9.寄り添いにもとづく社会改良の限界
本作の中で、人間は「ゴミ」と呼ばれる。だが、それだけではない。
コタタマは他のキャラクターからの示唆を踏まえつつ、人間が「力や意思などに大きく左右されない。時空すら飛び越え、丸ごと呑み込み、押し流し、全世界へと波及していく」ような「時代のうねり」(ココナッツ野山, 2022年, 「失楽園」, 『ギスギスオンライン』, https://ncode.syosetu.com/n0776dq/738/)に飲み込まれていると指摘する。人間一人ひとりは、時代のうねりに飲み込まれているので、全体に対して直接何かを変えられるような強さをもっていない者として描かれる。その意味で、西尾維新が切り開いた個人の努力の限界を継承している。
そして、人間たちが社会を変えてきた事実を無視もしない。この時代のうねりあるいは渦に対抗することについてコタタマは、「滝壺に大量の土砂を流し込めば川の流れを変えることだってできる」と述べ、「俺たちが今までやって来たのはそれだ」と前向きな考えも提示する。(ココナッツ野山, 2022年, 「王の力」, 『ギスギスオンライン』, https://ncode.syosetu.com/n0776dq/738/)
この「土砂を流し込む」という比喩は、傍観者や他のプレイヤーの支援者という立場を取り続けた先生というキャラクターによって「情熱」と言い換えられる。
この「情熱」を集約することは、民主的な手続きと考えることも可能かもしれない。さまざまな情熱を持った人たちがあつまり、その情熱を他の人に理解できる言葉へと変換し、意見を交換しながら、最善の道を探る方法である。実際に、作中で選挙という民主的な手続きが行われたこともある。そこで出馬した者たちは演説を行いもする。しかし、これは「ゴミ」たちのゴミではなさそうな部分のみを見る振る舞いでもあるかもしれない。もしくは、コミュニケーションの一つの側面だけをみているのかもしれない。
この集約の手続きとしてコミュニケーションは不可欠だろう。コミュニケーションには「理解させること」、「理解してもらうこと」という性質がある。民主的な手続きも、寄り添うコミュニケーションもまた、理解のためのコミュニケーションを重視する。
しかし、この理解コミュニケーションは、理解する者/理解される者という能動/受動や主体/客体の関係を生み出す。能動的に理解する側の認識の枠組みによって、客体となる理解される者が規定されてしまうのである。統治する者が統治される者を理解し、理解されたものの最善の利益を提供するのである。考えるのは統治する者である。寄り添うコミュニケーションもまた、同様の理解する者がその理解する枠組みに沿って、理解される被支援者に支援を提供していくことになる。
理解のコミュニケーションは単に人間を分類整理するのではない。その理解の枠組みで人の全体の一部を切り取りって把握しながら、理解する者/される者という階層序列化を行なってしまうのである。
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