フェルリンデの森

琳堂 凛

第1話 フェルリンデの森

 聳え立つ高山に囲まれ、その森はひっそりと存在していました。


 たくさんの動物達が暮らす、フェルリンデの森です。


 周囲を取り囲む険しい山々のおかげで人間は滅多に立ち入らず、動物達にとっては楽園のような場所でした。


 そんなフェルリンデの森には、ある掟がありました。


 一つは、森に暮らす仲間同士で争わないこと。


 そしてもう一つは、万が一人間の姿を見ても、決して近づかないこと。


 その二つの掟を守り、森の豊かな恵みもあって動物達は平和に暮らしていました。


 しかし、その平和は異郷からやってきた凶暴なオオカミたちによって、突然脅かされてしまいます。


 オオカミたちは森へ入るなり次々と動物たちのすみかを踏み荒らし、抵抗する者がいれば容赦なく襲いました。


 なかでも群れのリーダーである。ヤズルという大きくて黒い毛並みの狼は、潰れた右目に深い傷痕があることから“傷顔スカーフェイス”と呼ばれ、動物達から恐れられる存在でした。


 今まで外敵と戦ったことのない温厚な動物たちが、獰猛な狼たちに敵うはずがありません。


 こうして動物達は食べ物の乏しい森の外へと追いやられ、ひっそりと暮らすことを余儀なくされてしまったのです。





 それから長い冬が終わり、森を流れる川が山脈から流れる雪解け水で満たされる、春の季節のこと。。


 ひんやりと空気が冷たい早朝、まだ少しだけ雪が残る森の中を、冬眠から目覚めた一匹の子熊が歩いています。


「——においが近づいてきたぞ。もう少しだ」


 そう言うと、子熊はヒクヒクと鼻を動かしハチの巣を探しながら、短い足をせかせか動かします。


 彼の名前はヴォン。


 フェルリンデの森に暮らす、優しくて勇敢な子熊です。


 いえ、森で暮らしていた——というべきでしょうか。


 狼たちが森のほとんどを支配してしまったせいで、母と妹と暮らしていたヴォンは森の外へと追いやられてしまったのです。


 ヴォンたちが新しくかまえた巣穴は周囲の山脈に近く、森の中と違って食べ物に乏しいのです。


 十分な食べ物を蓄えられず春を迎えてしまったため、彼の母親はお腹を空かせて動くことができませんでした。


 空腹な母親に食べ物をあげるために、彼はこうして危険を顧みず森の中へとやってきたのです。



「——どこへ行くつもりじゃ、わんぱく坊主」


「うわっ!!」


 突然聞こえた声に、ヴォンは思わず声を上げました。


「驚かさないでよ、ヴィトルさん!」


 ヴォンが声のした方を見上げると、太い木から伸びた枝に腰掛ける年老いたマンドリルがいました。彼の名はヴィトル。フェルリンデの森のことならなんでも知っている、物知りなおじいさん猿です。


 そして、彼の片手にはとろりとした蜂蜜が垂れた蜂の巣が乗せられています。


「ヴィトルさん、そのハチの巣……」


 ヴォンが彼の手に乗せられた蜂の巣を物欲しそうに見ると、ヴィトルは察したようにフォッフォッフォッと笑いました。


 朝日を浴びてきらめくハチミツに、ヴォンの視線が釘づけになります。


「これか? どうせお前さんがまた無茶をすると思ってな、一足先に調達しておいたよ。欲しいか?」


 幼い頃からヴォンの無鉄砲さをよく知る彼は、一足先にハチミツを手に入れていたようです。


「欲しい!!」


 ヴォンは目を輝かせて答えます。


 それを聞いたヴィトルは、するすると身軽に地面に降りてきました。


 そしてヴォンに歩み寄ると、優しく諭すように話し始めます。


「よいか、今後は母親の言いつけを守れ。森の奥は狼たちがうろついていて危ないことくらい、おぬしも知っておろう」


「……うん、ありがとう!」


 ヴォンの笑顔を見たヴィトルはニコリと笑い、目の前に置いたハチの巣を大きな葉で包んでくれました。そうするとヴィトルは再び器用に木を登り始め、どこかへ行ってしまいました。


 ヴィトルからハチの巣を受け取ったヴォンは、巣穴への道を急ぎ足で引き返します。



 森の外に広がる平原を進み続けると、丘に掘られた巣穴があります。


 その巣穴の前にはヴォンによく似た子熊が一頭、彼の帰りを待つようにして立っていました。


「——あ、兄さん! おかえりなさい」


 ヴォンの姿を見ると、その子熊は嬉しそうに言いました。


 彼の妹の、リースです。


「母さんは?」


 ヴォンは咥えていたものを置くと、息を切らしながらリースに尋ねます。


「……まだ起きてないよ。なにか食べ物は見つかった?」


 すると、リースは残念そうに首を振り、言いました。


「ああ、もちろんさ!」


 ヴォンが自慢げに言うと、リースは葉に包まれた丸いものに鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎます。すると彼女の表情がパアッと明るくなりました。


「ハチミツの香りがする! それもこんなにたくさん!」


「母さんが起きたらびっくりするぞ」


 そして兄妹は物音を立てないよう、そろりそろりと薄暗い巣穴に入ります。


 奥には枯草が敷き詰められ、ほのかに木の根と土の匂いが漂っています。大きな体を丸めて眠っている母親のそばにハチの巣を置くと、二匹はホッと胸を撫で下ろしました。


「お母さん、喜んでくれるかな」


 リースが声を潜めて言いました。


「当たり前だろ、僕らに食べ物を食べさせて自分は我慢してるから、はらぺこなんだ。喜ぶに決まってるさ!」


 ヴォンも小声で、嬉しそうに言います。


 母熊は限りある食べ物を子供達に与え、自分は我慢しているのだと優しいヴォンは見抜いていました。事実、母熊の体は痩せ衰えていたのです。


「——また勝手に遠くへ行ったの?」


 どうやら、母熊は起きていたようです。言いつけを守らなかった子供たちに怒っているのか、その声色は穏やかではありません。


「——! ……ごめんなさい」


「ごめんなさい……」


 眠っていると思っていた母親に突然声をかけられた兄妹は驚き、すぐに謝ります。


「……だって母さん、お腹空いてるでしょ? 僕らにだけ食べ物をくれてるから……」


「わたしたちも、お母さんにお腹いっぱいになってほしくて」


 兄妹は丸くなって寝転がっている、痩せ細った母親の背中に向けて言いました。


「ばかな子たちね。私のことは気にしなくていいのに」


 母熊はどこか嬉しそうにそう言うと、兄妹を大きな前足で抱きしめます。


「本当にありがとう。でも、ヴォン。もう無茶はしないで。——でないと、“傷顔”に食べられてしまうわよ」


「はぁい……」


 そうしてしばらくの間、親子は互いの愛情を確かめ合うようにして抱きしめ合っていました。





「——母さん、どうしたの? まだ起きないの?」


 時間が経ってもなかなか起き上がらない母親を、ヴォンは心配そうに揺すります。母親の体力の衰えは著しく、子供のヴォンから見ても分かってしまうほどでした。


「なんでもないわ。もう起きるから……——」


 母熊は重そうに一度は体を起こしますが、すぐに倒れ込み、そのままぐったりとしてしまいました。


「母さん!」

「お母さん!」


 兄妹は倒れた母親に慌てて駆け寄ります。すると、かすかに息をしているのが聞こえてきました。母熊はかなり衰弱しているようです。


 彼らのように冬眠する動物は、空腹で目覚めても困らないように、秋になると食料を蓄え始めます。ですが親子が住む山脈の麓では、十分な食料を確保することは難しく、もともと飢えていた母親は病気になってしまったようです。


「母さん、ハチミツだよ! これをなめれば元気になるよ!」


 そう言って、ヴォンは母親の口元に砕いたハチの巣のかけらを押し付けます。母親は力なく舌を伸ばして巣から滲み出るハチミツを舐めますが、起き上がる気配はありません。体が大きい大人のクマには、もっとたくさんの食料が必要でした。


「お母さん……」


 リースはつぶらな瞳に涙を浮かべ、母親を心配そうに見つめます。その妹の表情を見て、ヴォンは決意しました。


「——リース、母さんのそばにいてあげて。僕は、なにか母さんを助けられるものを探してくる」


「でも……危ないよ、ひとりじゃ……」


「リース、よく聞くんだ。僕は必ず戻ってくるから、それまで母さんを守っていて!」


 リースは不安そうな表情を浮かべますが、ヴォンの勇気に満ちあふれた瞳を見て、ゆっくりとうなずきました。


 こうして、ヴォンは一目散に巣穴を飛び出しました。


 背後からリースの鳴き声が聞こえますが、ヴォンは振り返りません。


 母親の命を救うため、勇敢なヴォンは再びフェルリンデの森を目指して駆け出したのです。 


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