第13話 物事は単純にはいきません
「っ、この匂い……!」
遅れて獣から漂う匂いに気がつき、フタバは咄嗟に身構える。
獣が身に纏っている匂いは、厄獣のそれではなかった。『客人』特有の違和感があるその匂いに、フタバは全身で警戒をあらわにした。
どうしてこんなところに『客人』が。まさか、事件に関わり合いがある個体か……!?
己の中の厄獣の血を喚起し、攻撃の態勢に入る。ざわざわと何かが肌を這い回るような感覚を経て、超人的な筋力がフタバの全身にみなぎった。
目の前の敵を注視し、『客人』が仕掛けてきたらいつでも迎撃できるように静かに威嚇の表情になる。だが、対する『客人』はそんなことは気にせずに首をかしげた。
「ぴゃん?」
「……」
頭と手足があるだけのモップのようなその『客人』は、くりくりと丸い目でフタバを見上げるばかりだ。敵意がみじんも感じられないその視線に、フタバはやりづらそうに顔をしかめる。
そのまま一方的に警戒をすること十数秒。
どうやら相手に敵意がないらしいことを悟ったフタバは、威嚇の体勢を解いて『客人』の前にしゃがみ込んだ。
「テメェ、どこから来たんだ。迷子なのか?」
「ぴゃん?」
小さな子供にするように、ほんの少しだけ柔らかい声色でフタバは尋ねる。だが、『舌禍』を有していないフタバの言葉が通じるはずもなく、『客人』は不思議そうに彼女を見るばかりだ。
フタバは額を押さえて大きくため息を吐いた。
「はぁー……、話ができるわけねぇのに何やってんだ私は」
つい、弱い奴を保護して回っていた昔の癖で声をかけてしまったが、目の前のこれは返事が来るはずもない相手だ。
それどころか人の道理が一切通じない相手だということを思い出し、フタバは自分自身の行動に頭が痛くなる思いがした。
「……昔のことを思い出してたからかねぇ。アンタみたいなよく分からねぇ奴に手を差し伸べるなんて」
「ぴゃん、ぴゃん!」
「うわっ!?」
独り言めいたその言葉に、自分に対して話しかけられていると勘違いしたのか、『客人』はフタバの腕の中に飛び込んできた。
まるで抱っこをせがむ犬猫のようなその仕草に、咄嗟にフタバは『客人』が落ちないように両腕で受け止める。
「っぶねぇな、いきなり!」
「ぴゃんぴゃぴゃん」
フタバの文句を完全に無視して、『客人』はフタバの腰に巻かれたボディバッグへと鼻を近づけていた。そこに入っているものを思い出し、フタバはふっと笑いを漏らす。
「……めざといな、腹が減ってるのか?」
「ぴゃん?」
「待ってな。ちょっとなら飯を分けてやる。ただし食ったら大人しくしてるんだぞ」
「ぴゃんぴゃん!」
言葉が通じていないのは承知の上で、フタバはそんな約束を『客人』に取り付ける。『客人』のほうもなんとなくフタバの言っていることが分かっているのか、奇妙な鳴き声で返事をした。
「……ほら、ゆっくり食えよ」
フタバはボディバッグから栄養スティックを取り出すと、食べやすいようにそれを砕いてやり、手のひらの上に出して『客人』の顔に近づけた。
『客人』はそれをふんふんと匂いで確認した後、フタバの手のひらを舐め取るようにそれを食べ始めた。
獣特有のざらざらとした舌の触感が手のひらから伝わり、フタバは場違いにも頬を緩ませた。
「まったく、本当にどこから来たんだ? 元いたところに帰してやるから、私から離れるんじゃないぞ」
「ぴゃん」
「はっ、何言ってるかわからねぇよ」
笑いながらもフタバは『客人』の頭をぐりぐりと撫でる。その感触が気持ちよかったのか、『客人』は自分から頭を押しつけてもっと撫でるように要求してきた。
その要望に応えて、フタバはいささか乱暴に『客人』の頭を撫でる。ただの小動物のような挙動をする『客人』を眺め、フタバはぽつりと呟いた。
「……みんながみんな、お前みたいな単純な生き物ならいいのにな」
「ぴゃん?」
頭を撫でる手を止めたフタバを『客人』は見上げる。フタバは力なく肩を落としていた。
「時間が解決するなんてよく言うけどな。年月が経つほど取り返しがつかないぐらいみんな歪んでいくばっかりだ。……私は、もう疲れちまった」
フタバの脳裏に浮かんでいるのは、昔なじみの顔だった。彼のしていることを、いつまで自分は見過ごし続けるのか。罪悪感と諦めばかりが胸に落ちる。
こんなドロドロとした因縁を、次の世代に持ち越したくない。殺し殺され、どれほど経っても憎しみの連鎖は続くばかり。
厄対を呼んだのは内部告発のつもりだった。当事者である自分の手ではもう、止められない段階まで来てしまっている自覚はあったから。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。どうしようもない状況を放置していたのなら、せめて幕引きは自分自身が行うべきなんじゃないのか。
「どうするべきなんだろうな、私は」
ぽつりとつぶやき、フタバは『客人』を抱きしめる腕に力を込める。
『客人』はしばらくされるがままになった後、不意にフタバの体をよじ登って、彼女の顔をべろべろと舐め始めた。
「うわっ、なんだよいきなり! 顔を舐めるな!」
フタバは抵抗したが、『客人』は相変わらず彼女の顔を舐めるばかりだ。強く拒絶することはできなかった。その行動が慰めの意味を持っていることは分かってしまったから。
そのまま数十秒顔をなめられていると、不意にフタバが首から提げているスマホの着信音が鳴り響いた。
フタバは『客人』を自分から引き剥がし、着信を取る。
「もしもし?」
「フタバ課長、人間至上主義者によるテロが発生しました。場所は――」
最悪の方向へと転がり続ける状況の報告を聞き、フタバは立ち上がる。
「私は行くが、お前は――」
そう言いながら辺りを見回すも、すでに『客人』の姿はどこにもなかった。
どうやら着信に驚いてどこかに逃げてしまったらしい。
「……はぁ、まあいいさ」
ぽつりとそう言いながら、フタバは現場に向かって歩き始める。
破滅はもうすぐそこまで迫っている。
フタバは強くそれを自覚していた。
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