無賃タクシーだ、乗れよ
「ああ、山倉さんか。いやー、ちょっと思い出せなかったよ。ハハハ、失敬、失敬」
「いいよ、いいよ、そんなことは。それよりさ、今どこに行くの?仕事の帰り?家(うち)はよ。今どこに住んでんの?」片側二車線のうち一車線を完全に塞ぐ形になっていたので彼は他の車群を気にしつつ畳み掛けるように私に聞いて来た。現住所が隅田川沿いの南千住であり今そこに帰るために浅草駅に向かっていることを手短に伝える。
「ああ、そう。南千住。だったら乗りなよ、車に。送っててやるよ」そう云って彼は後部左側の自動ドアを開けた。えーっ?とか云って恐縮する私に「いいから、いいから。早く乗って。無賃タクシーだからさ、大丈夫だよ。ハハハ。とにかく道塞いじゃってるから早く乗ってよ」とばかり有無を云わさない。嫌も応もなく私は吾妻橋の車道側欄干を跨いで越え彼のタクシーへと乗り込んだ。山倉は表札を回送にすると浅草駅前の江戸通りを右折し、そのまま言問橋、白髭橋へと向かって、川沿いの通りを制限速度順守で走り出した。即ち、とてもゆっくりと。
「いやあ、悪いね、山倉さん」と再び恐縮する私に「いいってことですよ、山本さん…いや、田中さん」とかなり古いギャグで応じる。苦笑しながら彼の個人タクシー経営に至る〝出世の〟経緯を問うと、川崎の倉庫勤務のあと彼はタクシー会社に就職し、そこで勤務するうちに親戚の男から個人タクシーの経営権を買ったのだそうな。へえーとばかりに私は羨むしかない。お互いが一時期しがない業務請負の仕事にあってそこを止め、その後の20年で今や社長とプータローのこの身分差である。今の如何を尋ねる山倉に私は言葉を詰まらせるしかなかった。
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