6.ナナヲアカリの方へ
では、どうすれば良いのか。
ナナヲは、ライブ「NANAOAKARI 2023ー2024 RPG TOUR」(2023年12月23日 於:福岡 DRUM Be-1)において、MCとして「自分の楽曲によって来場したファンの日々の生きづらさは何も解決しないけれど、ライブを楽しんでいってほしい」という趣旨の発言をしている。ここに私たちは2つのことを見出すべきである。
生きづらさ(あるいは弱さやダメさ)は、彼女のライブでは課題解決に行きつかないこと。
そして、それでも楽しむことには何らかの意味があると思っているのである。
何らかの意味と述べたが、彼女のこの発言から意味の内容を確定することはできないだろう。ファンにとっての意味なのか、それとも社会にとっての意味なのか、ベクトルも見えない。
しかし、彼女の作品群が何を楽しんでいるのかは彼女の楽曲から引き出すことはできるだろう。
彼女は、道路に出てしまったミミズの「情けない、弱い 全部見せちゃった 道路の真ん中で」(ナナヲアカリ, 2020年, 「メキシコサラマンダー」作詞:橋本絵莉子 作曲:橋本絵莉子)という様子に、自分自身を同視するかのように歌う。ファンは、この彼女の「弱さ」を見せる様子を楽しむ。その一方で、弱さの象徴である彼女の楽曲に揺り動かされるのである。
ナナヲと2010年的な寄り添いはアプローチが異なる。「寄り添い」は弱さに対して価値の転換を図り、その人が持つ強さを発揮できるように環境を調整する。しかし、ナナヲはむしろ「弱さ」を「弱さ」としたまま受け止め、そこに着目する。
ナナヲの楽曲は言説の内容によって価値を転換しない。なぜなら、そこに描かれているものは「弱さ」でしかないからである。だが、言説と楽曲を楽しませることによって人々を「弱さ」に「共振」させる。
「共振」は、共感ではない。一人一人異なる人生を歩みそれぞれがそれぞれ固有の感受性を持っているために、弱さへの「共感」はあり得ない。似たような苦しさを持ったもの同士で孤立を恐れずに進んでいくものでもない。その意味で「連帯」とも言い難い。弱さに伴走していくわけではないという意味で「寄り添い」でもない。「共感されがたい何かしらの弱さ」のみ共通している者同士が、ただ歌い、揺れ動く情動の中で生まれる指向性を定められていない運動である。
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