第9話 二人そろってお人好しです

 平日の市役所を、少年は小走りで逃げていた。


 バレてしまった。このままでは連れ戻されてしまう。せっかくこうやって、自由に動き回る体を手に入れたのに。


 少年のパタパタとせわしない足音が、庁舎の廊下に響く。


 足を動かして走るごとに幼い体は息切れを起こし、曖昧な存在だった頃には体験したことのない『苦しさ』を知覚する。


 むせてしまいそうなのを堪え、慣れない呼吸を繰り返しながら少年は考える。


 生きるってこんなに苦しいことだったんだ。


 でも、とても楽しい。


 右を見ても左を見ても、生き物ばかり。


 仕事をしたり、口論をしていたり、トラブルを起こして取り押さえられていたり。


 体を手に入れる前は、世界がこんなにも騒がしいだなんて知らなかった。ずっと恋焦がれた場所に、今、僕はいるんだ。


「ふふ、あはは!」


 自然と笑いが口から漏れる。


 楽しい。嬉しい。僕は自由だ。


 そんな爽やかな感情とともに少年は駆けていったが――ふとした拍子に自分の足につまずいて、体のバランスを崩した。


「わっ!?」


 受け身のやり方もしらない体は、とっさに手をついて転ぶこともできず、廊下に派手に倒れ込む。鼻を中心に、強い痛みが走った。


 すぐに起き上がろうとしたが、顔面を強打したせいで視界は揺れ、うまく立ち上がれない。


 そんな少年の前に、妙に気迫のある年配の女性が立ちふさがった。


「おい、坊や」


「ひっ」


 ぼやけた視界の中でも、女性の放つ凶暴性ははっきりと知覚でき、少年は小さく悲鳴を上げる。すると、彼女は拗ねたような声を上げた。


「……そう驚くんじゃねぇよ。ちょっと傷ついたぞ」


「えっ」


 意外なことを言い出した女性にあっけにとられていると、女性は少年をそっと抱え上げて、近くのベンチに仰向けに寝かせた。


「あまり動くなよ。頭を打ってるからな」


「う、うん……」


 乱暴なだけで怖い人ではないらしい。


 でも、ここで下手に立ち回れば、自分はあの厄対という人々のもとに連れ戻されてしまうだろう。


 自由を手に入れた喜びで覆い隠されていた不安がこみ上げ、少年はごくりと喉を鳴らす。


 女性はそんな少年の様子には気づかずに、何気ない調子で尋ねてきた。


「私はキイコ。この市役所の職員だ。お前は?」


 名前を尋ねられ、少年は困り果てる。


 厄対の人たちにはいくつかの嘘をついたが、名前がないということだけは本当だ。


 問いかけに答えることができずにいる少年に、キイコは重ねて尋ねる。


「パパとママはどうした? はぐれちまったのか?」


 キイコの声色は、心の底から少年を心配しているものだった。


 そんな風に心配されたことなんてなかった少年は、キイコに嘘をつくことにわずかな罪悪感を抱いて押し黙る。


 少しの間、迷った末に、少年は本当ではないが嘘でもない答えを口にした。


「シータさんがお父さんで、タマキさんがパパなんです」


「は?」


 端的な爆弾発言にキイコは一旦固まると、肩を震わせて笑い出した。


「くくっ、そうか……あーっはっはっは! シータとタマキが人の親ぁ!?」


 文字通り手を叩いて大声で笑うキイコに、信じてもらえなかったのかと少年は拗ねた目を向ける。キイコは目の端に浮かんだ涙を拭いながらフォローした。


「あー悪い。嘘だとは思ってねぇよ。お前はあいつらの息子なんだろ? もっと胸を張れって」


「……うん」


 自分は、タマキとシータを騙して利用しようとした。


 自分にとって二人は憧れの存在だ。彼らがいなければ、自分はこうしてここにはいなかった。ある意味では、彼らが自分の生みの親だということは本当だ。


 そんな二人を騙して、危険な目に遭わせようとしていることへの罪悪感が、キイコへの返事を曖昧なものにしてしまう。


 キイコはそんな少年の様子には気づかず「よし」と言うと、ベンチから立ち上がった。


「そういうことなら話は早いな。待ってな。あいつらをとっ捕まえて連れてきてやるからよ。これからは一人で探検するのは、ほどほどにな?」


 一方的にそう言うと、キイコは厄対の事務所のほうに歩き始める。


 少年は慌てて起き上がった。


「ま、待って!」


 大声でキイコを制止すると、廊下を歩く人々の視線が少年に集中する。少年はまだじんじんと痛む鼻先を押さえながら、言葉に迷って俯いた。


「僕、その……」


 何を言えばいいのか分からない。でも、とにかくキイコに彼らを呼ばれては困る。


 彼らはもう自分が人間でも厄獣でもないと知ってしまった。捕まれば、強制送還されるのは間違いない。


 それだけは嫌だ。でも、どうすれば。


 悶々と考え込む少年にキイコは立ち止まると、少し思案した後に少年の前にしゃがみこんだ。


「坊や、どんな事情があるかは聞かねえけどな。何か困ったことがあんなら、ちゃんとパパたちに言ったほうがいいぜ?」


「……え?」


 意外な言葉をかけられ、少年は目を丸くする。キイコは歳を重ねた顔の皺を深め、少年の頭をぽんぽんと撫でた。


「あの二人は正反対なようで、天然でお人好しなところはおそろいだからな。お前がちょっと無茶を言っても、聞く耳は持ってくれるだろうよ。だから一度、ちゃんと相談してみな?」


 柔らかな口調で諭され、少年は戸惑いと困惑の目をキイコに向ける。


 確かに、あの二人なら自分の話を聞いてくれるかもしれない。素直に事情を話したら、自分の目的に協力してくれるかもしれない。


 でも、もし拒絶されたら。もし存在を否定されたら。


 存在そのものを揺るがす恐怖に、少年はキイコの言葉に答えられないでいた。


 聞き覚えのある声が、廊下の先から聞こえてきたのはその時だった。


「いた!」


「見つけました」


 ハッと顔を上げると、タマキとシータがこちらに駆け寄ってくる姿が視界に入る。


 少年は心の内側に巣食った恐怖から、思わず一歩後ずさった。


「あ、あの……えっと……」


 少年は、言い訳じみた言葉を口にしながら逃げ出そうとする。だが、それより先にタマキとシータは腰をかがめて、少年に語りかけてきた。


「ごめんな、急に悪者みたいに言われて怖くなっちゃったんだな」


「結城課長には、配慮が足りていないと文句を言っておきましたのでもう大丈夫ですよ」


 口々に言われたのは、自分に対しての謝罪だった。


 まさか謝られるだなんて思っていなかった少年は、驚きで逃げ出しかけた足を止める。


 そんな少年に、タマキとシータは真摯な眼差しを向けた。


「俺たちは、君に危害を加えたいわけじゃないんだ。どうか信じてほしい」


「あなたが嫌がることは極力しないと約束します。何しろ、僕たちはあなたの父親らしいので。父親が子供を守るのは当然です」


 父親であることを強調するシータに、タマキは胡乱な目を向ける。


「……その設定、まだ続けるんですか?」


「設定ではなく事実です。彼がタマキ後輩に認知を迫ったのは本当のことですし。それとも、子供からの好意をないがしろにするんですか?」


 ああ言えばこう言うというやり取りをわいわい続ける二人に、少年はぽかんと口を開けてそれを眺めることしかできない。


 キイコはそんな少年の肩を抱いて、にやりと笑った。


「ほらな? とんだお人好しどもだ。もうちょっとだけ、信じてやってもいいんじゃねぇか?」


 肩を抱かれたことでキイコの体温が伝わり、じんわりと体が温かくなる。


 少年は何度もキイコとタマキたちを見比べ、やがてキイコにそっと送り出される形で彼らに歩み寄った。


「シータさん、タマキさん」


 名前を呼ぶと、二人の視線が少年に集中する。


 少年は、はた迷惑で、身の程知らずのわがままを、勇気を振り絞って口にした。


「僕、帰りたくない。僕の存在を、認知してほしい」

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