最8話 大樹の精霊
憎い。スヴィークが憎い。
囁いたヴィトルに、ヴォンは心の中で答えます。
こいつさえいなければ、元の巣穴を追われて母さんが病気になることもなかったんだ。
アズリーも、群れから引き離されて辛い思いをすることもなかったのに。
許せない。
ヴォンの心は憎しみに囚われていました。
大切な仲間や母親のことを想うほど、その憎しみは強まっていき、果実によって命が蝕まれていく感覚すら感じさせないほどでした。
抑えつけたスヴィークを睨む目はさらに血走り、彼の喉元に突きつけられた爪が毛皮に覆われた皮膚に食い込みます。
「——もうやめて、ヴォン!!」
ヴォンの爪がそのままスヴィークを引き裂こうとした時、アズリーの悲痛な声が響きました。
「目を覚まして! このままじゃあなたが壊れちゃう! お母さんを助けるんじゃなかったの!?」
「……!!」
アズリーの言葉が、薄れていくヴォンの意識を引き留めます。
「そうよ、ヴォン! リースもあなたの帰りを待っているわ」
「らしくないぞ、ヴォン! いつものお前はどこにいった」
痛む体を起こし、フルーとスカルポも訴えかけます。
(みんな……! 母さん、リース……!!)
巣穴で待つ妹と母親の姿が、ヴォンの頭をよぎりました。
すると、混濁する意識の中、再びヴィトルの声が聞こえて来ました。
『どうした、何を迷っている。思うがまま、その爪でトドメを刺せばよい』
(……嫌だ!)
ヴォンは何かを振り払うようにうめき声を上げ、突きつけていた爪をおさめました。抑えつけていたスヴィークを解放すると、どうやらもう彼に抵抗する力は残っていないようです。果実の影響により衰弱しきってしまったようで、ぐったりとしています。
アズリーたちは、その様子を
『なぜじゃ? なぜそやつを許す必要がある』
再び問いかけるヴィトルの声に、ヴォンは答えます。
(許すつもりはないよ、ヴィトルさん。スヴィークは憎い。その気持ちは変わらない。でも……憎しみに身を任せてスヴィークを殺してしまったら、彼と同じになってしまう。彼らを襲った人間達のようになってしまう。そんなことしたら、リースと母さんが悲しむ気がするんだ)
そう答えたヴォンの心は、フェルリンデの森を照らす快晴の空のように澄み渡っていました。
『——正解じゃ、ヴォン』
「えっ?」
聞き慣れた優しく穏やかな声が聞こえたかと想うと、ヴォンは元の子熊の姿に戻り、キラキラとした空間にいました。いろいろな果物を混ぜたような色の光に覆われた空間です。ヴォンはそこが大樹の中だと、不思議と理解していました。
そして、目の前には杖をついたヴィトルが立っています。
『最後に正しい選択をしましたね、優しくて勇敢なヴォン。これで森は救われます』
そうヴィトルが発したのは、まるで女神のような声でした。
その瞬間、彼の姿がまばゆい光を放ちます。彼——いえ、彼女の姿は年老いたマンドリルから、たくさんの植物と花で作られたドレスに身を包んだ、美しい女性へと変わったのです。
ヴィトルの正体は、言い伝えに登場する大樹の精霊だったのです。
ヴォンが言葉を失っていると、精霊は言います。
『驚かせてごめんなさい。私はあなたのことを、ずっと見ていました。オオカミたちが森にやってきてから、ずっと』
「どういうこと……?」
『探していたからです。邪悪なスヴィークによって壊されてしまった、森のバランスを正す者を』
精霊は続けます。
『本当は、果実なんて存在しないのです。もしそんなものがあるとすれば、それはあなた達の心の中にある』
そう言うと、精霊は花が咲いた杖をヴォンへと向けました。
それは、かつてヴィトルがヴォンに聞かせた果実への手がかりのようでした。
『あなた達の他の動物や森を思いやる正しい心こそが、豊穣の果実なのです。フェルリンデの森は、そうして豊かさを保ってきたのですよ。ですが、スヴィークの企みによってその心は失われ、森は枯れつつありました。そこで、母親を思うあなたの優しい心に託すことにしたのです』
精霊の口から語られたのは、抽象的な言い伝えとなって知らされていた、フェルリンデの森の真実でした。
『あなたは私が見込んだ通り、正しい選択をしました。憎しみで我を忘れることもなく、果実の誘惑に打ち勝ってみせました。あなたや仲間の絆があれば、この森は安泰です』
言い終えた精霊は再び光に包まれます。それは彼女が眠りにつくことを意味していました。
「精霊さん、待って! 母さんを——」
『大丈夫。あなたの願いはもう叶っているのですから』
ヴォンは願いを口にしようとしますが、精霊が放つ光はさらに強くなり、なにも見えなくなってしまいます。ですが、彼女が最後に残した言葉は不思議とヴォンを安心させました。
「——ン。……ォン! ねえヴォン! 起きて!!」
必死に呼びかける声で、ヴォンは目を覚ましました。重いまぶたを開けると、潤んだ瞳で覗き込むアズリーがいます。フルーにスカルポ、フィーブルも心配そうにヴォンを見ていました。
「ん……アズリー……みんなも……」
「ヴォン! よかった!」
ヴォンが目を開けるなり、アズリーは泣きながら抱きついてきました。フルーたちも口々に彼の無事を喜んでいます。
「一体何があったの? 急にあなたが光に包まれて目を閉じたら、体は軽くなっているし枯れた森も元通りになっていたわ」
フルーが不思議そうに尋ねます。まさかと思いヴォンが体を起こすと、枯れていたはずの植物は以前に増して青々と生い茂り、地面はふかふかのベッドのようでした。フルー達の怪我もすっかり治っています。そこには、すっかり元気になって娘に寄り添うヤズルの姿もありました。
「群れを代表して礼を言おう、ヴォン。君のおかげで、私もアズリーも助かった。ありがとう」
穏やかな口調で言うヤズルは威厳に溢れ、凛々しくもたくましいオオカミたちのリーダーとしての本来の姿に戻っていました。潰れた右目は変わっていませんが、その奥は笑っているようでした。
「ヤズルさん……! よかった、元気になったんだね! ——そうだ、スヴィークは? 彼はどうなったの?」
「ここにいるわよ」
ヴォンがキョロキョロしていると、アズリーがオオカミの赤ちゃんを咥えてきました。
「えっ、これがスヴィーク?」
変わり果てた姿にヴォンは驚きます。スゥスゥと静かな寝息をたてて眠る姿にかつての邪悪さは見る影もありませんが、灰色のボサボサした毛並みはそのままでした。
ヴォンが元の姿に戻ったように、スヴィークは赤ちゃんオオカミへと姿を変えられてしまったようです。それはまるで、精霊がヴォンの殺したくないという気持ちを汲んだかのようでした。
「なにが起こったかは知らないが、彼は我々が責任をもって見守ることにした。もう二度と、同じ過ちは起こさせない」
代弁するように、ヤズルが言います。そして彼は、こう続けます。
「ヴォン、アズリーから我々のことは聞いたそうだな。そこでだ。……そんな資格はないだろうが、一つ頼みがある」
その後に続く言葉は、ヴォンには分かっていました。
「……それは僕が決めることじゃないよ、ヤズルさん。フェルリンデの森はみんなのものなんだから。でも……そうだね。僕も、アズリーと会えなくなるのは嫌だな」
ヴォンがそう言うと、アズリー頬を赤らめて、照れくさそうに笑いました。フルーたちも顔を見合わせ、笑っています。行き場を失くしたオオカミたちが初めて受け入れられた瞬間でした。
平和を取り戻した森の動物たちを祝福するように、大樹は輝きを取り戻していました。青々とした葉が茂り、色とりどりの花が咲き乱れています。ヴォンには、大樹の精霊がにっこりと微笑んでいるかのように見えました。
「——そうだ……戻らないと! みんな、また後でね!」
仲間たちと喜びを分かち合い、ヴォンは思い出したかのように走り出します。
「おいヴォン、どこいくんだ!」
「ばかね、そんなの決まっているでしょう」
呼び止めるスカルポにフルーは呆れながら言います。
「ありがとう、ヴォン!! 今度、パパと一緒に会いにいくからね!」
アズリーは満面の笑顔で、ヴォンを送り出しました。
彼の行き先は、一つしかありません。
明るくなった洞窟を走り抜け、地上へ。豊かさを取り戻した森には住みかを追われた動物たちの姿がありました。晴々とした空を飛びまわる鳥たちは祝福の歌を歌っているかのようです。
森の中心部を過ぎても、緑の世界は終わりません。もの寂しかった外縁部にはもう雪は残っておらず、枯れた枝葉で覆われていた地面にはかわいらしい花々が咲いています。
森から完全に離れても、その景色は続いていました。精霊の力は、ここまで及んでいたようです。すっかり森の一部となった平原を、ヴォンは目を輝かせて走り抜けていきます。
夢中で走り続けるうち、彼が暮らす巣穴が見えてきました。森が元の姿を取り戻した今、そこで暮らすのも今日が最後になりそうです。
巣穴に近づくと、その前にはまだかまだかと兄の帰りを待ち侘びる妹のリースの姿がありました。
ヴォンが走りながら妹の名を叫ぶと、リースも兄の名を呼び駆け寄ってきます。そしてその後ろから、元気になった母親が出てきました。キョロキョロと辺りを見回し、唐突な春の訪れに驚いているようです。
出迎えた妹と母親に飛びつくなり、ヴォンは嬉しそうに言います。
「聞いてよ母さん! リース! 僕は今日、すごい冒険をしたんだ!!」
「あらあら、なんだかたくましくなったわね、ヴォン。あなたが取ってきてくれたハチミツでも食べながら、ゆっくり聞かせてちょうだい」
「わたしも聞きたい!」
そうして、喜びを分かち合ったヒグマの親子は巣穴の中へと戻っていきました。
日が落ちて夜になり、空が星々で埋め尽くされた後も、巣穴からは興奮した様子で自身が体験した冒険譚を語り聞かせるヴォンの声が止みませんでした。
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