国全体に好景気の波が押し寄せているからに他ならない。
五十余年前、国境付近にて発見された銀鉱山の所有権をめぐって隣国ムレーゼ王国との間で起こった
時の皇帝、マルツェル・グウェンは銀工芸をはじめとした様々な産業の発展に尽力し、その恩恵が今なお続いているのだ。また、グウェネの実質統治下におかれたムレーゼ国民にも雇用の機会が平等に与えられ、両国はともに大きく発展を遂げた。
皆が活気づいているヴェスピアの大通り。そこを一人の少女が歩く。年の頃は10代後半。長身痩躯で整った顔立ち、そして濡羽色の長髪は絹のように美しく、周囲の目を引いていた。
少女はやがて街の噴水広場に辿り着き、そこに待ち人の姿をみとめると穏やかな笑顔を浮かべ、臙脂色のロングスカートを風に靡かせながら駆け寄っていった。
「お待たせ、エレナ」
「全然大丈夫、私も今来たところよ」
エレナと呼ばれた少女もまた、濡烏の髪の少女に負けず劣らずの美しさだが、こちらは活発な印象を受ける。小さな身体にはやや大きめの黄色のワンピースは、陽の光を浴びて黄金色にきらきら輝く彼女の短髪によく似合っている。
「それじゃあ、行きましょうか、クローゼ」
穏やかな初夏の昼下がり。クローゼは再び大通りを歩いていた。今度はエレナと共に。今は噴水広場のレストランでパスタを食べた直後なので心地よい満腹感に睡魔が容赦なく襲い掛かって来る。レストランを出る前にうつらうつらしていたところ、食べてすぐ寝ると牛になる、とは腹ごなしの散歩を提案したエレナの談。
「しっかし、こうして二人で特に目的もなくお出かけってのも、久しぶりね」
「そうね、最近はお互い春からの新生活で忙しかったから。エレナは、もう慣れたの? 国立士官学校の医務室の仕事は」
「まぁね。とは言っても1年目は雑用ばっかりだけど。クローゼこそ、中央図書館の司書の仕事はどうなのよ?」
「こっちも、最初は先輩について仕事を覚えているところよ。もうしばらくしたら一人で色々と任せてもらえるみたいだけど」
この春に帝国高等学校を卒業したばかりの二人にとって、話題の中心はお互いの近況報告だった。それぞれの夢を叶えて希望する職に就けたことを喜び合ったのはわずか数か月前のことだというのに、そこからの目まぐるしい日々のせいか、それがひどく昔のことに思える。
突然、エレナが足を止めた。上を見上げる彼女の視線を追うと、その先には映画館があった。
「そういえばさ、今やってる『白花の騎士』って知ってる?」
「えっと、名前くらいなら。人気なの?」
「私も内容はよく知らないんだけど、巷で評判なのよ、主演の俳優がかっこいいって」
そういってエレナがうっとりとした表情を浮かべる。エレナに言い寄って来る男はとても多いはずなのだが、かなりの面食いである彼女のお眼鏡にかなう人物は未だ現れてはおらず、いつも愚痴っていた。もっとも、色恋沙汰はよく分からないから、と言ってエレナ以上に告白を断って来たクローゼが言えたことではないのだが。
「あなたが気に入るだけの俳優さんなんて、そうはいないと思うけれど?」
「そうはいっても、見ないわけにはいかない! ね、今から見に行かない?」
「まったく…。いいわよ、今からだと14時からのに間に合いそうね」
「ありがとう、クローゼ。大好き!」
そういって抱き着いてくるエレナをいなしながらクローゼは映画館の方へと歩き出したのだった。
「あ~、信じられない! 何よ、あのストーリー」
映画館を出るなり、エレナはそう零した。件の『白花の騎士』は、とても見ていられないような陳腐なストーリーだったのだ。
「何だって毒林檎食べて倒れたお姫様に王子様がガラスの靴を履かせて目覚めた姫と2人で鬼退治なのよ。誰でも知ってる童話からなる
「まあまあ。でも、確かに王子様を演じていた俳優さんは整った顔立ちだったと思うけれど?」
「それだけよ。確かに彼の顔はよかったけど、流石に映画そのものがあの出来じゃあね」
どうやら主演のかっこよさが巷間で噂になっていたのは、この映画がその一点しか評価するところがなかったかららしい。クローゼ自身、途中小声で悪態をついているエレナが隣にいなければ上演時間の間、居眠りせずにいられなかった自信はない。
「ともかく、どこかに入って文句の続きを…」
そこでエレナの言葉は途切れた。何かあったのかと、後ろを振り向いたクローゼの目に映ったのは、赤。それが上半身を喪ったエレナから噴出する鮮血だと気づいたのは、もう彼女は助からないことを物語るには十分すぎるほど多量の血溜まりが目の前にできてからだった。
「エレ、ナ……?」
しかし、それを認めることができないクローゼは、ただ茫然と一番の親友の名前を呟くことしか出来なかった。
だが、状況はそれすらも許してはくれない。全身に電気信号を伝える器官を失くしたエレナの下半身が頽れ、クローゼの視界には漸くその向こう側の景色が映った。
――地獄絵図。まさに、この言葉が表すべき惨状が、目の前で繰り広げられていた。逃げ惑う者、悲鳴を上げる者、それすらもかなわず手足を、頸を、身体を千切られる者、既に物言わぬ屍と成り果てた者。そして、それらを追いかけ回しながら耳障りに響くのは、笑い声とも泣き声ともつかぬノイズ。その音の発生源が、数多の命を奪っているのは、誰が見ても明らかだった。
天使。
クローゼにとっては、御伽噺でしか触れたことのないような存在。しかし、眼前の存在はそれを想起させるに十分な姿をとっていた。幼児を思わせる膨れた腹に大きな頭と短い手足。そして背に負う翼と頭上の輪。しかし何よりも空恐ろしいのはその伽藍堂のような眼。全身が純白の異形たちは一様に同じ顔をしていた。およそ表情と呼べるようなものを持ち合わせてはいなかった。クローゼはそれをただ見つめる事しかできなかった。
異形たちは空一面を覆い尽くし、そして地上に降りたったそれらは手当たり次第に人を殺していた。否、喰っていた。そう、クローゼの前でも、異形はエレナの屍体を喰っていたのだ。やがて、それは千切れたエレナの下半身さえをも喰らい尽くし、今度はゆっくりとクローゼの方を見遣った。
――殺される。
本能的にそう悟ったクローゼの全身が、逃げろと叫ぶ。しかし、その声に反して身体は微動だにしなかった。これが、本当の恐怖。ああ、私の人生は、こんなに唐突に終わりを告げるものなのか、と迫りくる異形の手を見詰めながらクローゼはどこか冷静にそう考えていた。
そして、異形がその口を大きく開いた――
この日、大陸一の栄華を誇っていたグウェネ帝国は、僅か一夜のうちに滅亡した。
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