小さい頃に姉貴分だった彼女と再会したら同棲することになった件

守次 奏

本編

 相変わらずここの空には、遮るものがほとんどない。

 都会とは大違いだ。

 スーツケースを引きずりながら、おれは都会とも田舎ともいえない地元の駅をほっつき歩いていた。


「ここ、地元なんだけどなあ」


 いわゆる里帰りというやつは不思議なやつで、小さい頃は見慣れた景色だったはずのそれが、異質に見えてくるものなのだ。

 見慣れた場所に、今どれだけ使われてるか知らない公衆電話が寂しそうに佇んでいる。

 小さい頃は小学校の催しかなにかでテレホンカードを集めていたのを覚えているが、それしか知らない。


 いずれこいつも、時代の波に飲まれて撤去されるんだろう。

 変わらないものなんかないって、心の底じゃわかっていたはずなんだけどな。

 わかっちゃいたんだが、知ってる地元の景色が記憶の中にあるそれと齟齬を起こす度に、少しばかり悲しい気持ちになるんだ。


 そういえば、あの子は元気にしているだろうか。

 駅内に併設されているコンビニで煙草を買いながら、そんなことを考える。

 あの子、といっても、結婚の約束があるとか、なにが果たさなきゃいけない使命があるとか、大層な話があるわけじゃない。


 そんなのはフィクションの中だけで十分だ。

 話を戻そう。

 要するに、よくある話だ。おれにも小さい頃には幼馴染と呼べるような関係性の女の子がいて、小さい頃は実の姉貴みたいに慕っていた。


 ただ、それだけの話だ。

 時代に取り残された公衆電話を見て、少しだけ湧いてきた感傷。あの子だけはこいつと同じであってほしいと思う、ささくれ立った願い。

 おれもあの子も、きっと変わってしまった。


 例え再会したって、昔みたいにはなれないだろう。そもそもお互いいい歳だからな。

 少なくとも煙草が吸える程度には歳をとった今、スーツを着て、昔みたいに野山を駆けずり回るなんて真似はできないししたくない。

 昔といえば、駅前で煙草を吸ってた大人は結構いたもんだが、今じゃ狭苦しい喫煙所に隔離されている。


 嫌なことに時代の波を感じる度、歳をとったな、という気分にさせられる。

 おれたちが過ごした美しくも儚い青春が、いつしかセピア色のアルバムにしまわれてしまうようで。

 語る側から、語られる側になって、最後は忘れる側から忘れられる側になっていくのがさ。


 そういうのが、嫌なんだよな。


 狭くて煙草臭い喫煙所でライターをスーツの内ポケットから取り出しながら、他愛もないことを考えてしまうのも、地元に戻ってきたせいだろうか。

 都会に留まり続ける選択肢がなかったとはいわない。上司にも引き止められた。

 でも、おれはあの狭苦しさと息苦しさに耐えられなかったんだろうな。


 耐えられなかったのに、未練を捨てきれていない。

 どっちつかずの自分が、実に腹立たしく、そして虚しい限りだった。

 そんな具合に、湿気ったことを考えていたせいだろうか。


「ちっ……火がつかねえ」


 ライターも買っておけばよかったな、と、一向につく気配のないフリント・ホイールを回しながら舌打ちをする。

 かといってわざわざコンビニまで引き返すのも負けた気がするから癪だった。

 おかしいな、新幹線を待ってたときはついたはずなんだけどな。


「あのー、よかったら使いますかー?」


 悪戦苦闘すること大体五分。

 あまりにも意地になるおれの姿が見苦しかったのか、どこか気だるげな声がそう呼びかける。


「ご親切に、どうもありがとうございます」


 そう言って自分のジッポーを貸してくれたのは、おれより頭一つ小さいぐらいの女性だった。

 黒いワンピースに黒髪ロング、そこに紫色のインナーカラーを差し込んだその出立ちは、失礼な言い方にはなるけど、大分陰鬱だった。

 世の中の全てを諦めていそうな死んだ目には光がなく、メイクで隠してはいるが目元にはうっすらクマが浮かんでいる。


「……ふう、いやー、助かりましたよ。渡りに船ってやつですね」

「そうですかー、よかったですねー」

「ええ、本当に」


 その厭世的な感じは態度にも表れていた。

 恩を着せられた側ではあるにしても、随分と突き放したような言い方をするな、と、少し感情的になりそうになるのを堪えて笑う。

 文字通りの営業スマイルだ。


「昔も忘れ物をしたとき、女の子に助けられたことがありましてね。給食着だったかな? わざわざおれの家まで戻ってとってきてくれたんですよ。学校を抜けてまでね。こうしているとなんだかその頃を思い出してしまいそうですよ」


 営業マンにとって、喫煙所はコミュニケーションルームみたいなものだった。

 だからだ。愛想の欠片もない女性に、昔話をぶっちゃけてしまったのは。

 つまらん話だと聞き流してくれればそれでよかった。だが、彼女は驚いたように目を見開いて。


「……もしかして、──くん?」


 昔に聞いた声音で、おれの名前を口に出す。

 聞き間違えようもなかった。

 酒灼けしていて、煙草で荒れたのであろう喉から出力されたその声は、昔と寸分違わないとまではいかなくとも、確かな面影を残していた。


「──先輩ですか?」


 おれもまた、恐る恐るといった具合で彼女の名前を問うように確かめる。

 なにか悪い冗談か、そうでなければ変なものでも食わされたかのような感覚だ。

 いっそ人違いであってくれれば、幸せだったのかもしれない。


 そうすれば、おれが恥をかくだけで済むから。

 だが、現実はなによりも残酷に物語る。

 見つめる先にあった先輩の顔は、涙にくしゃくしゃに歪んで、言葉では言い表しがたい感情が滲んでいた。




◇◆◇




「……君にだけは見られたくなかったんだけどなー」


 昔は短かった髪を人差し指にくるくると巻き付けながら、先輩は溜息と共に自嘲する。

 そこら辺のファミレスで、おれと先輩はなにをするでもなくただ駄弁っていた。

 引っ越し先のアパートに家具を運び出すのは明日だから別に予定らしい予定もないからちょうどよくはあった。


 ただ、正直変わり果てた先輩となにを話していいのか、おれにはよくわからなかった。


「イメチェンですか、昔はこうなんか……」

「ボーイッシュな格好してた、でしょー」

「少なくとも女だって名乗られないとわからないぐらいには」

「そうだねー、きみは相変わらず面白いねー」


 ついでに補足するなら、そういうことを言うような人でもなかったはずだ。

 もっとこう……直球に「つまんねー!」って喚き立てるようなタイプだった。

 もしくはキレるか。それを確かめたくて大分失礼な危険球を投げてみたのだが、結果は見ての通りだった。


「先輩は変わり果ててしまいましたけどね」

「……やっぱ突っ込まれるよねー、そういう無神経なとこ、昔から変わってない」

「似合ってるとは思いますよ」


 適当に注文したアラビアータをフォークでくるくると巻き取りながら、おれは先輩にお世辞を送る。

 営業時代に培ったトークテクニックだ。

 おかげで嘘やおべんちゃらばっかり得意になってしまった。


「……そ、そう……」


 先輩はそれだけ答えると、煙草に火をつけて吸い始める。

 おれが言えた義理じゃないけど、煙草を吸いながら食べるティラミスは美味いんだろうか。

 しかしまあ、昔の先輩が言われなければ女の子だとわからなかったというのは体つきの話もなんだが、そこも含めて変わっていた。


 気怠そうに机の上には無造作かつ無防備に大きな胸が乗せられていて、正直目のやり場に困る。

 三日会わなければ刮目して見なきゃいけないのはどうやら男だけじゃなかったらしい。


「……どこ見てるのー」

「胸ですね」

「……君、昔から本当に無神経だよねー」

「おれだって一応は男なんですよ、先輩が気を遣わなさすぎるだけです」

「……別にどうでもいいからねー」


 溜息と煙草の煙を一緒くたに吐き出しながら、先輩はそうこぼす。

 そういう口ぶりをするというのは、どう考えてもどうでもよくないからのはずなんだが。

 とはいえ、おれが考えても詮無いことだ。


 昼間からデキャンタで注文した赤ワインを湯水のように煽りながら、いい感じに考えがぼやけていくのを感じる。

 さて、目の前に置かれた課題はいくつかある。

 まず新居のこと。入居予定が明日だから、今日一日、雨風凌げる屋根の下を探さなきゃならない。


 次に先輩のこと。

 冷たい言い方をするなら、正直関わらなくても別にいいといえばいい。

 ただ、彼女の格好は、まるで先輩自身がなにか助けを求めているように思えてならなかった。


 それを放っておいて「じゃあお元気で」なんて一言で済ませるのも気分が悪い。

 小鳥が餌を啄むみたいにちまちまとティラミスをつついている先輩に視線を向ける。

 昔と変わらず美人だな。すっかり擦れてしまったみたいだけど。


「……なーに、さっきからじろじろ見て」

「いや、なんか困り事とかあるのかなあと思って」

「それって、営業マンとしての勘ってやつー?」


 露骨に気怠そうな様子を見せて、先輩はおれにそう問い返してくる。

 別に勘、ってほどでもないんだけどな。

 久々に再会した幼馴染が別人みたいに変わり果てていれば、驚きもするし心配もする。


 例えば、中学の頃は清楚だった子が同窓会で会ったときにはイケイケのギャルになってたときとかさ。

 それに近いんだよ。

 別に望んで先輩が今の姿になったっていうならおれから言えることはなにもない。


 幼い頃の幻想なんて、儚いものだからな。

 でも、そうじゃないと。

 それこそ、営業マンとしての勘なのかそうでないのかはわからないけど、おれの中でなにかがそう告げているのだ。


「まあ、そんなところです。営業マンとして……というよりは、おれ自身の勘ですけど」

「……君は変なところで鋭いよねぇ、普段は鈍ちんなのにさー」

「そうでしたっけ?」

「そうでしたよー」


 察しが悪いと言われたことはそんなにないんだけどな。

 でも、自分から見た自分と他人から見た自分なんてものは大概ズレているものだ。

 あるいは本当に、なにかを見落としたまま今日の今日まで過ごしてきたと考えると、ぞっとするけどさ。


「……私ねー、結婚してたんだー」


 煙草の煙を気怠げに吐き出しながら、背もたれに体重を預けた先輩が呟く。


「初耳ですね」

「驚いたー?」

「正直マジで驚きましたよ、手紙ももらってなかったですし」

「だって私ー、君の住所知らないしー」


 それもそうだ。

 先輩とは今日、十何年ぶりに再会したばかりなのだから。

 とにもかくにも、先輩は既婚者だったらしい。


 その情報に少し胸焼けじみた感覚を抱いたのは、おれが未だに未婚だからだろうか。

 口酸っぱく結婚しろと言ってきた親もなにも言わなくなってきたし、いよいよおれが末代で決まりだと腹を括ってもいたんだけどさ。

 でも、あの先輩が──小さい頃、実の姉みたいに慕ってた女性が自分の知らない誰かと結婚していると考えると、もやもやする。


「祝った方がよかったですか?」

「……いや、全然。だって今ー、私バツイチだし」


 先輩は短くなった煙草を灰皿に押しつけながら、なにかを諦めたように苦笑した。

 まずいことを言ってしまったようだ。

 どうしたものかな、と返す答えを頭の中から探っていると、先輩はおれのワイングラスに手をつけて、ぽつぽつと語り始める。


「まー、なんて言えばいいのかなー……幸せな結婚だったのなんて、最初の三ヶ月ぐらいでさ。気を引くために色々やったりとかもしたけど、全然上手くいかなくて」


 あんまり気持ちいい話じゃなくてごめんねー、と先輩は茶化してみせた。なにも隠せていないし、粧せてもいないけど。

 それが今の格好やらなにやらに繋がっているんだろうか……というより、繋がってるんだな。ほぼ百で。

 結婚は人生の墓場だ、なんて上司は自嘲していたけど、墓場であるだけまだマシなのだろう。


 最後にはちゃんと、安息が訪れるのだから。

 こうして墓場にもなりきれず、傷になるだけの結婚もあるんだから、それに比べれば上等だ。

 不謹慎だが、そんなことを考えてしまう。


「つらかったですね」

「……つらかったよー、とっても」

「それで、おれにはなにが出来ますか。先輩」


 ここでなにもないよ、と答えられたら、素直にそれを受け入れて去るだけだ。

 それでもまだ、なにかが出来る余地があるからこそ、先輩はおれにそんな話を打ち明けてくれたんじゃないだろうか。

 思い上がりといえばそれまでだ。実際、それ以上でも以下でもないのだから。


 それでも。万に一つだったとしても。

 目の前で点滅しているSOSのサインに対して見て見ぬふりをしたら、人間として終わりなんじゃないかと、そう思う。

 ただの取り越し苦労なら、おれが恥をかくだけで済む。そうじゃなかったら、あまりにも寝覚めが悪い。


 つまりは、そういうことだった。


「……君はさー」


 数分間続いた沈黙を破って、先輩が口を開く。


「はい」

「……誰かを幸せに出来るって、本気で思ってる人なわけー?」

「どうでしょうね、そういう経験なんて情けないことにほぼないですし」

「……だと思った」

「大分失礼なこと言われてますよね?」

「でも事実じゃん」


 そりゃそうだけどさ。

 おれが他人を幸せに出来たかどうかなんて、わかるはずもないだろう。

 営業先といい関係を持てたときとか、上司の長話をひたすらにこやかに取り繕って聞いたりしたときとか。


 思い出すのはそういうことばかりで、多分先輩が言うような、誰かの心を満たせるかどうかって意味での「他人の幸せ」なんて。

 そんなものなんて、他人の心を覗きでもしない限り、わかるわけないじゃないか。

 だとしても、それでも、と、そこで踏みとどまることをよしとしないで噛みつきたがっているのは、おれにもまだ若さが残っていることの証明なのかもしれない。


 酔っ払ってるせいかもしれないけどさ。

 単純に、実の姉みたいに慕ってた人の不幸に寄り添えないほど、人間やれてないつもりはないんだよ。


「……語るねー」

「語ってしまいましたね」

「……じゃあさ、一つだけ賭け事をしてみない?」


 先輩は焦点が定まっていない瞳で、とろけるようなその目で、おれを真っ直ぐに見つめて誘う。


「今夜一晩、私を幸せにしてみせて。それが出来たら君の勝ちー」

「できなかったらおれの負けですか。で、なにを賭けるんですか?」

「人生とかどうかなー」


 自販機に百円玉を入れるような感覚で、先輩は主語が大きい提案を持ちかけてくる。

 人生を賭けるってなんだろうな。

 賭けに負けたらおれはどうなるんだ?


 聞いてみたいことは色々あった。

 だけど、それを聞くのは野暮というものだ。

 賭けに勝って手に入るものも具体的にはわからない。負けてなにを失うのかも同様の賭け事。


 普通なら蹴るか、条件をもっと具体的に詰めるかするところだろう。

 でも、これでよかった。

 まるで、小さい頃、学区外に繰り出すのがちょっとした冒険だったように、未知というのは一つの旅だ。


「乗りましたよ、先輩」

「……後悔しない?」

「どうですかね」

「私を捨てた人は、私といた時間を後悔してたけどねー」

「まるでおれが先輩を捨てるみたいな言い方ですね」

「君は優しいから。彼も優しかったから」


 優しさに絆されるのが嫌になったんだ、と、吐き捨てて、先輩は煙草を取り出そうとした。


「……あー、切れちゃったかー」

「おれのでよければ吸いますか」

「ブランドはー?」

「ラッキーストライク」

「気取ってるね」

「験担ぎですよ、縁起いい名前でしょう?」

「それが気取ってるっていうんだよ」


 日の丸模様に似ているパッケージから一本煙草を取り出して、おれは先輩に差し出した。

 気取ってるつもりはなかったんだが、生憎おれにこの煙草はそう見えるらしい。

 火をつけた煙草の煙を吸い込んで、先輩は「まっず」と短く吐き捨てる。


「……焦げたパンみたいな味」

「そうですね、的を射てます」

「……でも、ありがと。それじゃ行こっか」

「行くって」


 どこに、と、危うく口に出しかけたが、それは野暮だと気づいたことで踏みとどまった。

 これから始まるのは互いの人生をチップにした、曖昧な賭け事なのだから。




◇◆◇




 ぼんやりとした微睡みの中で思い返していたのは、幼い頃の記憶だった。

 おれたちは、虫あみと虫かごを担いで学校の裏手にある小さな山を駆け回っていた。

 本当にカブトムシやらクワガタムシやらがこんなに小さい裏山にいるのかは今考えてみれば疑問だったが。


 なのだが、その頃の俺は先輩の──花乃ちゃんのことを、信じて疑わなかったんだ。

 当たり前のように何時間も走り回って、なんの成果もなくても、笑っていられた。

 そして、決まって夕暮れ時になると約束を交わすのだ。


『また明日ね、ゆーくん!』

『また明日、花乃ちゃん!』


 また明日、と。

 思えばあの頃は、明日がいつだって待ち遠しかった。

 客観的に見れば変わり映えのない日々だとしても、明日はどんな冒険が待っているのか、楽しみで仕方がなかったんだ。


 いつからだろうな、明日なんて来なければいいとぼんやり考えるようになったのは。

 死にたいわけじゃない。

 でも、ただ生きていくのが嫌になったとしか表現しようがない、漠然とした感覚。


 そんなものを抱きながら、嫌な気持ちで出社し続けることに疲れ果てて──だから、帰ってきたのかもしれない。

 地元に戻ってきたら、あの頃みたいな輝きが待っててくれるのかもしれないと。

 実際はそんなことなんて、あるはずもないのにな。


 キャビネットに置いていたミネラルウォーターを寝そべったまま飲み下して、小さく溜息をつく。

 おれたちの人生を賭けたなにかしらは、結局のところ勝ち負けの判断がつかないままだった。

 続いているのかもしれないし終わっているのかもしれない。そうでなければ始まったんだろうか?


 わからない。

 酩酊した感覚と体を突き動かしていた熱が、まともに考える力を奪っていた。

 正気に戻れとでもいいたげに、引っ掻かれた背中が軽く痛む。噛まれた肩が鈍く痛む。


「こうしてると、昔に戻った気がするね……ゆーくん」

「そうですね、先輩」

「……意地悪」


 思い出の中にいる花乃ちゃんは髪を染めたりしないし、煙草も酒もやらないような真面目な子だった。

 それを今の先輩と同一視しろっていうのは無理がある。

 でもさ、多分人生賭けられるかって、そういうことなんだよな。


「なんで勝負下着なんか履いてたんですか」

「……さあ、なんでだろうねー」

「……先輩には、滅茶苦茶似合ってましたけど」

「滅茶苦茶にされちゃったしねー」


 だとしても、記憶の中に生きている花乃ちゃんはもっと可愛らしいのを選んだんだろうな、と考えてしまう自分が気持ち悪かった。

 だからだ、目を逸らしてしまったのは。

 そんなおれの初心なところを見透かしたように、先輩は笑う。


「あっはは……涙出てくる。久しぶりに笑った」

「それは……先輩が悪いんですよ」

「そうだね、私は悪い女の子になっちゃった」


 そんなとき、本当はどうするべきだったのか。

 正解は多分、叱ってあげることなのだと思う。

 だけど、そうして元に戻るにはもう遅すぎた。おれも、先輩も。


 だったら。


「今回の賭けは私の負けだね。だって今、泣きたいぐらい幸せだもん」

「……」

「だからさ、最後にもう一回だけ……もう一回だけでいいから、『花乃ちゃん』って呼んでくれるかな。ゆーくん」


 悲しげに目を伏せて、先輩はおれの胸板に顔を埋める。

 滲んだ涙の熱が伝わってくる。

 もう戻れない、そして進むこともできないという諦めが、痛いほどに胸を打つのだ。


「先輩、ルールの確認ですけど」

「……どうぞ」


 先輩は、あからさまに不機嫌になる。

 仕方あるまい。おれは今、絶望的に空気が読めないことを言ってるんだから。


「勝ったらもらえるんでしたっけ、人生」

「……ん、そういえば全然考えてなかったなあ……まあでも嬉しくないでしょ、私なんかの人生もらったって」


 見ての通りアル中ヤニカスだし、パチカスだし無職だしバツイチだし、と、先輩は自嘲するように笑った。


「それでいいですよ、だからおれに人生ください。花乃」


 真っ直ぐに先輩の瞳を覗き込んで、おれは一息にその言葉を投げつけた。

 変わるときが来たんだと思う。

 あの公衆電話を撤去するように、過去の残影を振り払うように、おれと、先輩──花乃も。


「……やだなあ、君にそんなこと言われたら、私……本気にしちゃうよ?」

「おれだって本気じゃなきゃこんなこと言わないですよ」


 変わっていく。

 移ろいでいく。

 季節も人も、そうしていつか語る側から語られる側になって、忘れる側から忘れられる側になって。


 それはどれだけ嫌でも避けられない。

 だから、せめて最期の瞬間ぐらい、誰もが忘れていた思い出を胸に「悪くなかった」って思える方がいい。

 今の花乃は、そうじゃないから。今にも「つまらなかった」って思って死んでしまいそうだったから、おれは。


「人生の墓場ぐらいにはなれますよ。野垂れ死ぬより上等です」

「そっか……君は変わらないねって思ってたけどさー、変わってるじゃん。ちゃんと」

「だったら……よかったです」


 ちゃんと、好きな人を好きだと言えていたら。

 それが言えなかったあの日のやり直しだとしても、たまたま出会った二人が演じる、傷の舐め合いという名の、道化芝居だとしても。


「うん。私の人生あげちゃう。だから、もう一回……名前、呼んでくれるかな」

「何回でも呼びますよ、花乃」

「……ありがと、ゆーくん」


 がくり、と項垂れるように花乃はおれの胸に顔を埋めてすやすやと寝息を立て始めた。

 時刻は大体朝の三時ぐらい。

 チェックアウトには間に合うとして、家具の搬入をどうしようか──いや、どうとでもなるか。


 また明日。

 明日という時間に都合のいい期待を放り投げて、おれもまた眠りにつく。

 一糸も纏わない花乃と抱き合っていたせいか、不思議とよく眠ることができた。


 おかげで、鍵の手配とかには遅刻したんだけど、それも含めて、来てくれた明日は、今日になったその日は、悪くなかった。

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小さい頃に姉貴分だった彼女と再会したら同棲することになった件 守次 奏 @kanade_mrtg

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