012 修羅場

 僕の大学生活が軌道に乗ってきた。

 平日の日中は真面目に講義。同級生たちとも打ち解けて、昼は何人かと一緒に学食に行くこともあった。四限が終わってからは真っ直ぐボックスだ。


「お疲れさまでーす」


 もうすぐゴールデンウィーク。かなり気温が高くなっていて、ボックスの窓は開け放たれていた。澄さんだけが椅子に座ってスマホをいじっていた。


「お疲れ……」


 まだ澄さんとはきちんと話ができていなかった。他の二人がいると彼は黙っていることが多いのだ。まずは音楽の話を振ってみることにした。それなら乗ってくれるはずだと思ったのだ。


「澄さんっていつから楽器されてるんですか?」

「ん……二歳の時からピアノ習わされてた……」

「凄いですね!」

「そうでもない……親の趣味に巻き込まれただけ……」


 澄さんの目線はスマホのままだが、こういうのにも慣れてきた。


「一番好きなのはギターだっておっしゃってましたけど」

「そうだね……小学生の時にハマった……」

「きっかけとかあったんですか?」

「楽器店やってる叔父がいて、ピアノが嫌なら他の楽器はどうだって色々させられて……それでだよ」


 やはり音楽の話だと沢山話してくれるみたいだ。澄さんは電子タバコを取り出し、今度は僕に尋ねてきた。


「それより瑠偉くん……バイトどう、慣れた?」

「まだ慣れないです。覚えることも多くて。澄さんってバイトされてるんですか?」

「古本屋の店番やってる……暇だろうと思ってたけど案外やること多い……」

「やっぱり働くのって楽じゃないですよねぇ」


 すると、澄さんはこんなことを言い始めた。


「櫻井さんに童貞売らないの……楽に稼げるよ……」

「売りませんよ!」

「ぼくは即売ったけど……」

「えっ」


 僕は固まってしまった。まさか本当に売った人がこんなに身近にいたなんて思いもしなかった。澄さんは続けた。

 

「挿れて出すだけで一万円だよ……コスパいいバイトだと思うけど……」

「えっ……僕は二万円って言われましたけど」

「……はっ?」


 澄さんは大きく目を見開いた後、拳を握って震わせた。


「じゃあ何? ぼくは半値で買い叩かれたの? 納得いかない……納得いかない!」

「いや、そもそも童貞に値段はつかないですよ」

「櫻井さん呼び出そう」

「えっ」


 そのまま澄さんは電話をかけ始めた。どういう事態になるのか容易に想像がついたため、僕は立ち上がろうとしたが、澄さんにギロリと睨まれ動けなくなってしまった。


「櫻井さん。大事な話です。ボックス来てください。すぐ。わかりましたね」


 これから始まるのは確実に面倒くさい修羅場だ。全てを諦めた僕はタバコに火をつけた。


「どしたん澄ちゃん、急いできたでぇ!」


 今日の櫻井さんのシャツは花柄。その襟を澄さんが掴んで引っ張った。


「どういうことですか! ぼくの童貞が一万円なのに何で瑠偉くんは二万円なんですか!」

「ちょっ、澄ちゃん」

「きちんと説明して下さい!」

「その、瑠偉くん好みど真ん中やったから倍出そうと思って……田舎育ちなんも余計にそそって……」

「よくいけいけしゃあしゃあと言えますね!」

「説明せぇ言うたん澄ちゃんやんかぁ!」


 僕は黙って二人のどうでもいいやり取りを眺めるだけだ。澄さんが叫んだ。


「あー! 腹立つ! 今すぐケツ出して下さい!」

「瑠偉くんの前では嫌やって! なぁ、澄ちゃん雰囲気大事にする子やったやん?」


 タイミングがいいのか悪いのか、大城さんがやってきた。


「なになにー? 何で揉めてんのー?」


 澄さんはギリギリと櫻井さんの首を絞めながら説明した。


「ぼくの童貞は一万円だったのに瑠偉くんは二万円なんですよ! 不公平だ!」


 大城さんは、一瞬ポカンとした表情を浮かべた後、お腹を抱えて笑い出した。


「あはっ、あはっ! 童貞にも値段差あるんやぁ! めっちゃおもろいなぁ!」


 どうやら大城さんが止めてくれるわけでもなさそうだ。僕は立ち上がって澄さんの手を掴んだ。


「澄さん、それくらいにしたって下さい。僕は櫻井さんに童貞売る気ないですし」


 力なら僕の方が強かったようだ。澄さんの手を櫻井さんの首からはがすことができた。


「し、死ぬぅ……」


 櫻井さんはへなへなとその場にうずくまった。僕は言った。


「童貞は売り買いするもんじゃないんですよ、神聖なもんなんですから値段つけたらダメですよ」


 ププッ、と吹き出す音が聞こえた。大城さんだった。


「ど、童貞が……神聖……」


 僕は大城さんに食ってかかった。


「そうですよ! 好きな人に捧げるもんでしょう!」

「まあ、せやねんけど、せやねんけど、ごめん、笑ってまう……」


 澄さんは落ち着いたのか、椅子に座って足を組み、電子タバコを吸い始めた。


「もういいです……どうせぼくは一万円の男ですよ……」


 櫻井さんが澄さんにすり寄った。


「なぁ、ごめんて澄ちゃん。今度一万円分のメシ奢ったるからそれで埋め合わせしよ。なっ?」

「嫌です。ぼくに一万円の値段つけたことは変わらないでしょ」


 そろそろいいだろう。僕はリュックサックを背負った。


「じゃあ、僕はこれで……」


 ボックスからは、櫻井さんの猫なで声が聞こえ続けていた。

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