山倉タクシー登場
自慢じゃないがタクシーなどというものはここ何十年来使ったことがない、もっぱらバスかテクシー専門の身だ。使う分けがないではないか。ところがそのタクシーは停車したままで立ち去ろうとせず、あろうことかこちら側の窓をスルスルと下げ始めた。野郎、俺に文句でも云うつもりかと些かでも眼をすわらせて窓から覗くだろう運転手の顔を待つ。バザーを点滅させて運転手席からこちら側に上体をずらせた男の表情はしかし意外なものだった。掛けていたマスクを下にさげたその顔にはどこか既視感がある。はて…と思いをめぐらす間もなく運転手が声をかけて来た。
「ようよう、おたく、田中氏じゃない?」ズバリと名を云われてますます戸惑いながらも私は返答した。
「え?あ、ああ…そうだけど、おたくは…?」
「ハハハ、やっぱりそうか。俺だよ、俺。山倉。覚えてない?」山倉?はて…とばかりなかなか思い出せない。しかしその顔と声には確かに見覚え聞き覚えがあった。
「ほら、川崎のさ、東扇島でUCCの物流をやってたじゃんよ、いっしょに」「ああ!」と俺は急速に彼のことを思い出した。云われるように確かに俺は今から20年ほど前、川崎市東扇島にあった大手の物流倉庫で、一時期フォークの運転手をやっていたのだった。彼もそうだったが業務請負の会社から派遣されてそこに来ていたのである。その後の20年間を、余りにも生々流転したもので、往時どこでもいつでも四面楚歌のような孤立状態にあった私に対し、殆ど彼のみが親しくしてくれていたのを、恩知らずにも失念していたのだった。なぜ親しくしてくれたのかは判らなかったが、とにかく万年孤独の中で彼の存在はありがたかった。
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