第2話 豊穣の果実
フェルリンデの森には、ある言い伝えがあります。
——昔々、一匹の仔熊がいました。
子熊は母熊と二匹だけで暮らしていました。母熊は病弱で寝たきりでしたが、優しくて勇敢な子熊は母熊のそばを離れず、付きっきりで看病していました。
ある日のことです。目を覚ました子熊が母熊の様子を見ると、母熊はひどく弱っていて、今にも死んでしまいそうでした。
子熊は母熊に元気になってもらおうと、森のあちこちを駆け回り食べ物をかき集め、母熊に食べさせました。ですが、母熊の容体は変わりません。
途方に暮れた子熊は森を見守る精霊が宿るとされている、森の中心に聳え立つ大樹に祈りを捧げました。
『森の精霊様、どうか僕のお母さんを元気にしてください』
子熊がわらにもすがるような気持ちでそう願うと、大樹は不思議な光に包まれ、子熊の目の前にキラキラと光り輝く果実が落ちてきました。そして、透き通るような声が響きます。
『優しくて勇敢なあなたに、この果実を与えましょう。この実を一口でも口にすれば、あなたのお母さんはきっと元気になりますよ』
それを聞いた子熊はとても喜びました。この実を持ち帰れば、また母熊の元気な顔が見られる。そう思い果実を咥え、巣穴に帰ろうとすると——
『ただし』
さっきまでとは違い、ひどく冷たい声色で精霊は言います。
『その果実は、森に恵みを与えています。森の命でもある果実を食べたらあなたの母親は元気になっても、森は枯れてしまうことでしょう』
子熊は迷ってしまいます。
母熊を救いたいと願う一方、森には子熊の友達である動物達がたくさん暮らしていますし、慣れ親しんだ土地が枯れてしまうことは子熊にとってとても辛く、悲しいことです。
『——ですが、あなたの母親とこの森、どちらも救う方法があります』
思い悩む子熊を見て、精霊は言いました。
『その方法とは、あなた自身が新しい果実となることです。まだ若くて生命力に満ち溢れるあなたが新しい果実となれば、森の恵みが失われることなく、母親の命も救うことができますよ』
まるで悪魔の囁きでした。
精霊は、犠牲を出したくなければ自分自身の命を捧げろと言うのです。
誰もが躊躇してしまうような選択肢でしたが、子熊の心は少しも揺れ動きませんでした。
愛する母熊を救い、大切なフェルリンデの森を
子熊の純粋な愛に心を打たれた精霊は、もっていた不思議な力を全て大木に注ぐことで、果実がなくなっても森に変わらず恵みを与え続けられるようにしました。
こうして、優しい子熊は無事に果実を巣穴へと持ち帰り、すっかり元気になった母熊と仲良く暮らしていくことができました。
そして子熊が持ち帰った果実は『豊穣の果実』と呼ばれ、優しい心をもった者の願いに応える伝説の果実と噂されるようになりました。
豊穣の果実を実らせるという大樹は精霊の意思がまだ生きているかのように、フェルリンデの森に暮らす動植物に恵みを与え続け、今でも森の中心にひっそりと佇んでいます。
ヴォンは短い手足を必死に動かし、フェルリンデの森へと急ぎます。
幼い頃、母親から子守唄代わりにこの言い伝えを聞かされていたヴォンは、疑うことなく豊穣の果実の存在を信じていました。
そして、その豊穣の果実なら弱った母親を救えると思ったのです。
ところどころ雪が残った広大な平原を駆け抜け、冷たい川の水でびしょ濡れになりながらも進み続けると、細長いモミやマツの木が立ち並ぶフェルリンデの森の外縁部へとやってきました。
すると、走り続けるヴォンを大きな影が覆いつくします。
「——おい、ヴォン! そんなに急いでどうした?」
大きな翼を広げ、空から声をかけたのはハクトウワシのスカルポでした。ヴォンをよくからかうお調子ものですが、彼にとって大切な友達でした。
「僕にかまわないでよ、スカルポ! 僕は“豊穣の果実”を見つけに行くんだ!!」
「はっはっはっ! 豊穣の果実だって? そんなものあるわけないだろう、ただの伝説さ」
スパルポは走り続けるヴォンの頭上を飛びながら笑います。豊穣の果実の言い伝えを信じる者は少なく、彼もそうでした。
「……母さんが病気で、起き上がれないんだ。でもきっと、果実を食べさせれば元気になるはずなんだ」
走ることをやめてとぼとぼ歩きだしたヴォンを見ると、スカルポはすぐ近くの枝に留まります。
「あー……そうか、そいつは悪かった。でも、果実を見つけるなんて無茶だ。俺も言い伝えでしか聞いたことがないし、本当に病気が治るかなんてわからないじゃないか」
「……そうだ、ヴィトルさんなら果実がどこにあるか知ってるかもしれない! スカルポ、どこかでマンドリルのおじいさんを見なかった? 今朝、この辺りで会ったんだけど」
「ヴィトル? 誰だ、そいつは。そのじいさんなら、果実の在りかを知ってるっていうのか?」
「わからないけど、ヴィトルさんはこの森に詳しいんだ。なにか手がかりを教えてくれるかも」
「へえ、そうかい。まあ、俺には関係ないけどな。せいぜい頑張るんだな」
スカルポはそう言って飛び立とうとしますが、ヴォンは引き止めます。
「頼むよスカルポ! 果実を一緒に探してよ!」
「嫌だね。果実を探すってことは、森の中へ行くんだろう? 狼達がウヨウヨしてる危険な場所に、どうしてわざわざ行かなきゃならないんだ」
スカルポは冷たく言い放ちました。友達の頼みですら気が進まないほど、森の動物達にとって狼は恐ろしい存在なのです。
「そんな……」
「——わたしが一緒に行くわ」
ヴォンが落ち込むと、どこからか凛と透き通った声が響きました。
次の瞬間、白い影がヴォンの背後に現れたと思うと、華麗に宙を舞い、近くの岩の上へと躍り出ます。
美しい真っ白の毛並みに黒いまだら模様が入った、ユキヒョウのフルーです。
岩の上に優雅に座った彼女の姿は、雪原に君臨する女王のようです。
フルーは暑いところが苦手なので、温暖な森を避けて山脈に暮らしています。そこはヴォンたちが暮らす巣穴が近いため会う機会も多く、特にリースはフルーを慕っていました。
兄妹にとって、フルーは優しくて頼りがいのあるお姉さんのような存在なのです。
「フルー! よかった、ありがとう!」
思わぬ助っ人に、ヴォンは目を輝かせて喜びました。
「リースから話は聞いたわ。お母さんを元気にするためにも、すぐに出発しましよう。『兄さんを守ってあげて』と頼まれてしまったし、わたしだってあの子の悲しい顔は見たくないもの」
ヴォンが巣穴を飛び出したあと、フルーは娘のように可愛がっているリースに会うために巣穴を訪れていたのです。そして事情を聞いた彼女は、急いでヴォンを追いかけてきたのでした。
「おやおや、お嬢さんは暑いところが苦手じゃなかったかい? その毛皮を脱げばいくらかマシになるんじゃないか」
皮肉屋のスカルポは、そう言ってフルーをからかいます。ですが、すぐにこの場から去っていかないあたり、彼はどこか迷っているようです。
「この子達のためならそんなの関係ないわ。……もしかして、あなた怖いの?
そんなだからメスにモテないのよ。臆病なワシは放っておいて、行きましょう、ヴォン」
「あ、待ってよ!」
フルーはため息を吐きながらスカルポに向けてそう言うと、岩の上から降り、風のように森の中へと走り出しました。ヴォンもそのあとに続きます。
「……おいおい、この俺が臆病だって? ふん、言ってくれるじゃないか!! この勇敢なスカルポ様に、怖いものなんかありはしない! ああ、わかった、行けばいいんだろう、行けば!」
すっかりフルーの挑発に乗せられたスカルポは森を駆ける二頭を追い抜き、大きな翼を羽ばたかせながら先頭に躍り出ました。
「言い伝えによれば、果実を実らせる大樹は森の中心にある! 早くしないと置いていくぞ!」
そう言うと、スカルポはさらに加速します。
フルーはそんなスカルポを見て、してやったりと言わんばかりに、隣を走るヴォンにウインクしました。
こうしてヴォン、フルー、スカルポの三匹は、本当に存在するかもわからない豊穣の果実を求め、フェルリンデの森の中心を目指すのでした。
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