第3話 豆田探偵事務所
グラザ達の後始末を警察に引き継いだ後、豆田はすぐにカフェテラスをあとにした。
「あの。豆田さん。これはどこに向かっているんですか?」
シュガーは、速足で移動する豆田の後ろを追いながら質問した。
「私の自宅兼事務所に向かっている」
何かを気にしている様子の豆田は簡潔にそう答えた。
「この近くなんですか?」
「ああ。もうすぐ見える。急がないと、間に合わない」
「何か用事があったんですね。ごめんなさい」シュガーは小走りしながら謝った。
「いや。用事ではない。コーヒーが冷めそうなんだ。一大事だ」
「え? それだけですか?」シュガーは呆気に取られた。
「ああ。だが、もう大丈夫だ」
そう言った豆田は、ある民家の前でピタリと止まった。
「え? ここ……。ですか?」
シュガーの目の前には、幅2メートルくらいの明らかに細い民家が一軒あった。三階建を超える高さはあるが、ほっそりとしていて、とても人が住めそうな感じがしない。
玄関扉の横に『豆田探偵事務所』と書かれた看板が壁にかかり、黒い傘のライトがそれを照らしていた。
「豆田探偵事務所……」
「ああ。なんのひねりもない名前だが、分かりやすくていいだろ?」
そう言いながら、豆田はターコイズブルーの扉に手をかけた。
塗装が適度に剥げたアンティーク調の扉は、上部がアーチ状になっていて、豆田が押すと、『ギギギギ』軋んだ音を立てた。
「いい音だろ? この音も大切なんだ」
「音が……。ですか?」
「ああ。依頼人のヒントになる」
シュガーは訳が分からなかったが、詮索はやめた。豆田はそんなシュガーの様子に構いもしないで、とっとと中に入ってしまった。
「お邪魔します……」
シュガーは、豆田に続いて恐る恐る中に入った。扉の奥には、小さなスペースがあるだけで部屋は無く、2階へと続く階段だけがあった。どうやら豆田はもう2階に上がってしまったようだ。
「あれ? この階段……。何かおかしい」
シュガーは違和感を感じつつ、階段を昇る。足場材が丁寧に敷かれた階段は、1段昇る毎に『ギシギシ』と心地良い音を鳴らした。
階段を昇り切ったシュガーが見た光景は思いも寄らぬものだった。
「え? うそ!! 凄く広い!」
外から見た細長い建物の外観とは、全く釣り合わない空間にシュガーは驚愕した。
「だろ? お得な物件だ」
豆田は、帽子を壁に備え付けられたフックにかけながらそう言った。
「え? 外観と比べて、広すぎません?」
「はは。シュガー。流石【純人】だ。ここは、建築の【こだわリスト】ドルバランの最高傑作の1つなんだ。彼の作品は空間をも支配する」
「空間を支配するっていうレベルじゃなくないですか?」
そう言いながら、シュガーは、広々とした室内を見渡した。
一言でいうならば、室内は上質なカフェのような空間になっていた。木材の温かさと黒いアイアン、点在する革製品のバランスが見事で、シュガーは初めて訪れた空間にも関わらず、安らぎを感じていた。
階段を上がってすぐの足元は土間になっていて、そこから幅広の階段を4段昇るとオーク材が敷き詰められたメインフロアになっていた。
メインフロアの右手側には、革製の大きなL字ソファーとローテーブル、その両脇に大きなスピーカー。その反対側にカウンター付きのキッチンがあった。
「シュガー。そこのソファーに腰掛けていてくれ、すぐにコーヒーを淹れる」
豆田はそう言うと、キッチンに入っていった。シュガーはメインフロアに上がり、言われるがままソファーに腰掛けた。
「このソファー。凄く柔らかい……」
程よい弾力のソファーに、シュガーは思わず口元が緩んだ。
豆田はその様子を横目で確認すると、棚の上に置かれた黒いヤカンを手に取った。
「シュガー。コーヒーを淹れるが、砂糖とミルクは必要かな?」
「あ。甘い方が好きなので、両方頂いて良いですか?」
「分かった。甘めのカフェオレに合う濃さのコーヒーにしよう」そう言うと、豆田は、ヤカンを火にかけた。
しばらくすると、『カリカリ』と、コーヒー豆を挽く軽快な音が聞こえてきた。コーヒー豆の芳醇な香りが、シュガーの座るソファーまで漂ってきた。
「豆田さん。コーヒーが凄くお好きなんですね」
「ああ。三度の飯より大好きだ。私は特にコクと苦みがあるコーヒーが好きでね。このコーヒー気に入って貰えれば良いが、もし苦手だったら、また違うコーヒーを用意するし言ってくれ」
(あ。コーヒー以外の選択肢はないのね……)
シュガーはそう思ったが、今は黙っておいた。
豆田は急に真剣な表情になると、フィルターをドリッパーにセットし、挽いた豆をこぼさぬように丁寧に入れ始めた。全神経を注いでいるようだ。
(今は声をかけない方が良さそうね)
そう判断したシュガーは、コーヒーを待っている間、再度この空間を眺めた。黒いシーリングファンが見える天井は、梁が剥き出しでとても高い。どうやら、ロフトもあるようだ。
先程まで殺されかけていたのが嘘だと思うほど、穏やかな時間が過ぎていく。
(ワイル博士。 私、なんとか逃げきれました。でも、この後はどうしたらいいですか?)
シュガーの瞳に薄っすらと涙が貯まった。
(ダメだ。弱気になっちゃ。とりあえずは約束だし、まずは豆田さんのアシスタントをやって、その後、琥珀色の目の青年を探す……。今は、そうするしかないわね)
最低限の現状に必要な思考をまとめたシュガーは、(まずは自身が生きている事に感謝しないと)と、思った。
「あの。豆田さん。先程は助けて頂いて、本当にありがとうございます」
「ん? ああ。アシスタントを助けるのは当たり前だろ?」
「あのー。どうして、私をアシスタントにしようと思ったんですか?」
「ああ。それは……。カフェテラスのあの席に座っていたからだが……。あ。ちょっと待ってくれ。お湯が沸いた」
豆田は、コーヒーポットを手にすると、ドリッパーにお湯を回しいれた。その手つきは繊細で美しい。コーヒーの香りが一気にたち、部屋中に芳醇な香りが広がった。出来上がったコーヒーを、ブラウン色のカップに注ぐ。
「本当に、良い匂いですね」
「だろ?」
そう言いながら、豆田はローテーブルにシュガーの分のコーヒーを置き、その隣にミルクと砂糖を置いた。木製の小さなトレイにシルバー色の容器。細部にまで『こだわり』があるのだろう。
「ミルクと砂糖は好みで入れてくれ」
そう言うと、豆田はカウンターチェアーに座った。
シュガーは、両手で優しくコーヒーカップを持つと、先ずは何も入れないまま一口飲んだ。
「このままでも凄く美味しいです!! この酸味と苦みのバランスが素晴らしいです!! こんなに美味しいコーヒーは初めて飲みました!」
シュガーはコーヒーの美味しさに感動し、思わず饒舌になった。豆田はその様子を見ながら満面の笑みを浮かべた。
「このコーヒー豆の苦味が特に好きで、いつも決まった店で豆を買うんだ」
「そうなんですね! 確かにこの味を一度味わったら、他の店では買えないですね」
「そうなんだ! 強靭なオヤジが店主の店なんだが、この味の為に私はこの街に住んでいるんだ」
「え? このコーヒーのためにですか?」
「ああ。その価値がある」
豆田はコーヒーを味わいながら、嬉しそうにそう言った。
シュガーは、コーヒーの深い味わいに浸っているうちに、いつのまにか緊張が和らいでいた。
「ところで、シュガー。アシスタントの仕事として、今すぐやって貰いたい事が一つあるんだが……」
豆田は急に真剣な口調で話し始めた。
「あ! 何をすればいいですか?」
シュガーは、姿勢を正した。
「実は私は敬語を使われるのがどうも苦手でね。悪いが敬語はやめてくれないか?」
「……」
しばらくの沈黙の後、シュガーは大きく息を吸ってから、
「分かったわ! 豆田まめお。これでいい?」と、元気に答えた。
「シュガー。流石だ。素晴らしい。では、アシスタントとしてよろしく頼む。契約期間は先ほどの報酬分として、ひと月でどうだ?」
「え? その期間だけでいいの?」
「ああ。無理やり働かれるのも嫌だしな。もし契約期間後も働いてくれるなら、その時は給料を渡そう」
「本当に嫌なら続けなくてよいのね?」
「ああ。それで頼む」
「分かったわ! 豆田まめお。で、具体的にアシスタントって、何をしたらいいの?」
「それはだな。まずは探偵業の補佐。必要な物の買い出し……。そして、1番やって貰いたいところは、私の足らないところを補って貰いたい」
「足らないところ?」
シュガーは首を傾げた。
「ああ。私は探偵業と、コーヒーについては優秀なんだが、それ以外がまるでダメでね」
「そうなの?」
「ああ。ひどいんだ。ある事に夢中になると、全く他の事が出来なくなってしまうタチでね」
「あ! カフェテラスで会った時も?」
「ああ。あの時もそうだ。これから迷惑かけると思うが、よろしく頼む」
「分かったわ。任せて!」シュガーは、今できる精一杯の笑顔を見せた。
豆田は嬉しそうにコーヒーを一口飲んだ後、
「そうだ。シュガー。クロワッサンしかないが食べるか?」
と、聞いた。シュガーはその言葉で初めて、朝から緊張して何も食べていなかった事を思い出した。
「食べたい! 貰っていい?」
「ああ。すぐに用意する」
豆田はコーヒー片手に立ち上がり、キッチンに入ると、棚からクロワッサンを取り出し、楕円形の木製の皿に乗せた。
「シュガー。クロワッサンは、ここに置いていいか?」豆田はカウンターにクロワッサンを置いた。
「いいわよ。じゃー、そっちに行くわ」
「コーヒーのおかわりは?」
「まだある。これにミルクを入れていい?」
「もちろん」
シュガーは、飲みかけのコーヒーと、ミルクと砂糖を持って、キッチンカウンターに移動した。
カウンターチェアーは、ウォルナット材の丸い座面とアイアンの脚を持つ、そこに座ると、キッチンの内部が良く見えた。
濃いブラウン色のタイルが貼られたキッチンには、豆田のお気に入りのコーヒーセットが綺麗に並んでいた。コーヒーミルだけでも5つある。
「キッチンもオシャレね」
「だろ? コーヒーを飲む空間にも『こだわり』があってね。妥協できないんだ。せっかくだからBGMもかけよう。コーヒー銃!」
「え?」
豆田の持つコーヒーカップから、プカプカと、直径15センチほどの球体が浮かび上がった。浮かび上がった球体は数個の塊に分裂したあと、それぞれ拳銃と小さな弾丸に変化した。拳銃は豆田の右手に移動し、浮遊していた弾丸はシリンダーに装填された。
「よし。いい『こだわり』だ。目標まで距離10メートル5センチ。破壊力を押さえ……。いけ!」
銃口から飛び立った弾丸は真っ直ぐ飛び、オーディオのスイッチに当たった。ソファー横の棚に設置されたオーディオの電源が入り、その横にある大きなスピーカーから、メインフロア全体に優しいBGMが流れた。豆田はコーヒー銃を浮遊する球体に戻した。
「え? 何をしたの?」
「ん? オーディオのスイッチを押しただけだが……」
「違う違う。その……。え? コーヒー?」
シュガーは、豆田のコーヒーカップから浮き出ている球体を指差した。
「ん? さっきカフェテラスで見ただろ?」
「見たけど分らないの。それは何?」
「ん? こだわりのコーヒー」
「いや、そうじゃなくて」シュガーがちゃんと聞き直そうとした時、玄関の扉が開く音がした。
『ギギギーー』
その音が聞こえると、豆田の眼光が急に鋭くなった。
「シュガー。依頼人のようだ」
そう言うと、豆田は指を口元に持って行き、シュガーに「シィーーー」の合図を送った。球体はカップに戻った。
『ギシギシ』と、階段の軋む音が聞こえる。豆田は、それに耳を傾けるとブツブツ呟き出した。
「この扉の開け方は、右利きの165センチ。階段のきしみ音は、体重83キロ。そして、この独特の階段を昇るリズムは、左の腰痛持ち。なんだ……。パン屋『ショパール』の店長マウロか」
豆田はそう推理し終えると、階段を昇ってくる人物に向かって、声をかけた。
「店長! ちょうどオタクのクロワッサンを頂こうとしていたところだ」
「豆田さん。それは食事時に悪かったね」
「いや、気にしなくていい。急用だろ?」
キッチンから見える高さまで階段を上がってきた調理服を着た男は、いつもの事なのか豆田の推理に驚きもしない。
「豆田さん。実は今日は依頼があって、ここに来たんだ」
「分かった。では、ソファーに座ってくれ。話を聞こう」
マウロは、頭をペコっと下げると、メインフロアに上がり、ソファーに腰掛けた。そして、深い溜息を一度ついた。
「で、店長。依頼の内容は?」
マウロは顔をあげ、依頼内容を話そうとしたが、シュガーの存在に気付いた。
「あれ? 豆田さん。そのお嬢さんは?」
「ああ。彼女はシュガー。さっきアシスタントになったところだ」
「初めまして、シュガーです」シュガーは丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。私はパン屋『ショパール』の店長のマウロ。よろしく」
マウロは、簡単な挨拶をすると豆田の方を見つめ本題に入った。
「豆田さん。実は困ったことになってね」
「ん? それは、その疲労度合いと関係あるのか?」
「え……? 流石、やっぱり豆田さんにはすぐにバレるか……」
「で? 何があった?」豆田は、鋭い口調で尋ねた。
「実は、店の従業員のカエデが行方不明になってね……」
「あの優秀な子か。いつからなんだ?」
「昨日からなんだ」
「たった一日でそんなに深刻な事態になるのか?」
「弟と買い物中に急に居なくなったらしいんだ。状況を詳しく聞いたんだけど、どうも普通の事件とは考えにくくてね……」
「なるほど、で、店長は『こだわリスト』の関与を疑っていると……」
マウロは、唇を噛みしめながら、首を縦に振った。
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